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【完結】美人の先輩と虫を食う  作者: 吉田定理
春の章
4/44

1 陸のカニと呼ぶなかれ④

「渡辺くん、この先輩になんて言われて付いてきたの?」

 僕はここに来た経緯を思い出し、教授の質問に答える。

「ええと、確か……カニをご馳走してくれると思って」

 気まずい空気が流れた。須藤教授の柔和な笑みが、非難の色に変わる。猪俣先輩は困ったように苦笑いした。

「クモもカニも、同じようなものですよね? 脚は八本あるし……それに……空、飛ばないし」

 え? じゃあ先輩がご馳走してくれるものって、カニじゃなくて、僕らが捕まえたでかいクモ……? 嘘ですよね? そもそもクモって食べ物じゃないよね?

「猪俣さん、そりゃあ君にとって大差ないのかもしれないけれど、これがたいていの人の反応だからねぇ。後学のためによく覚えておいて」

 たぶん僕は顔を引きつらせていたのだと思う。あきれたように溜め息を吐く須藤教授。ごめんなさい、と肩を落とす猪俣先輩。鍋の中でぐるぐる回るアシダカグモ。

「ま、まあ、そろそろいい頃合いだから、いただきましょうか! うん、切り替え大事」

 火を止め、クモを引きあげると、竹ザルの上に置いた。ゆで上がったクモはしんなりとしているが体色は茶色のままだった。

「あ、もしかして、渡辺くん……………………ひいた?」

 先輩がおびえた子犬のように尋ねた。お願いだからひかないで、という祈りがひしひしと伝わってきたが、僕は自分の顔がこわばるのを防げなかった。

「す、すみません、こういうのは、初めて見たもので……」

 先輩が一生懸命なんでもない顔を作ろうとしながらも、かなり沈んでいるのは明らかだった。この人を傷つけてしまったという罪悪感が僕の胸に巣食った。僕のハートもすでにいくらかダメージを受けたけれど。

「あのね、えっと、うん、見た目はあれだけど、おいしいんだよ? クモもカニもだいたい同じ味なんだよ。美味だから。ホントに。マジで。科学的に言うなら、分類上はどっちも節足動物門だし」

「猪俣さん、それ言ったらサソリもムカデもカブトムシも全部節足動物だけど分かってる?」

「うっ……」

 須藤教授の鋭い――のかどうか僕にはよく分からない――ツッコミで、先輩がさらに沈んだ。ザルに上がった茹でクモのつぶらな瞳が僕を見ている。これがカニの味……?

「でも脚が八本で、似てるでしょ? 何となくカニに見えてくるでしょ? っていうか、エビのほうがよっぽど不気味な形してるよね? あの奇妙な曲がり具合といい、異常に長いヒゲといい」

「すみません。クモにしか見えないですし、これのほうが不気味です」

「そんなバッサリと……」

 僕が素直な感想を述べると、先輩はがっくりと肩を落とした。何だか可哀そうだ。

「渡辺くん、もし猪俣さんに騙されて――ごめんごめん、悪気はないもんねぇ――誤解があってここに来たのなら、申し訳ないけれどいつでも帰って大丈夫だよ。『虫の輪』は何するサークルかといえば、虫を捕まえてきて料理して食べるサークルだから」

「へ……?」

 僕は自分の耳がおかしくなったのかと思った。

「虫を食べるなんて、冗談ですよね……?」

「冗談じゃないんだよねぇ、これが。まあ、クモは食べないにしても、イナゴやハチノコだったら現代日本にも食べる文化があるしねぇ」

 確かにそういう食べ物があるらしいとは知っているけれど。

 大学とはなんと恐ろしい場所だろうか。このサークルはある種の宗教か何かなのだろうか?

