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【完結】美人の先輩と虫を食う  作者: 吉田定理
夏の章
20/44

6 夏に香る桜①

 九月半ばになると、一部の学生たちは急に慌ただしくなる。夏休みは九月いっぱい続くのでまだ二週間ほど休みが残っているのだが、休みボケした脳みそを奮い立たせて大学へ向かうのである。

 この時期に行なわれる特別な短期講座のことを集中講義と呼ぶ。他の大学や研究機関から特別講師をお招きし、さまざまな専門分野の講義をしてもらうのだ。朝から夕方まで、数日間で集中的に。これは単発の選択科目だから、普段とは違った講義内容に興味のある人、あるいは単位が足りなくて困っているような人が受講する。

 ちなみに僕は前者のほうだ。一年生は単位不足による留年はないが、今のうちに多めに単位を取っておけば学年が上がってから楽だ、と斎藤さんや石橋さんから言われている。それにいろいろな分野の講義を受けておけば、三年次の研究室配属を決める上でも役立つ。僕みたいな人間は明確に「これがやりたい!」というものがないので、こうやって興味を広げようとしているわけだ。

 僕は静岡大学のメインストリート――定年坂を登る。階段、坂、階段、坂。汗が噴き出る。

 講義の行なわれる理学部B棟201講義室に入ると、クーラーがきいていて生き返った気分になった。僕はいつも通り、最前列の端っこに座った。

 一年生のうちから受講する学生は少ないようで、見知らぬ顔がほとんどだった。

 僕は暇つぶしにスマホをいじる。先輩からメッセージが来ていたらいいな、という期待ははずれた。未だに事務的な連絡くらいしかしない関係なのだから、当然だけど。

 キャンプ、楽しかったな。海も良かったな。そういえば今週はまた、虫の輪の集まりがある。先輩と会えるぞ、なんて思いながら、須藤教授から送られてきたキャンプの写真を眺めていると、今日の特別講師が入ってきた。気を引きしめて勉強モードに切り替える。

 遊んだ分、勉強、勉強!



 昼食休憩となり、僕は快適な201講義室を出た。廊下はまだマシだが、建物から出ると凶悪な夏の日差しに打ちのめされる。学食は普段より空いているけど、友だち同士でワイワイしている人たちが多いので、一人では行きづらい。

 一人の食事は寂しいけど、高校でもそうだったから別に気にしない。よく見ると単独行動している学生はけっこういるので、過剰に気にする必要はないと思っている。それでも、新学期が始まったら、ちゃんと勇気を出して、同じ学科の人と友だちにならなきゃ。

 僕は生協で買い物を済ませて、両親が見たら「ちょっとは栄養を考えなさい!」と言いそうな昼食を手に、理学部棟に戻る。その道すがら、僕は思いもよらない人を見つけた。その人物は憩いの広場の片隅にある桜の木のそばにしゃがみこんでいた。この暑さにもかかわらず、汚れた白衣を羽織って。すそが地面についていることにも、おかまいなしだ。不自然に跳ねた髪が、肩の上でゆれていた。

 先輩だ!

 話しかけに行こうか悩んだ。このままB棟に戻ってスマホでYahooニュースでも読みながら一人で昼食を食べるか、あるいは先輩を誘って学食にでも行くか。学食に行く流れにならなかったとしても、少しおしゃべりするだけで午後の講義へのモチベーションは飛躍的に高まるに違いない。なにより、こういうときに話しかけるのをためらっているようでは、いつまでたっても先輩との仲は深まらないではないか。

 行動しなきゃ変わらない。今が実践の時だ。分かってる。よし、声をかけよう!

 なんて話しかけようかと考えながらのろのろ近づいていくと、先輩のほうが気づいて振り向いた。髪の毛がボサボサでも、やっぱり今日も可愛い……。また徹夜明けかな?

