【第6話】“本性”
海沿いの道を、同じ方向へ、大勢の中学生たちが群れをなして往く。
凪いだ海面が柔らかな朝陽を優しく照り返し、人の流れに息づく若々しさを爽やかに映し出す。
友人たちとかたまりになって楽しいおしゃべりに花を咲かせている者、仲睦まじく二人一組で手を繋いでゆっくり確かめるように歩いていく者、一人黙々と自転車を漕いで先を急ぐ者。様相はさまざまだが、その目的地は皆同じ、長い距離をかけてなだらかな上り坂となっているこの道の辿り着く先にある校舎である。
男子生徒は白い半袖のカッターシャツに黒いズボン、女子生徒は白い半袖ブラウスに黒いスカートという夏用の制服姿。シャツにもブラウスにもそれぞれ左胸のところに校章マークの赤い刺繍が施されており、全員があの中学校の生徒であることが一目で分かる。
こうして心地よい海風を浴びながらペダルを漕いでいる“俺様”も例外ではない。人間の小童小娘どもの群れに紛れて、自転車でいつもの通学路を駆け抜けていく。
…………ゲ〜ソゲソゲソ! 申し遅れましたでゲソ。
俺様は悪の大海獣、スクィッド・クラーケン!
今はこの通り、人間の小娘の姿に本性を隠し、人間界の動向を偵察中なのでゲソ!
俺様が化けているこの姿……伊香保するめという小娘は、元々は海の使者により授けられたパワーによって“水棲少女”に変身し、我ら悪玉軍と戦っていた正義のヒロインだった。
ところが哀れなるかな、その“水棲少女”というシステムそのものが、我ら悪玉軍が仕掛けた大きな罠だったのだ。変身を重ねる中で自分の身体に悪のエネルギーが侵食していっていることに彼女は気づいていなかった。そしてとうとう身体を俺様に乗っ取られ、この偉大なる悪の大海獣“スクィッド・クラーケン”の素体にされてしまったというわけでゲソ。
肉体の主導権も完全に逆転してしまっている。現在では、スクィッド・クラーケンというイカの化け物としての姿こそが本性であり、その姿から人間界に潜伏するために“伊香保するめ”という人間態に変身している、という具合に。
人間などという下等生物の姿に身をやつさねばならぬのは不本意だが、我らの人間界への侵略活動はいまだ途上、人間どもの生態について地道に調査を続けるためにはこの小娘の姿を隠れ蓑として利用するのが都合良いというわけでゲソ。
他の女子生徒たちと同じブラウスとスカートの夏服姿。地毛のままの黒髪を肩にかからないように後ろにお団子で結び、校則に引っかからないようにきちんとした普段通りの着こなし。どの教室にも居そうないかにもおとなしそうな地味な見た目の方が、潜伏にはもってこいなのだゲソ。
ただ、外観としては一見何の変哲もない制服姿に見えるかもしれないが、実はその下、家の部屋着としても使っているお古の体操服……丸首シャツにショートパンツのセットを、インナー代わりに着込んでいるのだ。
元々このお古の体操服というのは、伊香保するめが水棲少女に変身する際に使用していた謂わば戦闘服とでもいうべきもので、また俺様が伊香保するめの肉体を乗っ取るために使った媒介でもあり、要は俺様“スクィッド・クラーケン”の核にあたる部分、今はピッタリと素肌に貼り付き伊香保するめと同化し一体を成している俺様の本体と言っても過言ではない代物なのだゲソ。……周りの皆と同じ格好をしていると見せかけて実はその下に自分一人だけ本性を隠している、なんて想像してみると、なんだかドキドキするでゲソね……。
駐輪場に自転車を停め、伊香保するめの属する2年A組の教室に到着。いつも通り余裕を持って家を出たおかげで、朝のホームルームまではまだ時間がある。
ずっと仲良くしている同じクラスの友達が既に登校していたので話しかける。彼女とはよく教室の片隅でお喋りする仲なのだ。潜伏活動を滞りなく遂行するには、不審がられないよう日頃からの信頼関係の構築と、そのためのコミュニケーションが不可欠なのだゲソ。
「おはよう」
「あ、するめちゃんおはよっ。ねーねー、昨日のあれ、配信見た?」
「……あー見た見た! 最後の、逆再生で回転速度落としてレコーディングするところすごい笑った」
「ねー、ほんとあそこサイケデリック過ぎて草」
友達が言っているのは、アイドル的人気を誇る音楽グループの公式チャンネルが昨晩動画サイトにアップロードした配信番組のことだ。彼女は彼らの大ファンで、俺様も昨日はたまたまその配信を見ていたので、その話題でしばし盛り上がる。
「そういや、するめちゃんってジョン推しだったっけ? ポール推しだっけ?」
「あ、私? 私はね……実はジョージ派」
「わ、そうだったんだ! 渋っ!
