不浄のサイン
朝。目覚めた女は洗面所に向かった。
口をゆすぎ、顔を洗い終えると、ため息を一つ。
『昨晩はお楽しみだったようで』
鏡を見つめ、声に出さず口だけを動かした。
最近、夫の様子がおかしいことには気づいていた。自分に対し、後ろめたさを感じているような。オドオドと、それでいて訊けば激昂しそうな、そんな危うさが漂っている。
尤も、訊かなくても何があったかは予想がつく。そしてそれをただの杞憂だと捨て置くには、もう疑惑の芽は育ち過ぎた。
さらに今、確信を持った。その理由。この臭いだ。出所は恐らく洗濯カゴの中。夫の白いワイシャツ。
彼女がそれを拾い上げ、顔の前に近づけると夫の汗と体臭が顔に覆いかぶさるように広がった。そして、その中から喉を絞めようと手を伸ばすように女の臭いが鼻をつくと、彼女の脳裏にある情景が浮かび上がる。
慎やかなホテルの一室。カーテンは閉めていない。窓の向こうは宵の口の空。抱き合う二人。見知らぬその女は夫の肩に手を回している。
そしてその笑み。それが、どれほど醜いものであるか気づけない夫と女。
……ただの妄想。今、聴こえた笑い声も幻に過ぎない。
しかし、臭いだけは未だに絡み合い、醜悪な存在感を放っている。
彼女は息を吐き、臭いを遠ざける。もう一度。今度はため息だ。呆れたのだ。こんな証拠を堂々と放置しておくとは杜撰な夫だ、と。
洗濯は私の役目。手に取ることぐらい想像がつきそうなものなのに。抜けている。あるいはどうでもいいと思っているのかもしれない。バレてもいい。妻にどう思われようとも……。
夫婦仲が冷めきっているとは思ったことはない。子供はまだいないけど、いつかはと思い、それなりに仲良くやってきたつもりだ。なのに……。
彼女は今一度鼻を近づけ、臭いを嗅いだ。
夫の浮気相手。一体、どんな女なのだろう……。
目を閉じ、先程よりも鮮明にその姿を想像しようとすると、夫の鼾が聞こえた。それで彼女は寝室のドアが開けたままだったことに気づいた。
しかし相当、お疲れのようだ。なんで? なんて、ああそう。一つしかないか。
彼女は額に手をやり、軽くさすった。
それでも帰ってきただけ良かったと思うべきだろうかと彼女は自問する。
いやいや、そんなの何だか惨めだ、と頭を振り、そして胸の痛みに顔を俯かせる。
それで気づいた。そうか……私は傷ついているんだ。
彼女は涙ぐみ、目を擦った。鼻をすすると不快な臭いがまた鼻腔を刺した。
すべてを飲み込むべきだろうかと自問する。きっと一時の火遊びなんて楽観的な考えも浮かぶ。
そう、でもどうせならそう、ただの勘違い。そうだ、満員電車。隣に立ったのが女だっただけ。最近、様子がおかしいのはきっと仕事で疲れているからだ。
そう考えた彼女だったが、誘われるかのように気づいた。甘い考えを否定する、その赤いものに。
――口紅。
証拠を突き付けられた犯人の気分だ、と彼女は力なく笑った。これを突き付けられるべきは夫のほうなのに。
彼女は赤い染みを指で拭うと洗濯機の中にシャツを放り込んだ。
――これでいい。
彼女は心の中でそう呟き、埋葬するように次々と洗濯物を中に放り込むと、洗剤を入れ、蓋をした。
そしてスイッチを押すその前、目にかかった前髪を脇にどけたその時だった。
――臭い。
絡みつくような臭いだったが、それが何かがわからない。体臭のようではあるがもっと粘っこく、不快でそれでいてゾッとするような。
彼女はふと親指を見た。拭った赤い女の口紅が炎症のように薄く指に広がっている。
次いで、鼻を近づけ、スンと吸った。
血のような臭いがした。
その瞬間、彼女は夫の鼾が止んだこと、そして床がミシッと鳴ったことに気づいたが、辺りを見回そうとはせず、ただいつも通りの自分を演じることにした。
だが洗濯機のスイッチを押すと、その気持ちも混ぜ合わされるように、やがて演技かどうか曖昧になっていった。
夫は私の元に帰ってきた。それでいい、と。