「ホントにおいしいのに……」

 先輩が口に細長い物をくわえてつぶやく。歯でしごくようにして、チューチュー吸っている。ザルを見ると――茹でクモの脚が一本減っていた。

 うげえ、マジでこの人、クモの脚を食べてる……。

「いま私見て引いた!? やっぱり!?」

「猪俣さんのことは放っておいていいよ。彼女に付いていける人なんて、たぶん日本に三人くらいしかいないから」

「先生、それはひどいです!」

「だって事実じゃん……」

「私だってデリケートな乙女なんですよ!?」

「クモの脚くわえてる乙女は、猪俣さん以外に見たことないなぁ」

 なんかもう教授もあきれている。

 なんだろう。すごく――白衣と寝ぐせを除いて――綺麗なお姉さんなのに、このギャップ。光明が差したと思ったのに詐欺にあったような感じ。

 虫を捕まえてきて料理して食べるサークル? 想像しただけで気分が悪くなりそうだ。僕はいったいどうすればいいのか? 即刻、辞める? また振り出しに戻るのか? 四年間、孤独に耐えるのか?

「ま、アシダカグモの脚がうまいこともまた、事実なんだけどねぇ」

 ただただ困惑している僕をよそに、須藤教授は茹でクモへ手を伸ばした。脚を一本むしって口へ持っていく。先輩がやっていたように、先端から付け根に向かって歯でしごくようにして、恐らくは身を絞り出しているのだ。

「うん、美味だ。渡辺くんには申し訳ないけど、感謝だねぇ」

「ホントですねー」

「猪俣さんはもっと反省してね」

「反省はせずに精進します!」

 いつの間にか二人とも和んでいる。二本目、三本目と脚を吸う。しかもやたらとうまそうに、である。

「ビール飲んじゃおっかなー。おめでたいし」と先輩がちらっと見たのは冷蔵庫。

「この時間からここで飲むのは許可できないねぇ」

「ですよねー」残念そうな先輩。

 アシダカグモは大きいとはいえ、その脚はタラバガニなんかとは比べ物にならないほど細い。つまりそれだけ食べられる肉の部分も少量しかないわけだ。いかにも貴重な食材であるかのように、二人が時間をかけて味わいながらゆっくりと食べているためか、自然とうまそうに見えてしまうのである。受け入れがたい光景にもかかわらず、僕は目を離せずにいた。

 辞める、と言ってしまえば振り出しに戻る。ここに残れば虫を食べることになる。

「お腹、壊さないんでしょうか? 毒とか……」

「毒はないし、中までよく加熱殺菌したから食中毒にもならない。ま、たいていの虫はきちんと加熱すれば問題なく食べられるよ」

 本当かよ、と内心で思ったけれど、いつまでもどっち付かずで黙って見ているわけにもいかない。僕は決心した。

「一本だけ、もらっていいですか」

 最後の一本の脚に手を伸ばしていた先輩が、ぱぁーっと顔を明るくしてザルごとクモを僕に突き出した。

「食べなよ! だって渡辺くん、君が捕まえたんだから!」

「は、はあ……」

 恐る恐る最後の脚を引っ張ると簡単に取れた。ザルの上には胴体だけになって不気味さを増したクモが横たわっている。そっちのほうはもう見ないようにして、しましまの入った茶色い脚を、まず鼻の前に持っていった。匂いはない。確かに脚だけ注視していると、小型のカニの脚に見えなくもない。ならばと口へ持っていく。案外すんなりと食べることができた。歯でしごくと少量の、柔らかい身が押し出されてきて舌の上に乗った。冷めてしまっているが、風味は感じる。舌の上で転がして味わってみた。ああ、これは、もしかして、カニのような……。

「どう?」

「カニ……です」

 そう結論付けるほかなかった。自分でも驚いたけれど。

「でしょでしょー? 私、嘘ついてないよね? 詐欺師じゃないよね?」

「はい、確かに……」

 僕、間違いなくクモを食べたんですよね? 廊下を這ってたアレを食べたんですよね? ……信じられない。なんかもう情報処理能力が追いつかないというか。

「ではでは、三人でメインをいただくとしましょうか」

 先輩が取り出したのは二本のピンセットだった。彼女の好奇心に満ちた瞳には、ザルの上の茶色い物体しか映っていない。対象はどうであれ、僕にはあんな目をすることはできないと思う。

「先生、どっちから行きます? 上? 下?」

「好きなほうでいいよ」

「じゃあ頭から行きます。とりゃー!」

頭胸部とうきょうぶね」

 先輩はクモの顔の付いているほぼ球形の部分――頭胸部を、ぷっくらと膨らんだ尻尾みたいな部分――腹部というらしい――から切り離した。これだけでもかなりグロい光景だ。バラバラ殺人状態。切り離した頭胸部にピンセットの尖った先をメスのように入れていく。先輩が嬉々としてクモを縦に真っ二つに裂くのを、僕は恐怖と好奇心半々で見守っていた。中から現れた身は、意外にも白くてプリッとしていた。まさしくカニの肉ではないか!?