でもなんか分かるかも。ジョージって真面目そうだし、確かにするめちゃん好きそう」
「分かる? そうそう、あの真面目そうで素朴な雰囲気がすごく好みなんでゲソ」
「……ゲソ?」
「あ、いや、なんでもない! なんか変な噛み方しちゃった」
「えーなにそれかわいい。ギャップ萌えの教科書に載せれそう」
「あはは、そうかな……」
おうふ……脳内でゲソゲソ言ってたせいで、うっかり語尾にゲソと付けて喋ってしまった。危ない危ない……恥ずかしすぎ……。
俺様が思うに、ジョージはグループの中では二大エースの影に隠れてバイプレーヤーとしての側面ばかりがピックアップされがちだけど、ソロデビューでもしてみたら一気に輝くんじゃないかなって俺様は睨んでるんでゲソ。
べ、別にこれは古参ヅラしたいから言ってるわけじゃないんでゲソ! 単純に好みだから推してるだけなんだゲソ!
そんなふうに雑談しているうち予鈴が鳴る。始業時間が近い。
友達は今日は日直当番をあてられているらしく、お喋りはここまでにして授業準備のために一旦解散。
この時間になると部活の朝練に行っていた生徒たちも教室に集まりだして、クラスが俄かに活気付いてくる。
今のうちにお手洗いを済ませておく。
戻ってきて自分の席に戻ろうと教室後ろの出入り口から室内に入り直そうとした時のこと。
同じクラスの男子生徒である海野コウシ君が、廊下の向こう側からちょうど歩いてきたところだった。スクールバッグとは反対側の肩に部活用の黒いリュックを提げて、私とほぼ同時、教室に入ろうとしていた。
私は立ち止まり、大荷物を持っている彼に扉の前を譲ってあげる。
ほとんど同じタイミングで彼もこちらに気づいて、一瞬、身を引いて譲ろうという素振りを見せようとしていた。ただ、私の方が気づくのがわずかに早く、譲りますよという意思を先に示していたので、彼はご丁寧にペコリとお辞儀してから教室の敷居をくぐっていく。
「お、おはよう、伊香保さん」
「おはよう、海野君」
すれ違いざま、挨拶を交わす。
海野君は私と背丈がそんなに変わらない。ほんの少しだけ海野君の方が高いくらい。なのに、なぜか彼とはいつも微妙に視線が合わない。
道を譲られたくらいでそんなにかしこまらなくても……。というより、まさか、わざと視線が合わないように逸らされてたりして?
