7 恋する貴婦人④
僕は平静をよそおいつつ凜ちゃんの真意を探ろうとするが、凜ちゃんはいつものようにどこか物憂げで、表情の読めない顔をしていた。
「ど、どうして急に、そんなことを……?」
「分かります。分かりやすいです」
まあ、斎藤さんと石橋さんには初日にバレたしな……。
「凜ちゃん、そのことは、先輩には絶対、言わないようにしていただけますでしょうか」
「どうして敬語ですか?」
「重要なことなので……」
凜ちゃんの形の良い細い眉が、わずかに寄った。
「渡辺さん、まさか、先輩のことを本気で――」
「うわあああああッ! それ以上は禁止! 言わないでください!」
「お主ら、怪しい話をしておるな~?」
よりによって先輩が興味を示してこっちへ来た!
「し、してませんよ、何も」
「分かるよ、お酒が飲みたいっていう気持ち。禁止されると求めてしまうのが人間の性だよね! でも君たちはアルコール禁止だ!」
勝手にアルコールの話になってくれて助かった。先輩は頬がほんのりと紅い。
「そ、そうなんですよ、僕らも早く飲みたいって話してたんですけどね!」
「じゃあ今日だけはいいよ! 私が許す」
「いや、よくないですよ!」
「まあまあ。片付けなんて明日やればいいから、二人ともこっちおいで。私の膝の上があいてるよ」
連行される僕と凜ちゃん。先輩につかまれている肘のところが、なんだかちょっとむずがゆい。
「明日は日曜だぞ。誰が来てやるんだよ」
斎藤さんが冷静なツッコミを入れた。
「ハイッ! 私がやる」
「猪俣さんは絶対に来ないと思う」
「先生、私を信用していないようですね」
「飲んでいるときの君はなおさらね」
「ですよねー!」
先輩、機嫌よさそうに笑っている。だいぶ酔っているみたいだけど、大丈夫だろうか。
それからほどなくして、内定祝いパーティーは閉幕した。すでにかなり飲んでいるため二次会はなく、みんな帰るらしい。先輩も「一人で帰れます。もう三年半も通った道なので」と言って一人で帰ろうとしたが、念のため僕が付き添ったほうがいいということになった。女性一人の夜歩きは避けたほうがいいし、僕なら素面だし、付き添っても遠回りにならないのだ。斎藤さんたちの策略でもあるだろうが、教授も凜ちゃんも先輩を一人で帰らせるのを心配しているので、ごく自然な展開である。
僕らは大学の坂を降りきったところで二人きりになった。大学周辺の道は狭く暗く、街灯は心もとない。古いアパートや裏道が多く、ひっそりとして、すれ違う相手の人相も距離があるとよく分からないほどだ。
「私、大丈夫だと思うのになー」先輩はそう言いつつも、むしろ嬉しそうだった。「短距離走、速いし。中学の時はリレーの選手にも選ばれたし。変質者が出ても逃げられるよ」
「先輩、スポーツやってたんですか」
「ぜんぜんやってない。吹奏楽部だったから」
「意外ですね。吹奏楽は予想してなかったです」
「ピアノもやってたよ。両親はいつも泥だらけで男子みたいに走りまわる私を、少しおとなしくさせたかったみたい。……あ、降ってきたね」
一度はやんでいた雨が、またぱらぱらと降り出した。傘なんていらないくらいの弱い雨。
「ちょっと待って」
と先輩が立ち止まってカバンをまさぐる。折りたたみ傘。夜道に真っ赤な花が開く。
「入りなよ、渡辺くん」
「いや、でも、どうせ帰りに濡れるので」
小心者でアホウな僕は先輩の好意を反射的に断った。そう、単なる好意なのだ。心理学の講義で教授が「男性諸君は女性の好意と愛情を誤解しないように気をつけましょう。私のように痛い目を見ますからね」などと釘を刺していたではないか。恋愛感情と結びつけているのは僕のほうだけだ。僕のような人間にとって、相合傘はある種の特別な恋人イベントだけど、今の先輩にとってはなんでもない、知人友人として当然の申し出なのだろう。
