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【完結】美人の先輩と虫を食う  作者: 吉田定理
春の章
9/44

2 G=肉球 × 新郎⑤

 朱雀の駐車場から見上げた月は冴え冴えとして鮮やかだった。僕は両腕を夜空に突きあげて大きく伸びをする。火照った体に風が心地良い。

「食った食った」

 ヒゲづらの斎藤さんが僕の隣に並んだ。

「どうだ? うまかったか?」

「はい、すごくおいしかったです」

 お酒で赤らんだ顔の斎藤さんに、素直な感想を返した。

「さすがにカイコのさなぎの唐揚げが出てきたときはビビりましたけど」

「その割に物おじせずに食ってたじゃねえか」

 斎藤さんがニッと口を歪めた。

「みなさんがおいしそうに食べるので、つい。一個食べたらイメージが変わりました」

「そうだぞ、食わず嫌いは損だ。見た目に騙されてはならん」

 カイコのさなぎはおいしかった。ちょっと『匂う』のだけど、パリパリッとした食感がいい。しかし他の料理はカイコの十倍おいしかった、とは言わないでおく。

「あのカイコも、誰かが命を奪ってくれたおかげで俺らが食えた。カイコだけじゃなく豚肉も鶏肉もおんなじだな。命を奪ってくれたヤツに対しても感謝するのが『虫の輪』流だ」

「はい、肝に銘じておきます」

 僕は大学生になってから初めての幸福感に包まれながら、朱雀での食事のことを回想した。カイコのさなぎの唐揚げも、酢豚も、油淋鶏ユーリンチーも、それがまだ生きていたとき誰かが殺してさばいて、今日の僕らのテーブルに並んだ。だが僕らはその残酷さを全く目の当たりにすることなく、素敵な食事だけをいただくことができる。カマキリの赤ちゃんたちも、いずれ僕らによって食べられる。先輩や斎藤さんが命を奪ってくれたから。アシダカグモの命は先輩が奪ってくれた。

「僕だけが何もしないでいるわけには、いかないですよね」

「あー、いや、すまん。おまえはそのままでもいいんだ。やりたければやる。やりたくないなら無理せんでいい」こういう話は猪俣の役割だな、と斎藤さんが自分の頬を叩く。「どうも酒が入ると余計な話をしたくなっていかん」

 ちなみに斎藤さんは凜ちゃんと先輩のじゃれ合いの後、先輩の普段からの常識はずれな行動についてさんざん説教をしていた。先輩は先輩で軽く流しているようだったけれど。たぶん何度となく繰り返されてきたことなのだろう。

 僕は斎藤さんが先輩に説教しているのを見て、モヤモヤした気持ちだった。斎藤さんが『猪俣』と先輩を呼び捨てにしたときもモヤモヤした。二人の関係が気になって仕方がないのだと、認めざるをえない。

 歓迎会は楽しかった。たくさん話ができたし、たくさん笑った。自分でも驚くくらいに。これこそ、まさに僕の思い描いていた理想だと言える。だけど僕は心の底から笑えたという自信がない。たぶんどこかで恐れているのだ。斎藤さんと先輩が、恋人か、あるいはそれに近い関係なんじゃないかということを……。

 残りのメンバーがぞろぞろと出てきた。全員が顔を見合わせると、先輩が場を取り仕切った。

「本日はありがとうございました。そして渡辺くんも……」ほんのりと赤い頬の先輩と目が合い、それだけで幸せな気持ちになった。先輩は一同を見回す。「みなさんも、また一年間よろしくお願いします! これにて解散!」

 先輩と一緒にいられる楽しい時間が終わってしまった。虫の輪の集まりは隔週だそうだから、先輩と会えるのは二週間後だ。僕はまだ先輩とプライベートで食事に行ったり遊んだりする仲ではない。虫の輪についての必要最小限の連絡をLINEでやりとりするだけだ。

