花冷えの追想
薄暗い部屋。
微かに揺れるカーテン。
少しだけ開けた窓。
壁に掛けられて、コツコツと秒針を鳴らす、5分ほど遅れた掛け時計。
入り込んできた風の思わぬ冷たさに、半分ほど読み進めたハードカバーをローテーブルに伏せた。
使い込んでフレームが歪んだ家用の眼鏡をかけ直し、時間を確かめる。
17時53分。
そのまま視線を窓へ向けると、薄いカーテンを透かして、色を無くした街並みが、ゆっくりと、端から夜に塗られていくのが見える。
ひとつ、身震いをして一人がけのソファから立ち上がり、窓を閉めた。
風で飛んできたのだろうか。窓際に薄紅色の小さな花弁を見つけ、私は眉をひそめる。
窓硝子を通して眼下に広がるモノクロには、そこだけ別世界の様に、綻び始めた桜が存在を主張していた。
先ほどの震えは、風の冷たさからなのか、それとも夜に塗り潰されていく畏れからなのか。
あるいはーー
『間』
不意に息苦しさを覚える。いつの間にか呼吸を忘れていたようだ。ゆっくりと深呼吸をして気持ちを落ち着けた。
桜の花が開き始める四月の、花冷えの暮れ方を流し見て、懐かしい記憶がよみがえる。
過去の想い出とは、いつでも鮮やかに。鮮明に私の感情を揺さぶり切り裂く。
去来するのは寂寥と諦念。
もう取り戻すことの叶わないナニカは、思い出すことすら忘れられ、深い深い海の底へと沈んでいった。
18時21分。
そっと頭を振って視線を上げれば、私と同じように時間の流れに取り残され続けている掛け時計が、少し前の時刻を示している。
街はすっかりと宵に染まっていた。
わざとらしくライトアップされた櫻の木は、人工の光に負けたように鮮やかさを失い、今は夜にそなえて艶を溜めているかのように見えた。
ーーざまあみろ。
その姿になんだか憐れみを感じ、密かに溜飲を下げる。
春はキライだ。全身で春を撒き散らす桜もキライだ。
亡くしてしまった想い出を。手を伸ばしても、もう届かない夢を思い出してしまいそうになるから。
カーテンを閉めてそれを視界から追い出すと、手元のリモコンで照明を点けた。
ソファに戻り深く腰掛けると、静かに目を閉じ、部屋の明るさに慣らしていく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
気を抜くと喉元までせり上がりそうになるナニカに、慎重に、慎重に鎖を巻く。もう浮かび上がってこないように。
春はキライだ。
花冷えの季節はキライだ。
諦めてしまった後悔を。投げつけられた、中身のない慰めを思い出してしまうから。
やがて瞼を開くと、小型のファンヒーターをつけ、肌寒さを上書きしていく。
ーー花冷えを、殺していく。
私は伏せたままのハードカバーを手に取り、再び文字の世界に溺れる。
18時51分。
コツコツと、5分遅れた掛け時計だけが私を見ていた。
この部屋には忘れられたまま沈めた夢と、亡くしたナニカに縋る私が、いる。
(タイトルコール)『花冷えの追想』