「うちに着いたら、この傘、貸すよ。そしたら、渡辺くんも濡れないでしょ?」
先輩が少し困ったように僕を見ているので、僕は「すみませんお願いします!」と声をうわずらせて傘の下に入った。選択肢は二人とも濡れるか、二人とも濡れないか、なのだ。
先輩の傘の下で控えめに寄り添う。体が触れないように気をつけていたけど、先輩がふらつくたびに体が触れ合ってしまう。いいんだろうか? いいだよな? それくらいは、友だちの範囲ということで。だって先輩はまったく気にした様子もなく、歩いているし。
僕の片方の肩は濡れてもいいから、僕のせいで先輩が濡れることだけはないようにしなければならない。それにしても距離が近い。先輩の香りがする。だが鼻を鳴らしてそれをかいではいけない。変態と誤解されるような言動は慎まなければ。自分の鼻が微動だにしないように、強く顔面に意識を集中する。あれ? さっきから無言だな……。僕はつとめて首を正面に固定しているため、先輩がどんな顔をしているのか見えない。でもすぐそばに先輩の存在を感じながら、歩調をしっかりと合わせている。なぜ会話がないのだ? さっきまで何を話していたっけ? ――ああそうだ、ピアノだ。だけどこの沈黙の中に、いきなりピアノという言葉を投げこむ勇気が僕にはない。途切れた会話を再開するための足掛かりが、ピアノである必然性はあるのか? ピアノという一語から有意義かつ楽しい会話になるという保証はあるのか? ――ない。だからといって沈黙したままでいいのか? 唐突でもいいから何か話さないと……。でも、どうして先輩は何もしゃべらない? 先輩は何を考えているのだろう?
僕は正しい会話の作法に、まるで自信が持てなくなっていた。いや、そもそもそんなものが存在すればだが。
冴え冴えとした三日月が出ている。月がきれいですね、とでも言ってみようか。いや、気取った気持ちの悪いヤツだと思われかねない。ダメだ。それよりも先輩が持っている傘について考えよう。力仕事は男がすすんで引き受けるべきだという気がするが、相合傘の傘を保持するという行為は、男が肩代わりすべき力仕事に含まれるのか? 前提として傘の所有者は先輩だ。自分の所有物を気軽に他人に触らせるのは、もしかしたら嫌かもしれない。しかしこの腕の体勢は、一人で傘を差すのと比べて疲れるのではないか。疲れるなら、やはり代わるべきか。もしほとんど疲労を伴わないとすれば、僕が余計な申し出をすることで、変な気を遣わせることになってしまうではないか。ああ、どうしたらいい? 僕は相合傘の保持者にかかる肉体的精神的疲労について、あまりに無知である……。
考えているうちに先輩のアパートに着いてしまった。「傘、持ちますよ」の簡単な一言も言えないような甲斐性なしだと思われていたらどうしよう。みじめな気持ちでいると、先輩は「ありがとうね。この傘、使っていいよ」と差し出してきた。だけど僕が曖昧な態度だったためか、「これじゃ恥ずかしいよね」と苦笑して引っ込める。僕は慌てて「そんなことないです、ありがたく借りさせていただきます」と受け取る。「じゃ、おやすみ」「おやすみなさい」
そして僕は一人、家路に着いた。
先輩の赤い傘を差して夜道を歩きながら、さっき別れ際に言い合った「おやすみ」は、今までとは違ってちょっと特別な「おやすみ」だったような気がして、幸福感に包まれた。そうか、日本語の「おやすみ」という挨拶には、「さよなら」寄りのときと、真に「おやすみ」寄りのときがあるんだ。
『赤はジョロウグモの恋の色。でもなんで赤なんだろうね? 人間も赤い糸って言うよね』