 楽しい時間はやがて終わる。そんな当たり前のことが恨めしい。

「二次会行きたい人は?」

 言ったのは斎藤さんだった。僕はうつむきかけていた顔をあげた。もし先輩が二次会に来れば、まだ別れずに済む。

「僕らはこれで失礼するよ」と須藤教授。まだ高校生の凜ちゃんに配慮したのだろう。

「みなさん、さようなら」凜ちゃんは礼儀正しく挨拶をした。須藤家は別れを告げて去っていった。

 なぜか凜ちゃんは僕だけでなくみんなが食べた後のチキンの骨をビニール袋に入れて持ち帰った。あの女子高生、謎過ぎる……。

「俺、行きますよ」と石橋さん。「飲まなくていいならっすけど」

 石橋さんは意外にもお酒に弱いらしく、ちびちびとしか飲んでいなかったが、こういう賑やかな場は好きみたいだ。

 斎藤さんが僕と先輩を交互に見た。先輩が行くなら絶対に行きたい。だけど行かないならどうしようか。一度行かないと言ってしまえば、もし先輩が行くことになったとき「やっぱり僕も行きます」とは言いにくい。それでは先輩目当てだと言っているようなものだから。

「僕も行きます」

 とにかくチャンスを無駄にしてはならないという思いで、そう答えた。あと返事をしていないのは先輩だけ。恋愛の神様に祈るような気持ちで先輩を見る。

「私はやめとこうかなー。今日は楽しくて暴飲暴食しちゃったし」

 祈りは届かず、先輩の後ろ姿は闇に消えていった。

 斎藤さん、石橋さん、僕の三人が取り残された。

「さてどうするか。俺しか飲まないなら居酒屋よりカラオケのほうがいいか?」

「いいっすね、カラオケ。行っちゃいましょう」

「カ、カラオケって、行ったことないんですけど……」

「マジかよ。おまえ、変わってんなー」

 斎藤さんを筆頭とした虫の輪の人たちには言われたくない。

「まあ、今日は俺がおごってやる。行くぞ」

 ポンと肩をたたかれ、連行される。

「は、はい。お願いします!」

 とにかく度胸だ。度胸を付けなければ何もできない。

 猪俣先輩の歌声を聞いてみたかったな。どんな曲が好きなのだろう? 先輩が来ないのは残念だけど、下手な歌を披露することにならなくてよかったと思うべきか。

 僕ら三人はタクシーを拾ってカラオケ店に向かった。その車中で斎藤さんが前触れもなくこんなことを言った。

「渡辺、おまえ、猪俣のこと好きなのか?」

「い、いやいやいやいやいや! なんでですか!? なに言ってるんですか!?」

「その反応からして図星じゃねえか」

「渡辺くん、分かりやすいっすね。俺ももしかしたらって思ってたんすけど、まさかホントにそうだとは」

 先輩と会って話をしたのは、まだたったの二回目である。さらに言えばこの二人と出会ったのは今日なのである。こんなに早く秘密が露呈するなんて普通ありえない。末代までの恥だ。穴があったら入りたい。でもここはタクシーの車内であり、逃げも隠れもできない。

 僕は運転手のおっさんを含めた三人に、実は先輩のことが気になっていると白状した。実はもクソもないけれど。

「青春だねぇ」と運転手のおっさんが呟く。「青春だな」「青春っすね」と斎藤さん、石橋さんが続く。

「あいつのどこに惚れたんだ? あの虫女の。おっぱいか?」

「確かにでかいっすね」

「ち、違いますよ」

 そういうところしか見てないと思われるのは心外だ。見てないと言ったらウソだけど。

 白状しよう。僕は先輩を好きになってしまったのだ。

「何より、か、か、可愛いですし。明るくて……輝いていて……自分の道を進んでいるっていう感じがして」

「美人には違いねえ。そういやあいつ一昨年あたり、ミスコンに出てたよな?」

「出たっすね。忘れもしないっす」

「マ、マジですか」

 もしかしてググったら写真とか出てくるのだろうか? 欲しい……って、何を考えてるんだ僕は!

