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【完結】美人の先輩と虫を食う  作者: 吉田定理
冬の章
30/44

9 鳴かぬ蛍が身を焦がす①

 大学のそばの定食屋『天七てんしち』は、夕方は満席で入れないことも多い。学生相手の店だけあって安さとボリュームに特化しているが、一度食べたら忘れられない味も僕らを魅了してやまない。丼ぶりや定食についてくる味噌汁にはうどんが入っており、それが密かなお気に入りだ。

「天丼大盛りです」

 店員の若いお姉さんが斎藤さんの前にずっしりと重い丼ぶりを置いた。僕は知っている。この店で生半可な気持ちで大盛りを注文してはいけないということを。冷やかしは死を見るのである。

「カレーライス並です」

 石橋さんの前には、独特の白みがかったカレーが置かれる。それはまるで富士山から溶岩があふれ出るかのような威容をしていた。真っ赤な福神漬けの量にも妥協はない。

「カツ丼の小です」

 僕の前には丼ぶりと味噌汁、漬け物が並ぶ。なぜ『小』の丼ぶりにもかかわらず、フタが閉まらないのか。なぜ卵に包まれたカツが丼ぶりからはみ出してお盆に落ちそうになっているのかは、あえてお店の人には聞くべきではない。『小』と言ったら『小』。それがここでの真理である。

「いただきます」

 僕ら三人は唱和して、うまそうな晩飯に食らいつく。カツが邪魔で白飯が食えない。カツよ、どいてくれ!

「作戦は、まあこれでいい。ここしばらくあいつは大人しいから、事は問題なく運ぶだろう。マダゴキの卵も要求してこんしな」

「この前のクレクレはひどかったですね……」

「毎月一回はクレクレ言ってたからな、あいつは。代表やめてっからはパタリと要求されなくなって拍子抜けするくらいだ。まあ猪俣も最近はあんまり余裕ないんだろう」

 先輩はマダゴキの卵がよほど欲しかったのだろうけど、手に入れたら育てるのか? 食べるのか? いずれにせよ、欲しいものを我慢して大人しくしている先輩というのは、なんだか先輩らしくない。

「あの、一つ不安なことがあるんですが」

 僕は控えめに手を挙げた。

「なんだ?」

「作戦を考えてもらった後で今更なんですが、そもそもこんな卒業間近のタイミングで告白して、迷惑にならないんでしょうか? 仮に……仮にですよ? 告白してOKだったとして、先輩はすぐ社会人になるのに、僕は学生のままで。男が社会人で、女が学生のパターンは、たまに聞きますが……」

「なんだ、そんなことか」

 斎藤さんはご飯粒を口の周りに付けたまま、大したことないという口ぶりで言う。

「だが、いい着眼点だ。不安になるのも分かる」

 僕はまだ、社会人になるということについて充分に理解しているとは言えない。想像では、とにかく大変なイメージが付きまとっている。ブラック企業とかサービス残業とかいう言葉は知っているし、お得意先にへこへこと頭を下げたり、理不尽なクレームで鬱になったり、行きたくないのに上司と飲み会に行かされるなんて話もよく聞く。身を粉にして働いても給料は上がらず、いつも睡眠不足で、たまの休みに寝だめして、亡霊のように会社と自宅を往復する日々。……それは偏った見方なのだろうか?

 先輩の就職先がそこまでひどくなかったとしても、働き始めたら学生の僕なんて邪魔なだけになるかもしれない。それに先輩は収入ができるけど、僕は仕送りとバイト代だけだし、学生と社会人じゃ背負っている責任も違うし、これでは付き合うことができたとしても、先輩のお荷物になってしまわないか。

「僕には明るい未来が見えないんです。社会人の先輩と、学生の僕。逆なら分かるんですが」

「まあ、実際、告白が成功したら、おまえはヒモみたいになる可能性もあるわけだが」

「それじゃ、まずいですよね。僕も就職すれば対等になれるのかなって思うんですが……」

「いや、おまえは学生のままでいい」

 意外にも斎藤さんは、そんなふうに断言した。

「いいか? 社会人ってのは金がある。金があるってことは、親から独立できる。つまり責任が伴う代わりに、何でも自分で決められる自由を得るわけだ。学生のときとはケタ違いの自由だ」

