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【完結】美人の先輩と虫を食う  作者: 吉田定理
春の章
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1 陸のカニと呼ぶなかれ②

 僕は大学の講義が好きだ。地球科学入門Ⅰで使用する教科書は英語で書かれていて、説明文の意味は半分しか分からないけど、ページをめくって図表を眺めるだけでも賢くなったような気分を味合わせてくれる。といっても勉学と研究に全てをささげる覚悟はない。僕はただ高校で地学の成績がよかったからという理由だけで、ここ理学部の地球科学科へ来てしまった。言ってしまえば情熱も志もない半端者である。志望理由からして不純で、部活もサークルも決められないし、まだ友だち一人いない。全てにおいて半端者であり、未熟者である。

 九十分間におよぶ講義が終わり、学生たちが退出する。僕は板書したルーズリーフを整頓する振りをしながら、誰かが話しかけてきてくれるのを待ってみる。

 今日は金曜日だ。つまり今日を逃すと、土日を六畳一間のアパートでたった一人、憂鬱な気分で過ごさなくてはならない。すでに大学に入学してから二度の週末を過ごしたけれど、どちらも誰とも会うことはなく、アパートの自室で過ごすしかなかった。

 タイムリミットは四月末からゴールデンウィーク頃に開催される新歓コンパだ。僕の調査――同じ学科の人たちの会話などからの分析――によれば、多くのサークルがもうすぐ新歓コンパを開催する予定で、これに参加することによって新人同士、ないし先輩たちとの仲を深めることができる。逆にこの機を逃すと、『なんか後から入ってきたよく知らん人』という扱いになってしまう恐れがある。そうなければ、僕の未来は厚い雲に閉ざされる。

 ……結局僕は最後に一人で講義室を出た。分かっているさ、向こうから声をかけてくれるなんて、そんな都合のいいことはないと。

 僕自身が動かなければ、何も変わらない。だけどやっぱり無理なのだ。このキラキラした世界には、僕はあまりに不釣り合いだ。いよいよ灰色のキャンパスライフが確定しようとしている。

 さっきのが今日の最後の講義だったので、このままアパートに帰るのが順当だが、そうすれば今週も成果なしで終わってしまう。かといってサークル棟に単騎で乗り込んでドアをたたく根性もない。僕は未練たらしく談話スペースに向かうが、二階には先客――仲良くおしゃべりしているグループがいたので、居たたまれなくなって三階へ上がった。

 三階は講義が行なわれないためか、しんとしていた。しかも薄暗くて陰気だ。やはりこの階にも申し訳程度の談話スペースがあって、テーブルと椅子が置かれている。さらに廊下の先には、武骨なスチール棚があって、岩石や樹木の標本が雑に押し込まれていたり、積まれていたりする。下手に触って壊したりしたら大変だし、新入生が安易にあちらへ行かないほうがよさそうだ。

 こんなところに来て、何の意味があるのか? 悪あがきにすらなっていないことは、理解しているけれど、少しでも長く大学にいることしか、僕にはできない。

「……ん?」

 僕は廊下の先、スチール棚のそば、床の上に奇妙なものを発見した。コーヒーのペットボトルが直立している。その隣にはコンビニののり弁。未開封。忘れ物か、落とし物か。何かの罠? 儀式? それにしてもなぜ廊下の真ん中にコーヒーとのり弁? 大学ではありふれたことなのか?

 ……まあいいか、放っておこう。それにしても、ここは僕にはお似合いの場所だな。来週から三階で昼食をとるようにしよう、なんて自虐的なことを考えながら談話スペースの椅子に腰をおろした。