露骨に避けられてるって感じではないと思うんだけど……。
授業に必要なものをロッカーから取り出して、静かに自分の席に収まっていく彼の後ろ姿が目に入る。
挨拶の時に微妙に視線が合わなかったせいか、彼の横顔の残像が、妙に色濃く脳裏に浮かんだままだった。
今更ながら、そもそも海野君がどういう人なのか、いまだによく知らないことに思い至る。
私とは特別に仲が良いわけではなく、頻繁に喋ったりという間柄ではない。とは言え、委員会活動や授業の一環で会話をしたことなら何回かあるし、その延長線上で挨拶を交わすくらいの関係性ではある。
海野君がどういう人か……。
直感としては、どちらかというと好印象寄りである。彼は教室ではおとなしく目立たない方で、真面目に授業を聞いていて、話した感じだと素朴で優しい性格みたいで、なんとなく私と似たタイプであるように思う。
……タイプが似ているということは、それすなわち、互いに積極的に仲良くなっていこうという姿勢が希薄であることでもある。
田舎の中学校という閉鎖的な空間に思春期の繊細な人間関係の網目が詰め込まれているという環境下において、私たちみたいなタイプの生徒は、なんやかんや色々考えた末に、交友関係は広すぎず狭すぎずの程々ぐらいが丁度良いという結論に収斂しやすいのだろう。その結果、私たちみたいな生徒同士というのは、外観上の系統が一見似通っていたとて、同性同士ならともかく、男子と女子とで接点を持つことは案外なかったりする。
もしかすると色々お喋りするうちに共通する趣味みたいなものが見つかってすごく仲良くなれるかもしれないし、あるいはそうならないかもしれない。ただ、そもそもそこまで至るキッカケ自体が乏しい。
だから、私が海野君に抱いているこの好印象も、あくまで表面的な、ボンヤリとした直感に過ぎないものだ。
それにちょっと意地悪な表現になるけれども、中学生という年代特有の現象なのだろうか、女子の目線からすると同年代の男子というのは子どもっぽく見えがちだったりする。教室や出先で騒いでいたり、感性が幼く見えてしまったり。そういうヤンチャな子たちとの比較によって相対的に落ち着いてるような印象を抱き、その分高評価になっている可能性はある。私は男兄弟もいないから参考事例も少なく、そのバイアスの度合いがどれほどかまでは分からないけれども……。
…………ていうか、なんでさっきから私は延々と海野君のことについて考え込んでしまっているんだろう。まるで、自分の中にある彼に対する印象がどれだけ正しいのか確かめたがってるみたいではないか。そんなこと、きっと彼からすると迷惑だろうに。
今日は自分自身の中にいつも以上の“客観的な視点”が巣くってしまっているせいかもしれない。
さっきから頭の中で、スクィッド・クラーケンが『か〜! 甘酸っぱいでゲソね〜!』と囃し立ててきて煩わしいったらない。
いやだからさ、そもそも海野君とはそんなに深い関係なんかではないんだってば……と、自分で自分に脳内ツッコミを入れる。
取り留めのない一人相撲はここまで。ちょうど始業のチャイムが鳴り始めたので、雑念にはここで一区切りをつけることにする。
◆
……さて気を取り直して。
今の俺様はこの通り女子中学生の姿、学生の本分はやはり勉強。いつもと同じく、今日も今日とて、この教室で六限目まで授業をしっかりみっちり真面目に受けたわけでゲソ。
ゲソソソソ……人間どもめ、まさか教育という形で宿敵である我ら悪玉軍に塩を送ってしまっているとは思うまい!
それにしても、五限目の数学は昼食でお腹が満たされていることもあって、眠くてたまらなかったゲソねぇ。もし先生に問題を当てられてたらヤバかったゲソ。
大体、イカには腕が十本しかないんだから、それより大きい数をかぞえろと言われても無理があると思うゲソ!
ていうか、伊香保するめは普通に勉強は苦手でゲソ! 見た目的に教室ではおとなしくて眼鏡もかけていて校則をきちんと守っているが故に、学業も優秀な優等生だと勘違いされることが多いんだけれども!
いつも背筋をピンと伸ばした姿勢で真面目に先生の話を聞きながらさも分かったような顔をして板書をノートに写しているように見えるかもしれないが、大体そういう時というのは、頭の中ではボーっとして半分寝ているような状態か、ご飯のことを考えているか、あるいは触手がグチョグチョヌチョヌチョとくんずほぐれつしているおピンクな場面を思い浮かべているか、そのどれかだゲソ。
得意科目は理科の生物分野か保健ぐらいで、その他はちょっと反応に困るような成績だゲソ! しかも、理科に関しては化学のところはやっぱり苦手だし、保健も成績表では体育とひとまとめにされるものだから、結果的に満遍なく壊滅した通信簿が出来上がるわけでゲソ……。罪に対して罰が重すぎるゲソ!
