8 回顧と文化祭④
僕らは絶叫代行の男性と別れ、広場に戻った。これからお店を回すのは僕と先輩。凜ちゃんと須藤教授は遊びに来ただけなので、カイコ唐揚げを買っておしゃべりをした後、他のところを見に行ってしまった。斎藤さんと石橋さんも飯を食ってくると言って消えたので、やっぱり僕と先輩の二人だけになった。とはいえお客さんのピークが過ぎていたので、僕らはおしゃべりをする時間も、つまみ食いをする余裕もある。
そんなとき、招かれざる客がやってきた。きっとそういう心無い人も少しはいるだろうな、と予想していたけど。
「すげっ、マジで虫、売ってる」
そう言ってお店をのぞき込んできたのは、二十代後半くらいの男女のグループだった。先輩が前のほうでお客さんの対応をしていて、僕は奥のフライヤーのところにいたのだけど、変な人たちが来たのはすぐに分かった。
「これ、ホントに虫が入ってるの?」
「ホントにカイコの成虫が入ってます! 足と羽は取ってあって――」
「どれよ? 一匹まるごと?」
その客は先輩の説明は聞かず、唐揚げ入りの紙コップを勝手に手に取って調べ始める。その後ろで女がスマホのカメラを向けていた。
「すみませんけど、買わないなら触らないでもらえますか? あと写真とか動画もやめてください」
先輩が毅然と注意すると、彼らは「買わないって言ってなくね? 客なんだけど?」と気分を害したように表情を曇らせた。
「でもどうせまずいんだろ?」
「おいしいかどうかは人によります」
「まずかったらタダにしてくれる?」
「返金はできません」
「それはないだろ?」
「なくないです」
さすが、先輩は毅然としているが、雲行きは怪しく見えた。僕は先輩を心配する一方、自分が店の奥にいるときで良かった、なんて思ってしまった。かっこ悪いって分かってるけど。
「これも売ってんの? ざざむしって?」
彼らにとって、いかにも文化祭にそぐわないざざむしの佃煮は格好のターゲットだった。
「こんなのが2000円とか高すぎ」
「ありえねえだろ。ぼったくりかよ」
「てか、このイラスト、超うけるんだけど~」
買う気ないなら、さっさと帰れよ。僕はただ、そう願いながら先輩の後ろで黙っていることしかできない。
「こんな気持ち悪いもの作って売って、迷惑だと思わないのか?」
先輩の右手がぴくりと動いて、こぶしにギュッと力がこもったように見えた。先輩がどんな顔をしているのかは見えないけど、もしかしたら客を殴るのではないか。しかしそれは杞憂だった。
「高いと思うなら買わなくていいですし、誰かに迷惑をかけているとも思いません」
「は? こっちは迷惑してるって言ってるんだが? 気持ち悪いもの売るなって言ってるのが分かんないの? 一般常識ないのか?」
「それは、じいちゃんの……」
先輩は何かを言いかけて黙った。こぶしは強く握られたままで、その背中を見ているのが辛くて、僕は胸がヒリヒリする。斎藤さん、石橋さん、早く戻ってきてくれないか……。
先輩が黙ったのを見て、男は勝ち誇ったような余裕を見せ、先輩の肩に馴れ馴れしく手を置いた。
「分かればいいんだ、おねえさん。こういうものは他人を不快にさせるんだから」
こんなのは間違ってる。買わない商品を勝手に触ったとか、ざざむしの佃煮をバカにしたとか、先輩の肩に汚い手を置いたとか、他にもいろいろあるけど、全部が間違ってる。店の奥に居られて良かったと思う僕もバカだ。いいことなんて一つもないじゃないか。自分の好きな人があんなふうに言われて、こんなことをされて、好きな人の好きなものまで踏みにじられて、それをただ見ているしかできないなんて、それ以上の苦しみがあるか?
僕は店の外に飛び出して、客の側に回った。足が震えて、理性が「やめておけ」と言っている。だけどこの胸の激しい痛みを放っておくくらいなら、どんな無茶をすることも、どんな愚行に走ることも、大したことではない。
「あ、あの、謝ってください!」
僕が横やりを入れると、男女がこちらを見た。僕は早口でまくし立てる。
「ざ、ざ、ざざむしは真冬の川の中で捕まえるんだ。捕る人が少ないから高くなるに決まってるし、第一、気持ち悪いと思ったら黙って通り過ぎればいいじゃないですか、その人に謝ってください」
「は? 何、おまえ?」
相手の男のほうが歳も上だし身長も高いし体格もいい。殴られたら絶対痛いし、喧嘩したら絶対に勝てない。そんな想像をしただけで息が詰まって、うまく呼吸できなくなる。先輩がどんな顔をしているかまで見ている余裕はなかった。ましてや周りの状況なんて、もっと分からない。
「僕はどうでもいいので、商品をバカにしたこととか、その人に謝ってくださいって言ってるんです」
「すみません、文化祭実行委員の者です。何かトラブルですか」
ハッと現実に戻されて振り返ると、実行委員の腕章を付けた人が近づいてきた。
「あ、いや、その……」
「俺たち、何もしてないですよ。急にこいつが、わけの分からないことを」
何もしてないなんて嘘だ。だけど僕は気が動転して、あたふたしている間に、男女のグループはどこかへ去ってしまった。先輩が僕に代わって実行委員の人に、商品のクレームを言われただけだと説明し、深く追及されることもなく、この事件は終わった。
僕は脱力して店の奥のパイプ椅子に腰を下ろし、先輩はテキパキと次のお客の対応をしていた。きっと僕はどうかしていたのだ。文化祭の非日常の空気に当てられて、おかしくなっていたに違いない。