持ち手に体温が残っている。明日からいつでも、この傘を返すことを口実にして、先輩に会いに行くことができる。一回限りだけど。
先輩を見かけた日は、幸運な日だ。
その日は天気もよく、憩いの広場には友だち同士で昼食を食べる学生たちがあふれている。そんな中、先輩は隅っこの茂みで何かを観察していた。
「先輩、何をしているんですか」
思い切って話しかけると、先輩は集中を解いてこちらを見た。
「ああ、渡辺くん。ジョロウグモを見てたの」
あれだけたくさん捕っても、ジョロウグモはどこからか現われて巣を作っていた。
「今日は捕らないよ。見てるだけ」
何か面白いことがあるのだろうか。僕には分からないが、一緒になって観察してみる。黄色と黒の縞模様。ぷっくりとふくれたメスのお腹は赤く、巣の片隅に小さくて地味なオスの姿もある。
「ジョロウグモって、二つの説があるんだよね」
先輩が独り言のように呟いた。
「どんな説なんですか」
「うん、一つは女郎で、これは花魁とか遊女とかのこと。で、もう一つが、上臈で、これは高貴な女の人のこと。渡辺くんはどっちだと思う?」
「ああ、僕は、てっきり女郎だと思っていたんですが、うーん、どっちでしょうね……」
赤、黒、黄の三色と細長い脚は、華やかだがどこか怪しく、着物をまとった遊女を連想させる。それで女郎グモなのだと思っていた。だが昔の人々は、このクモに高貴な女性の美しさを見たのだろうか。そんなこともあっていいと思うけれど、現代人の僕は、クモと聞くと怪しく妖艶なイメージがつきまとう。
「おいらんのほうが、しっくりくる感じです。マンガやゲームの影響ですかね? クモのモンスターって定番ですよね」
「だよねー。私もおいらんに見える」
実はカバンの中に先輩から借りた折りたたみ傘が入っている。先輩と会う口実になる便利アイテムだけど、会ったのに返さないというのは変な話だ。先輩、なくて困るかもしれないし。
「先輩、この前は傘、ありがとうございました」
「あ、持ってきてくれたの。ありがと」
僕らをつなぐ赤い糸を返した。これで足掛かりはなくなってしまったけど、それでいい。僕には運がある。便利アイテムに頼らなくても先輩に会えたのだ。
「この傘、ちょっとけばいよね。ジョロウグモみたいで」
僕はわずかに逡巡し、
「そう……ですね、けっこう派手ですよね」
「やだなー。買ったときは貴婦人だと思ってたのに」
「だけど先輩は、何を使っても立派な貴婦人ですよ」
「なにそれ。渡辺くんっておもしろいね」
先輩がからからと笑う。
しまった、マヌケなことを口走ってしまった、と思ってももう遅い。恥ずかしくて先輩の顔が見られなかった。ああ、もし周りの人に聞こえていたらと思うと、消えてしまいたい……。
「まあいいや。渡辺くん、もうお昼ご飯食べた?」
「ま、まだですけど」
これはまさか、僕が期待した展開なのか!? 心拍数が上昇する。
「じゃ、学食でも行かない?」
「はいっ! お供いたします!」
「君は家来か!?」
先輩がまた笑った。
落ち着け自分! 理性だ! ありったけの理性を動員するんだ!
「期間限定のラーメン食べた? 今、北海道フェアやってるでしょ?」
「いや、食べてないです。いつもお弁当か、おにぎりなので」
「食べなきゃダメだよ! 今週までなんだから」
カバンの中には生協で買って温めたばかりののり弁が入っているが、そんなことはもはやどうでもいい。僕は先輩と一緒に学生食堂で、先輩のお気に入り――札幌味噌ラーメンを食べたのだった。
「食べてるときって幸せだよねー。もうずっと食べてたいよ」
そんな先輩の言葉に、単なる冗談以上の意味が込められていたことに、僕は気づきもしなかった。