……なんて適当なことを考えているうちに、今日最後の授業、六限目の体育も終わりを迎えようとしていた。
女子の方は体育館でバスケットボールのゲーム形式。
スポーツはあまり得意ではないので、試合中はもっぱらゴール下でディフェンスの役割に専念することにした。
実は、今朝出かける時に六限目に体育があるのをすっかり忘れてしまっていて、そのことに登校してから気づいて少し焦ってしまった。
制服の下にお古の体操服を着ていたことで、体育の授業で使う用の新しい体操服を別個で持ってくるのを忘れてしまったんでゲソ。
このお古の体操服は一年生の頃に買ってもらった物で今となってはややサイズが小さく、ピチッとした見た目になってしまうので、少し暑いけれども仕方なく上からジャージを着て授業に臨んだわけでゲソ。
それに、今現在はこの丸首とショートパンツの体操服こそが俺様の本体である以上、ジャージを着ずにこの丸首とショートパンツだけの姿でいるということは、それすなわち衆人環視の下で全裸を晒しているも同然なのだゲソ! 破廉恥すぎるでゲソ! さすがの俺様もそこまで変態ではないでゲソ!
……俺様はさっきから何を言ってるんでゲソ?
ちなみに、相手チーム側でディフェンスポジションを担っていたのは、隣のクラスの倉下みつきだった。実はこの小娘も水棲少女で、伊香保するめとともに戦う仲間なのだ。
常日頃のボーっと突っ立っているような様子や小柄な体格とは裏腹に、こちらのチームのパワーフォワードが狙うゴール下からのシュートをリリースポイント直後で効率良く捌いてみせていた。
素晴らしい戦闘センス。やはり油断のならない小娘でゲソ……。今度一緒にお買い物でも行って、情報を収集しなければならないゲソね……。
◇
やがて授業が終わって片付けも終わり、帰りのホームルームまで少し時間があるので、今のうちに更衣室で制服に着替えてしまう。この学校では、登下校の際はきちんと制服姿に着替え直してから校門をくぐるよう、校則で定められているのだ。
不思議なもので、コートの半分未満の範囲で守備に徹していただけでも良い汗がかけた気がする。
ジャージを脱ぐと、その中の丸首シャツとショートパンツから、汗の匂いがフワッと立ち昇ってくる。
一瞬、これらも一緒に脱いで帰った方がいいだろうかと少し迷ったけれども、そもそも代わりのインナーを持ってくるのを忘れていたのを思い出す。どのみちこのあとは部活もなく家に帰るだけなので、またこの体操服の上から制服を着直して、そのまま帰ることにした。
◇
そして更衣室から教室まで戻る途中のこと。並んで歩いていた友達が突然何かを思い出したように「あ、やばっ……」と呟いて、頭に手を当てた。
何事かと思って見ていると、俺様に向かって申し訳なさそうな様子で、ある頼み事をしてきた。
「ごめん、するめちゃん……放課後の日直の仕事代わってくれない? 塾の課題やらないといけないの、すっかり忘れちゃってて……」
どうやら、急いで家に帰らないといけない用事を思い出したようだった。なんだ、そんなことか。
「あ、うん、いいよ。私はあとは家に帰るだけだし」
「ほんとう? ありがとう〜。この埋め合わせは絶対するから」
ことさらに感謝の表情を浮かべ、友達は両手を合わせて拝んでくる。
礼には及ばないでゲソ! 来週の給食のおかず、俺様の好物である海苔の佃煮で勘弁してやるでゲソ!