「こやつ、綺麗な身体しとるわー」

 先輩が感嘆を漏らした。僕も綺麗だなと思ってしまった。クモなのに。

「せっかくなので、一番は渡辺くんに」

 と先輩がピンセットを渡してきたので、流れでつい受け取ってしまった。ピンセットで食事する日が来るとは。

「いいんですか?」

「どうぞどうぞ。君は功労者だから」

 僕は先輩と教授の優しい微笑みに促され、ピンセットの先で白い身をちょっとだけつまみ、落とさないように慎重に口へ運んだ。

「……すごく……カニです」

「ほら! 私、まったく嘘ついてない! クモは陸のカニだよ。これからはカニって呼ぼう!」

「呼びませんよ!」

 思わず突っ込んだ。なぜだか無性に悔しい。敗北したような気分だけど、おいしい。クモとは思えないほどおいしい。プリプリとした柔らかい身、口の中にほのかに広がる甘みが高級感さえ漂わせる。目の前のザルに分断されたクモの頭胸部と腹部がなければ、絶対カニだと思ってしまう。こんな世界があったなんて……。

 三人でちびちびとカニもどきを味わい、続いて腹部へと移る。

 先輩が腹を裂くと、中身はドロッとしていた。これを須藤教授がやはりピンセットの先に取ってなめる。

「あんまり味しないなぁ」

 僕も一度だけなめさせてもらったけれど、この部分はあまりおいしいとは言えなかった。味も薄くてよく分からない。ただドロッとした何かとしか言い表せない。結論を言うと、まずくはないがうまくもなく、ビジュアル面の大きなマイナスを考慮すればあえて食べたいものではない。先輩と教授が半々ずつ食べて、アシダカグモは皮だけとなった。

「ごちそうさまでした。命に感謝」

 先輩と教授は皮だけになったクモに、仏様でも拝むみたいに手のひらを合わせた。僕も真似して手を合わせる。残った皮はゴミ箱に捨てられた。

「やっぱりクモはいいねぇ」

「そうですねー」

 先輩はあのコーヒーを、須藤教授は湯飲みでお茶を飲みながら和んでいる。僕も出されたお茶をすすった。さすがにお茶にまで虫の何かが入ってるということはないですよね? 怖くて聞けなかったけれど。

 僕は人と話すのが苦手だ。この二週間で会話したのはスーパーとコンビニのレジの人だけ。それなのに今日はこんなにたくさん言葉が出てきたのは、新しい世界を知って、好奇心が刺激されたからなのかもしれない。あるいは、先輩と須藤教授の人柄の良さのおかげだろうか。

「あの、アシダカグモってこの辺にはよくいるんですか」

「いるよ。君の家にもいるんじゃない?」

「実家では見たことないです。今はアパートで一人暮らしなんですが」

「そうなんだ。アパートにも出るよ。出たら大事にしてあげるといい。益虫えきちゅうだから」

「益虫、ですか?」

「そうだよ、人間には害がないし、ゴキブリを駆除してくれるから」

 ふむ、あれがゴキブリを……。

「帰ってきて電気つけた瞬間に動かれると、ビビりますけどねー」

 先輩が和やかに言った。

「ところで先生! アシダカグモがカニの味なのは、そのエサのゴキブリがカニの味ということでしょうか?」

「唐突に何かと思ったら。どう考えてもそれは違うでしょ」

「ですよねー。不思議」

 この会話を聞いて、僕の脳裏を不吉な考えがよぎった。つまり僕はさっき、ゴキブリを食っているヤツを食ったということになる。それってなんだか間接的に僕がゴキブリを食ったみたいな気がして……あのドロッとしたものってまさかゴキブリのペースト……? とか考えてしまったり。胸騒ぎが……してくる……。