「ああ、渡辺くんか」

「先輩、十日ぶりですね」

 しまった、口がすべった。僕は先輩に会えない日数を数えるのが日課になっているのだけど、普通の人はそんなことはしない。ストーカーのようで気持ち悪いだろうか!?

「そっか、フナムシから十日なんだ」先輩は幸いにも僕の失態を何とも思わなかったようだ。「ところで渡辺くん、君はいつもいいところに現われるね」

「そ、そうですか? 僕、運がいいんですかね?」

「いいよ絶対。これ見て」

 先輩は手に持っていたスーパー『マム』のビニール袋を差し出した。中をのぞいた僕は背筋が凍った。たくさんの毛虫がうごめいていた。おかげで女々しい悲鳴をあげて、周囲の学生たちから注目を浴びてしまった。

 予想しておけよ、僕! 前にもこんなことがあったじゃないか!

「これ、なんなんですか」

「サクラケムシだよ。別名モンクロシャチホコ。この辺にいっぱいいるから捕ってたの」

 桜の木の幹というのは、近くで見るとかなりゴツゴツしていて無骨だ。さらによく見ると、毛虫があちこち這っていた。若干の光沢のある真っ黒なボディに、黄金色の毛を無数に生やしている。頭部はフルフェイスのヘルメットみたいな形だ。幹だけでなく地面にもいるので、踏みそうになって慌てて一歩さがった。

「渡辺くん、どうして大学にいるの?」

「集中講義、とったんです」

「偉いね。一年生なのにまじめだ」

 僕は少し照れる。「先輩は徹夜だったんですか?」

「よく分かったね。私は卒論があるから、ほぼ毎日来てるんだ」

 そうとは知らなかった。四年生ともなると大変なんだな、と他人事のように思う。いずれ僕もそうなってしまうのか。

「この毛虫が卒論なんですか」

「違う違う、これは気晴らし。ねえ渡辺くん、私は思うんだけどさ、本業の質は気晴らしの質に大きく依存すると思うんだよねー。日本の労働生産性が伸び悩んでいるのは、そこに落とし穴があるからじゃないかな?」

 先輩はまたしゃがみこんで毛虫を眺めている。僕もさりげなく隣にしゃがんでみた。……毛虫を踏まないように。

 僕は毛虫ではなく先輩の横顔を眺める。

「働きすぎは良くない、ということでしょうか」

「そうだよ、それ!」笑顔の先輩が急に僕を見たから、ドキリとした。「なぜ人は働くのか。なぜ私は働くのか? いいや、いっそこの国が滅んじゃえば、働く必要もなくなる。どうだろうね?」

「今日の先輩、過激ですね。何かあったんですか」

「そういう日もあるもんだよ。人生には」

「そういうものですか」

「イエス。私の前頭葉に降りてこないかな、神様」

「降りる場所、具体的なんですね」

「全体的に降りてきてほしいけど、それは欲張りすぎだから意思と計画を司る一か所にしてみたんだよ。信心深さとは謙虚さである」

 先輩が地面を這うサクラケムシに手を伸ばす。抵抗して身をくねらせるそれを素手でつかみ、ひょいと袋に入れた。

 いつも思うけど、先輩ってセリフとシチュエーションが妙にちぐはぐしてる。

「っていうか先輩、危ないですよ! 毛虫に触ると真っ赤に腫れて痛くなるって、よくおばあちゃんが言ってましたし」

「大丈夫だよ、毛虫は毛虫でも毒はないから」

 そう言って新たな獲物を見つけては、ひょいと捕獲していく。本当に大丈夫なようだ。だからといってケムシを素手でつかむのは乙女としてどうなのだろう……。

「これ、やっぱり食べるんですか」

「聞くまでもないことだね」

 ああ、今週のメインは毛虫なのか……。スズメバチやらクマゼミやらフナムシやらを食べた僕が、今更何をためらうか、という感じだけど。でも毛虫はビジュアル的に辛いよな……。

「……手伝いましょうか?」

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