◇
教室に戻ると程なく帰りのホームルームが始まる。
男子の方は体育が終わるのが少し遅かったようで、既に大半が着替えを済ませている女子とは違って、そのほとんどがホームルームに体操服姿のまま参加していた。運動部に所属している男子生徒も結構いるので、多くはそのまま部活に直行するつもりなのだろう。
大きな学校行事なども直近になく、ホームルームでも大した議題はない。担任による形式的な話が済み次第、程なく放課になった。
これから制服に着替え直す男子や、身支度の続きのためか更衣室に戻る女子、部活に向かう運動部員など、ぞろぞろと教室を出ていく。だんだんと教室から人の姿が減っていく。
「じゃ、よろしくねっ、するめちゃん」
「うん、また明日ー」
足早に教室を後にする友達を見送りながら、頼まれた日直の仕事に取り掛かる。
◇
えーと、放課後の日直の仕事は確か……板書を綺麗に消して、黒板消しをクリーナーにかけて、教室の換気と教卓周りの簡単な掃除、それから日誌も書いて職員室に持って行って……。
思い出しつつ、とりあえず窓を開けていく。
いつの間にか教室には自分ひとり以外誰もいなくなっていた。こんなに早く教室がもぬけの殻になるのは珍しい。
同じく六限目が体育だった隣のクラスも静かで、もう誰もいないようだ。まるで広い校舎の中でこの一区画だけがエアポケットになったみたい。時々、どこか離れた教室で上がる生徒の笑い声や、部活棟の方からのざわめきが、遠く潮騒みたいに響いてくる。
窓際にゴミなどが落ちていないか見回りながら、ふと、教卓に両手を突いて『ゲ〜ソゲソゲソ! この一帯は全て我ら悪玉軍が占領した!』などと高笑いするところを想像する。……いや、実際にはやらないゲソよ? さすがにそれぐらいの分別はつくゲソ。気配がないだけで本当は近くに誰かいるかもしれないし。
でも……ひとっこひとりいない夕方の教室って、なんかドキドキするでゲソねぇ。謎にテンションが上がるというか、誰も見てないことをいいことに、してはいけないことをしたくなってくるような、出してはならないものを出したくなるような、そういう変な気分になってくるのは俺様だけかゲソ? いや、実際にはやらないゲソよ?
そんなしょうもないことを考えていたところ……廊下の向こう側からパタパタと足音が響き渡ってきた。直前まで変な想像をしていたことで、背筋を緊張が走る。足音はこの2年A組の教室の前で止まった。
「ごめん遅くなって。制服に着替えてて……あれっ、伊香保さん……?」
足音の主は、海野君だった。
教室の掃除をしている私の姿を見て、思いがけないものを見たというような顔をしている。
……視線がバッチリ合った私の顔も、彼も似たような表情を浮かべちゃってる気がする。一瞬、なんで海野君が大急ぎで教室まで駆けてきたのか、私を見てそんなに驚いているのか、と考える。
よくよく思い返すと、日直当番は毎日男女一人ずつに割り当てられることになっていて、今日の男子側の当番は海野君だった、ような……。
どうやら、『女子側の当番がもう仕事を始めているのでは』と気づいて、丸投げにならないよう急いで着替えを済ませて戻ってきたようだ。
そしていざ教室に戻ってみると、今日の女子側の日直だったはずの私の友達は既に帰っていて、代わりに私が掃除をしているところを見た……という流れらしい。
ちなみに私はいうと、今日一日『悪の大海獣スクィッド・クラーケンが人間の小娘に変身した姿』という設定の脳内悪堕ちごっこに夢中だったのと、来週の海苔の佃煮をゲットしたことでテンションが上がっていたせいで、男子の当番が誰だったかというところまで気に留めてなかった。
なんか、急に恥ずかしくなってきた……。私すごいバカみたいじゃん……。
ていうか、待って? しばらくの間、海野君と二人きりってこと?