 青ざめていたであろう僕に、須藤教授がフォローの言葉をかける。

「ゴキブリを食べた生き物を食べたからって、僕らがゴキブリを食べたことにはならないよ。ゴキブリだって消化されちゃえばタンパク質でしかない。クモに食われた時点で消化されて分解されて跡形もなくなって、それから新たに別の物質に作り替えられて、クモの体になったわけだからね」

「ですよねー。ゴキブリはゴキブリでちゃんと食べてみなきゃダメってことですねー」

 いや、違うだろ!? と僕は内心でツッコミを入れた。やっぱこの人、いろいろやばいのでは……?

「僕はアレはきっとおいしくないと思うね。それに見た目の抵抗がね……」

「私もそんな気はしてるんですけどねー。でもワンチャンいける気がしなくもないんですよねー。あいつ、けっこう肉厚で食べ応えありそうですし」

「うん、食べ応えは間違いない。まあ、素揚げで試食するのは構わないよ」 

 どんな会話だよ……と絶句しつつ、嫌な想像を打ち消すようにお茶の残りを飲み干して、壁の集合写真をもう一度眺めた。写っている五人の温かな雰囲気は、今こうして飲み終えたお茶のように、心を落ち着かせてくれる。いいな、と改めて思った。

「渡辺くん、君がうちに入るかどうかっていう話だけど……」

 先輩が遠慮がちに話を切り出した。

「嫌だったら撤回していいからね? 強制しないからね? 悲しいけれど私は君の意思を尊重するから! 悲しいけど! 泣くけど!」

 先輩はホントに悲しいらしく、涙をこらえるような顔をしている。もし僕が「やっぱり退会します」なんて言えば、本当に泣くのだろう。

「猪俣さん、そんなこと言われたら撤回しにくいでしょ」

「先生、でも! 私のこの悲しみは、確かにここにあるんですよ! 偽りなくここにあるんですよ! この気持ち、分かりませんか!?」

 とセーター越しに豊満な胸を押さえる先輩。「分かった分かった」と教授は軽くあしらう。

「分かってないですよね!? 分かってない人って絶対二回言いますもん! 私のマリアナ海溝並みに深い悲しみ、五メートルくらいしか分かってないですよね!?」

「猪俣さん、とりあえず黙ろうか?」

「ひどい!」

 パイプ椅子から床へと派手に崩れ落ちる先輩。冗談めかした感じではなく本当に床にビタン! と倒れるので、怪我をしていないか心配になってしまう。こういうことを日常的にやっているから白衣がやたらと汚いんだな、と妙に納得した。

 先輩は絶対に変人と呼ばれる部類の人だ。だけどただ変人なだけではない。こんなにも感情を隠すことなく、ストレートに見せてくれる人を、僕は知らない。いや、実は僕にもそういう時代があったけど、忘れているだけなのだろうか? とにかく羨ましい。

「猪俣さんはおいといて、渡辺くん、どうする? サークルに興味あるなら連絡先教えておくけども」

「代表の私のをね!」

 先輩は床の上でもう笑顔になっている。ずいぶんと忙しく表情の変わる人だ。頭には寝ぐせにホコリが追加された。

「あっ、朝ご飯食べるの忘れてた!」

 急に起き上がって立ったままのり弁を食い始める先輩。昼ご飯でも晩ご飯でもないのかよ!? っていうか、なんで全てが唐突なんだ……。

「徹夜明けで寝て起きて朝ご飯を買いに行って戻ってきたところで、アシダカグモを見つけたわけだよ」

「猪俣さん、しゃべりながら食べるのやめてもらえる? 飛び散ってるんだけど」

「あとでちゃんと拭きますって。えへっ」

「君、いつもそうやって忘れるよねぇ……」

 この人、絶対やばい人だ。だけどこの人のそばにいたら、僕は少し変われるかもしれない。最低な大学生活を回避できるかもしれない。だから僕は、「よろしくお願いします、先輩。教授」と頭を下げた。

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