「ちょっと誰か」

 不意に女性の声が聞こえた。

「誰か来て。こっち来てよ~! おーい、誰でもいいから~。ヘ~ルプ!」

 少々間の抜けた、だいぶ余裕のありそうな『ヘルプ』であった。

 声の主はそう遠くなかった。どうやらスチール棚と積まれた標本の陰にいるらしい。よく見れば白衣のすそだけがちょっとのぞいている。放置されたコーヒーの向こうだ。

「だ~れか~。いないのか~?」

 女性は助けを求める声を発し続けている。周りを見回しても僕しかいない。

 暴漢に襲われているわけではないし、崩れた標本の下敷きになっているわけでもないだろう。だけど無視するのもどうかと思ったので、微力ながら助けることにした。

「あの、大丈夫、ですか」

 とりあえずそばまで行ってみた。

「あんまり音立てないで静かに歩いて!」

 女性に注意されて、僕は立ち止まった。

「大丈夫じゃない。助けて。協力して」

 女性がかがんだまま体をのけぞらせて、姿を見せた。

 ヘンテコな人だった。上は淡い色のセーター、下はチェックのひだのないミニスカートで、その上から薄汚れた研究者っぽい白衣を羽織っている。この白衣、年季が入っていてかなり汚い。床にすそを思い切り引きずっているが気にしないらしい。白衣さえ脱いだら今どきの女子大生らしい格好である。髪は肩ぐらいの長さで丸みのあるシルエットなのだが、寝ぐせで無造作に跳ねていた。中学時代の僕よりひどい。そんな異様な有様で、しかも化粧っけがないのに、僕はこの女性に見惚れてしまった。たぶん僕でなくとも目が合えばドキッとして、もう彼女の存在を意識せずにはいられなくなるほどの美人だった。確実に年上の先輩なのだけど、どこか子供っぽく見えるのは、にじみ出る好奇心のせいだろう。

 この人の瞳もキラキラしている。なんだか見覚えがある……?

「ひょ、表彰されてた人……!?」

「確かに表彰されたけど、今はどうでもいい! 静かにこっち来て! 早く!」

 両手ですんごい手招きするので、仕方なくそっちへ寄っていく。やたらと大きな、幼稚園のお遊戯会みたいなジェスチャーだ。この人には『恥ずかしい』という感覚があまりないのか。

 女性はスチール棚の後ろを気にしている。僕はその人が指差す位置――スチール棚のすぐ横へ移動して、同じように膝を折った。何か落としたか、何かいるのか?

「ここでいいですか?」

 僕は女性のほうを見た。その距離1メートルもない。こんな不摂生そうな格好をしているのに、いい香りがするから不思議だ。セーターを押し上げる胸は立派で、視線を少し下げたら、ハリのある太ももと、短いスカートの中がちらっと見えてしまった。

「ええと、な、何をしたら、いいでしょうか!」

 僕は慌ててスチール棚の価値のなさそうな石ころに視線を瞬間移動させた。変態だと思われたかもしれない。呼吸が苦しい。こんなに間近で女子大生の下着や生足を見たことはないから、理性がやばい。

「これ持って。そっち行ってくれる?」

 女性は僕の視線に気づかなかったのか、何か渡してきた。そっちを見ずに受け取ったものは、セブンイレブンのビニール袋だった。

「この棚のそっち側で、それ広げて道を塞いで」

「へ? 道?」

「いいから早く。そーっとね」

 僕はようやくこのお姉さんが何かを捕まえようとしているのだと気づいた。

「ゴ、ゴ、ゴキブリじゃ……」

「違う違う、もっと可愛いヤツ」

 実験用のマウスでも逃げたのだろうか? ちょっとだけ安心して僕はビニール袋をスチール棚の足元に設置した。

「隙間開けないで。いい? こっちから追うから入ったらすぐ閉じて。おっけー?」

「オーケーです」

「行くよー」

 寝ぐせのお姉さんが反対側から棚の裏に手を差し入れ、『そいつ』を追い込む。音もなくかなりのスピードで僕の袋の中に飛び込んできた!

 心臓が止まるかと思い、鳥肌が立った。逃がすわけにはいかない。夢中で袋の口を閉じた。

「やったー! ナイスだよ君! ありがとう! ホントにありがとう!」

 女性が僕の手を握ってきたので、僕は驚いて変な声が出たが、袋はつかんだまま放さなかった。

 ゲットした生き物は、茶色っぽい体。しま模様の八本の長い脚。つまりクモである。しかも大きい。脚を広げると十センチくらいありそうだ。

 ガサガサという動きが伝わってくる袋を、一秒でも早く手放したくてお姉さんに渡した。

「いやー、これは大きい。最高っ! いい仕事した!」

 何が最高なのか分からないけど、捕まえたクモを見て喜んでいた。袋に鼻がくっつくくらい顔に近づけているので、よく平気だなと感心してしまう。

「これ大丈夫なんですか? もし毒とかあったら……」

「アシダカグモは毒がないから大丈夫。噛まれてもちょっと痛いだけ」

「アシダカ?」

「そうだよ。家の守り神みたいな子。ああもう……かわい~っ!」

 その笑顔は僕ではなくクモに向けられていたのだけど、一点の曇りもない春空のような『かわい~っ!』は僕の胸に深々と突き刺さった。白衣が汚いとか寝ぐせがすごいとかどうでもいい。可愛いは正義。

 猪俣香織いのまたかおりさん。農学部森林学科四年生。二十一歳。通称、先輩。

 小学生みたいに天真爛漫で、太陽みたいに明るくて、好奇心と己の欲望に忠実。綺麗な顔立ちをしているのに、いつもラフでズボラな格好で、言動にも少々難があったりする。

 そして何より虫を愛している。

 僕はそんな彼女に恋をした。

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