これはもう、脳内悪堕ちごっこなどという頭のおかしい遊びは中止決定である。
海野君に対しては、なるべく変なところを見せたくない。変なところを見られる可能性は消したい。ガッカリされたくない。無意識にそんな気構えになる。
ましてや『ゲソ〜』とか言ってるところなんて絶対見せられない。顔が真っ赤に染まってイカというよりタコみたいになりそう。
「えーと、掃除はこっちでもう終わりそうだから……海野君は、黒板消しの方をお願いできる?」
「あ、うん、了解」
手短に友達から代わったという旨を伝えて、彼に残りの仕事を頼む。
六限目が体育だったので黒板はすぐ綺麗になり、いま彼はクリーナーが置いてある教室の前の方の窓で黒板消しを叩いている。その間に、私は後ろの方に箒でゴミを手早く寄せていく。
海野君はこの後部活もあるだろうし、さっさと済ませた方がいいよね。
それに、今日はあんまり長時間一緒にいると、何かボロを出してしまいそうで怖い……。
海野君も真面目なので黙々と作業は進み、黒板消しもすぐに片付いた。
ちょうど私の方もゴミを掃き集め終わったところで、彼が持っていたもう一本の箒で私の持っているチリトリにゴミを掃き入れてもらう。膝を屈めてチリトリを低めに持つ。
……今更、体操服に染みた汗の臭いが気になり始めた。
海野君と二人で日直の仕事をすることになるとあらかじめ分かっていれば、何か手を打てていたかもしれないのに……。
海野君はすぐ目の前で箒を掃いていて、例の横顔がよく見える。
その横顔越しの西陽の方、換気のために開けた教室の窓から、そよ風が通り抜けていっているのを感じ取る。上手いことこちらが風下になっていることを願う。
「……あの、海野君」
「ん、何?」
「……いやごめん、なんでもない、です……」
「…………?」
焦ると血迷うもので、こうなったら先手を打って汗臭くないか尋ねてしまおうとしたところ、結局その勇気が出なかったのでありました。
私の顔の方を向いた時、海野君の視線の何割かが、おそらくはほとんど無意識に、私の首元……体育終わりで珍しく開けたままにしていたブラウスの第一ボタンの隙から覗いている丸首体操服の赤いリブ状の縁取りのついた襟のところにチラチラと向けられたのが分かった。ブラウスの白に対して、体操服の襟の赤は色合い的にどうしても目立つのだ。
彼からすると『制服の下に体操服着てるんだ』と思っただけかもしれない。
しかし、この瞬間、彼に『ブラウスの下に体操服を着ているところ』を目撃されたという事実が、なんだか気になってしょうがない。
もし『体育で汗かいた体操服をそのまま着てるの?』って、内心引かれてたらどうしよう……。
そうでなくても、一日中脳内悪堕ちごっこをしていたせいだろう、自分の全身の触感上、体操服と素肌とが擦れ合ってる箇所が今日は妙に印象付けされてしまっていて、まるで自分の素肌の感覚がその体操服の表面に至るまで拡張し同化しているような、そんなおかしな感覚になってしまっている。
身を捩って、体操服とその上の制服の生地とが擦れ合うと、まるで素肌と制服とが擦れ合っているような錯覚さえ覚える、そんなおかしな感覚。
そういう状態なものだから、ブラウスの襟元から体操服を見られた瞬間、まるで自分の内側の“本性”を、裸に近いものを彼に目撃されてしまったような気がしたのだった。
チリトリの中身をゴミ箱に捨てにいったときに、素早くブラウスの第一ボタンを閉めておく……。
あと箒とチリトリを用具入れに仕舞うついでに、さりげなく鏡で自分の姿をチェックしておく。まさか夏用の薄いブラウスの白い生地越しに体操服の胸元に縫い付けられた大きな名札とその上の黒い太文字の名前が透けてやしないだろうな……と疑心暗鬼になったからだが、さすがに学校指定の制服ということもありその心配はなさそうだった。
学級日誌は既に友達と海野君とであらかた書き終えてくれていた。今日は大したイベントもなかったので追加で書き入れる内容もない。