 それはさておき、あれほど整った素材を持っているのだから、ミスコン出場も納得できる。どうも先輩は化粧っ気が薄いみたいだが、もっとおしゃれをすれば、女優やらアイドルやらと見間違えるほどになるのではないか。いや、今でも充分きれいなのだけど。

「前評判はよかったっすよね。でも最終的には会場をドン引きさせて、半端な順位に終わってたっすよね」

「そうだそうだ。そんな感じだったな」

「……何をやらかしたんですか?」知りたくないけど知りたくてたまらない。

「あの女、純白のウェディングドレス着て、マダガスカルゴキブリを腕に乗っけて連れてきたわけだ。それだけでやべえが……そのマダゴキを新郎に見立てて、一人寸劇をやった」

「あれは狂気だったっす……」

 うわァ……。言葉が出ない……。

「あれは美人だが残念美人だ。明るくて輝いてる、というのもまあ分かる。しかも時々無防備で妙にエロい。だが自分の道を進んでるってのは、どうなんだ?」

「俺にはただのコースアウトに見えるっす」

「同感だな。あいつの先にも後にも道は見えねえぞ」

「それは、そうですね……」

 言われてみるとそのような気もしてくる。

 だけど先輩への気持ちを消すことはできない。見て見ぬふりをすることもできない。だから僕は少しの勇気を奮い立たせる。

「先輩って周りが見えてないこともあるし、なんて言いますか、すごく常識ハズレなこともありますけど、揺るがない自分を持っていると思うんです。何も恐れていないというか、遠慮しないでありのままの自分を貫けるというか。それは『自分』を何も持っていない僕とは真逆の資質で、まぶしくて、うらやましくて……遠い存在なんです。だからかれるんだと思います」

 まだ二回しか会っていないくせに、先輩の何が分かるんだろう? だけど感じるのだ。先輩は僕にとって特別な人間だと。出会うべくして出会ったのだと。新しい世界への一歩は、先輩と出会ったあの瞬間に始まったのだと。

「渡辺、本気なのか? あの趣味だぞ? あの言動だぞ? とんでもない女だぞ? 寝ぐせも直さないで学内をほっつき歩いてるし、あんな汚ねえ白衣着てても何とも思わないんだぞ? あんな女は探しても他にいないぞ?」

「ほ、本気です。すみません」

 うつむきがちに答えた。なんかそこまで言われると、ちょっとへこむ……。

 斎藤さんがいきなり僕の肩をバシンとたたいた。

「謝るな。悪いことじゃねえんだ。やりたいようにやれ」

 タクシーがカラオケ店の前に停まった。斎藤さんが料金を払い、タクシーを降りた。

「猪俣に彼氏はいない。在学中は俺が知る限り、そういう人物はいない」

「俺も聞いたことないっす」

「今もフリーだろうな。下手したら一生フリーの女だ。渡辺にとっちゃ、チャンスと言えるわけだし、攻めていけよ」

 また肩をたたかれた。よく励まされる日だ。

「斎藤さんは、先輩と付き合ったりということは……」

「ねえよ。地球上にはいい女がいくらでもいるってのに、なんであんな特殊な女を選ぶんだ?」

「で、でも、すごく仲良さそうでしたし……」

「仲がいいというか単に付き合い長いだけだ。あいつの趣味を理解できる人間がそもそもほとんどいないから、俺みたいなヤツはあいつにとって貴重なんだろう。ちなみに石橋はあいつのことをどう思う?」

「俺としましては、顔とスタイルはアリですけど性格はナシっすね。完全に遊びとして割り切るならいいかもしれないっす」

「まあそんなもんだろう、普通は。あいつは控えめに言ってやべえ女だぞ。案外ライバルは少ないかもな?」

 なんだか複雑な気分だ。斎藤さんも石橋さんもライバルでないと判明したのは嬉しいけれど。

「とりあえず店、入るか」

 僕らは受付を済ませ、ドリンクを持って部屋に移動した。ソファーに腰かけ、開口一番に斎藤さんが言ったのは、次のようなことだった。

「猪俣の定番レパートリーを教えてやる。デュオができる曲もあるぞ。あいつはそういうノリは大歓迎だからな」

 ライバルなのではないかと心配していたはずの斎藤さんは、なんだかんだで味方になっていた。

「石橋はうまいぞ。コツを教えてもらえばいい」

「プロ並みっすよ」

「自分で言うな」

 自分で言うだけあって、石橋さんの歌唱力はすごかった。元バンドマンだそうで、ロックもバラードも歌いこなしている。

 僕は二人の頼もしい協力者を得て、先輩を振り向かせるための修行を開始したのだった。

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