……何をやっているのだろう。
お客がいなくなると、先輩が僕の隣にやってきた。珍しく気の抜けたような、とろんとした表情をしている。
「さっきは、ありがとうね」
「いえ、なんというか、勝手なことをして、すみませんでした。せっかく先輩が我慢してたのに」
たぶん先輩は、問題を起こすと来年は出店させてもらえなくなるとか、そういうことを考えていたのだろうと思う。危うく僕のせいで、先輩の努力を無駄にしてしまうところだった。
「ううん、渡辺くんが、あいつらに、謝ってくださいって言ってくれたとき、すごく嬉しかった」
「結局、あの人たち、謝りませんでしたけど」
「いいよ、あんなヤツら」
「今も、ちょっとムカムカしてます」
「私も」
この広場で、僕と先輩だけが、すでに文化祭の後夜祭にいるような、変な感覚だった。楽しそうな声も、お客さんを呼ぶ活気も、遠くで聞こえる音楽も、何もかもが嘘のような気がしてしまう。まだ文化祭は続いているのに。
「渡辺くんって――」
時間が止まったような世界で、先輩が、僕を見つめている。いや、本当は目が合ったのは一瞬で、それが僕にとって長い時間のように感じられただけかもしれない。
先輩が「なんでもない」と言うと、僕らを包んでいた薄い膜が弾けて、賑やかな文化祭の広場が鮮やかに戻ってきた。
「なんかね、今日はいろいろ思い出したよ」
「おじいさんのことですか?」
何事もなかったかのように話し始める。
「とか、大学に入ったばっかりのときのこと。虫食いの文化を広めるために、すごいことやろうと思ってたのに、今はこうしてみんなで集まっておしゃべりしてるだけで楽しくて、満足しちゃうっていうか。なんか、大志を抱いてた過去の私に申し訳ないというか」
「だけど先輩はまだ目的を諦めたわけじゃないですよね」
「そうだね。まだ諦めてない」
「先輩、就職しても静岡にいるんですよね? だったら、このサークルを続けたら、新しいチャンスとかが……」
先輩が社会人になってもサークルに来てくれる、というのは僕の個人的な淡い願いだ。現実的には難しいだろう。
「そうだね、それが正解なのかな」
先輩は卒業した後、サークルに顔を出すとか出さないとか、そういう話は一切していない。もし、卒業してもまた来るね、なんて言ったとしても、たいていの場合、社交辞令なのかもしれないが、どちらにしても、あと四か月ほどで先輩との繋がりが消えてしまうと思うと、恐ろしくなる。
居心地のいい場所にずっと留まっていれば、カイコのようにやがて退化する。先輩にとって、地元から飛び出したように、次はこのサークルから飛び出すことこそが、本当の正解なのではないか? そんなことが頭をよぎるけれど、正直なところ、分からない。
先輩と、ずっと一緒にいたい。
僕にとっては、こんな、何でもない時間でさえ、楽しくて幸せだと思う。先輩は僕のことをどう思っているのだろうか。ただの同じサークルの後輩としか思わないのか。知りたいけれど、そんな質問は実質告白みたいなものだし、先輩の突飛な言動を恋愛感情に結び付けて分析するのは難しい。
「すみません、まだ売ってますか?」
不意に僕らに声をかけてきたのは、絶叫代行の男性だった。
「先ほどはご利用どうもです。虫料理って、これですか」
「そうなんです!」先輩は一瞬でいつものテンションを取り戻す。「カイコの唐揚げ売ってます! オススメは黒蜜味!」
男性は店のポップを見て、「この、ざざむしっていうのは? 売り物ですか?」と聞いてきた。
「高級珍味ざざむしの佃煮に目をつけるとは、お主、なかなかですな」
先輩の目の色が怪しげなそれに変わった。2000円の佃煮を売りつける気だろうか……。
「酒に合いますか?」
「合いますとも」
「じゃあこれ、いただきます」
「2000円です! 私とのツーショット写真を撮る権利付きで!」
「え、いいんですか? やった」
マジかよ、2000円の佃煮が売れるなんて……。
ついでにカイコの唐揚げカレー味も一つ買って、先輩とツーショット写真を撮って、絶叫代行の男性は去っていった。今晩、パーッと打ち上げでもするのだろうか。
接客を終えた先輩と僕は、また椅子に腰かけて怠け者の店員に戻った。
「佃煮、売れてよかったですね」
「やっとだよ! あ、そうだ、渡辺くん、お店の前で写真撮ってくれない? じいちゃんに送りたいから」
唐突に先輩がそんなことを言い出した。
「いいですけど」
「こっち来て。一緒に撮ろう」
店を背景にして先輩の隣に並ばされる。腕と腕がくっついても、先輩は気にしない。いいのか? しかも僕のケータイで。
先輩が笑顔でピースし、僕は初めてのカップル版自撮りの難しさに苦労しながら、腕を伸ばしつつシャッターボタンを押した。いい感じにお店と僕らをフレームにおさめるのが大変だった。恋人や夫婦っていつもこんな高度なことしてるのか?
「それ、私に送ってね」
「いま送りました」
「ありがと。……なんか渡辺くん、難しい顔してない?」
「実際、難しかったので、そのような顔に……」
「まあいいか。じいちゃんに報告っと」
そんなこんなで、僕は思いがけず先輩のコスプレ写真を手に入れたのだった。
その後、斎藤さんと石橋さんが戻ってきて、終了の時間になったら片づけをして、四人で夕飯を食べに行った。
僕らが出店するのは初日だけなので、これで一段落。先輩のコスプレも見納めだ。
そして気が付けば、あっという間に冬がやってきた。