「仕送りがなくても平気なら、親の言うことを聞かなくても大丈夫ってことですね」

「そうだ。そんな自由を手にする社会人だが、あるものが圧倒的に不足している。なんだと思う?」

「……分かりません」

「それは時間だ。社会人は金を稼いでも使う暇がねえんだ。それに金を使うのは案外面倒だ。飲みに行ってパーッと使おうと思っても、どの店に行くか、誰と行くか、ちょうどいい仲間を見つけるのは大変だ。旅行に行くったって、誰と行くか、何を見て、どこに泊まるか、どうやっていくか、いちいち調べる時間もない。調べ始めれば、どこが一番安いとか、効率の良い回り方だとか、キリがなくて、調べているうちに疲れ果てて、もう行くのはやめようと思う。日常生活でもこういう面倒は絶えない。シャワーを浴びればシャンプーがなくなりそうだと気づくが、買いに行く時間も気力もない。通勤途中にコンビニで買えばいいと思うが、それすら忘れるし、覚えておくのもエネルギーが要る。シャンプーのことより、その日のスケジュールや上司への報告書のことで頭が埋め尽くされる。洗濯をするのだって、平日の昼間は無理だし、帰りが深夜になれば洗濯機を回すのも気が引ける。職場じゃ忙しくて昼飯を食うのも忘れて、帰宅してから料理をする元気もなく、カップラーメンとビールに落ち着く。部屋が汚くても、いつか掃除しなきゃと思うだけ。貴重な休日に掃除なんてやりたくない。とにかく働いてると、あらゆることが面倒、億劫になるんだ。すべての本質的な原因は、時間の足りなさだ」

 まるで体験してきたかのような説得力だ。この人、ホントに何者なのか……。

「先輩がそんな状況になってしまったら、それこそ、僕と過ごす時間なんて、取れないですよね……」

 がっくりと肩を落とす。しかし斎藤さんはそんな僕の肩をたたいた。

「そうじゃない。俺は、これがおまえの勝機になると考えている」

 勝機? 僕は何も分かっていないが、石橋さんは腕を組んで、うんうんと頷いていた。

「でも、時間は誰にとっても24時間ですよ。それ以上増やせません」

「それは正しい。だが時間は増やせなくても作ることができる。賢いヤツはそうやって生きている。おまえが猪俣にとって、ただのお荷物になるか、救いの女神になるかは、おまえ次第だ。学生ってのは、社会人と逆で、金はないが時間はあるからな」

 斎藤さんは意味深なアドバイスを残して、丼ぶりに顔をうずめる。僕はどうしたら先輩のお荷物にならずに済むか、一生懸命、頭を巡らせたけど、いい考えは浮かばなかった。

 やがて石橋さんが完食し、斎藤さんが完食し、僕が完食した。これだけ食っても腹を壊さないなんて、二人とも尊敬に値する。別々にお会計をして店を出た。

「さすがに寒くなったな」

 暦は師走。天七の前の狭くて暗い道を、学生たちを乗せたバスがノロノロと通り過ぎていく。

「いいか渡辺。最終確認だ。このチャンスを逃すとタイムリミット的に厳しいことを自覚しろ。どこの企業も入社前から研修をやりたがるし、卒論は二月に発表だ。年明けてからは遊ぶ余裕は完全になくなる。勝負に出るならここしかない」

「……はい」

 僕は真剣に斎藤さんの言葉に耳を傾け、うなずいた。

「二次会の会場は、居酒屋からの距離の関係で、必然的に石橋のうちに決まる。おまえと猪俣が買い出し要因になるところまでは、サポートしてやる。だがその先は自力でなんとかしろ。いい雰囲気になったら買い出しなんてすっぽかしてかまわん。二人でどこへでも行け!」

「斎藤さん……」

 なんと頼もしいことだろうか。こんな強力なサポートがあったのに、先輩との仲がなかなか進展しないのは、ひとえに僕の怠慢である。

「いざとなったら、マニュアルよりもフィーリングっすよ。その場その場が一番大事っす。でも事前準備は絶対おろそかにしないこと。虫の話題は下手するとムードぶち壊すことになるので、避けるのが無難っすかね」

「石橋さん……。肝に銘じます」

「結果が成功だろうが失敗だろうが、何もやらなかったよりはずっといい気分でいられるだろうさ。がんばれよ」

 最後に斎藤さんに励まされ、僕は二人に感謝を述べて別れた。

 もうすぐその日がやってくる。クリスマスパーティー兼、忘年会という、一年のうち最大のイベントが――。


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