二人揃って二階の職員室まで日誌を提出しにいくと、帰り道で明日の授業に使うプリントを運んでおくよう担任に頼まれる。二人で持っていけば往復するまでもないほどの分量だった。
抱えた束の上に風に飛ばされないよう重り代わりのマグネットを乗せられて、教室への帰途につく。
「なんかね、塾の課題が終わってなかったみたいで」
「なるほど、そういうことだったんだ。僕も、先々のこと考えると、そろそろ塾に通わせてもらった方がいいのかなぁ」
「うーん、塾かぁ……(なんか面倒臭そうだなぁ……)」
プリントの束を両手に、海野君と世間話を交わしつつ、教室棟へと繋がる下り階段に差し掛かったところだった。
建物の合間は渡り廊下になっていて、ちょうどそこを校舎近くの海からの潮風が吹き抜けていく。
私を先に行かせて後ろから海野君がついてくる形で階段を降りていく。
「まぁ、伊香保さんは勉強得意そうだし、僕と違って塾に行く必要はないのかもしれないけど」
「えっ、いやいや、そんなことないって……」
良く見てくれるのは嬉しいけれど、そこまで高く見積もられても困る……そう思って、海野君の方を見上げて振り返った、その時だった──。
ビュウッ!と突風が棟の合間、渡り廊下になっている階段を下から頭上へ吹き上げていって、制服のスカートの中身が見下ろすような視点になっている海野君の方からでも丸見えになるくらいバサバサバサッ!と大きく捲り上げられてしまったのだった。
「うほおっ!!?」
「わっ……!?」
ちょうど私が振り向いたところに注目していたせいで、海野君の目が私のスカートの中身をバッチリ目撃してしまったのが分かった。
その瞬間、海野君は『しまった……!?』とでも言いたげな気まずそうな表情を浮かべたのだったが、それも束の間のことだった。
私が、制服のスカートの下、体操服のショートパンツを履いていたのが分かったからである。
海辺が近いこの学校では、渡り廊下をはじめ突風が起こりやすい箇所が複数あることは周知の事実で、その対策としてスカートの下にショートパンツを履いて過ごす女子生徒も少なからずいるのだ。おそらくそれくらいは海野君も知っているはず。
「ちょっと、今の風すごかったね。大丈夫? ごめん伊香保さん、一応謝っとく」
「あ、う、うん……全然大丈夫……気にしないで」
そう、だから今みたいなことが起きても普通なら大丈夫、なはずだった……。
◆
そんなことがあったので、家に帰ってから枕に顔を突っ伏して、こうしてずっとジタバタしているのでありました。
あの渡り廊下から教室に戻って解散して、家に帰ってくるまでの記憶が定かではない……。
ちゃんと家には帰ってこれているので、取り乱したり変なことをしたりして海野君に異変を察知されたりはしてないはず……多分……。
いつの間にか、制服と体操服は脱いで、家用のピンク色の寝巻きに身を包んでいる。帰ってから無意識に着替えたようだった。
スカートが捲れた時、自分はどんな顔をしていただろうか……ちょっと今日のところは思い出す気になれない……。
もうあのピチッとしたサイズの体操服を制服の下に着ていくのはよそう……。お股のところに変な食い込み方をしていなかったことを祈るほかない。
というかもう、日中の脳内悪堕ちごっこのせいで、あの瞬間、自分の肌感覚としては、海野君に裸を見られたも同然の気分だった。
ううぅ……今日一日、本当どうかしてた……。いや、私がどうかしてるのはいつも通りか……あはははは……。乾いた笑いが漏れる。
「お嬢〜、ご機嫌いかがで…………あっ、失礼しやした〜……」
たまたま近くを通りかかったのだろうアカヒトデのアスティが、家の軒下、窓の隙間から私に挨拶しようと覗き込み、即、様子を察して遠ざかっていくのが聞こえた。
うん、今日のところは、そっとしておいてください……。
ゲ〜ソゲソゲソ……悪の大海獣に身を堕とした罪は重かったでゲソねぇ……。