日々を彩る、恋愛短篇。—花色—
日々を彩る、恋愛短篇。第3作目です。
第1作「—朱鷺色—」で出てきた彼女がメインの作品です。
是非、第1作を読んでからお楽しみください。
自分の名前が嫌いだった。
名付け親である母親は、私を溺愛している。似合うと思ったら、服も靴も、何なら化粧品だって小さい頃から与えられてきた。それも、ピンクや赤色のものばかり。ピアノだとか日本舞踊だとか、お上品な習い事にも片っ端から通わせた。家に帰れば、淑女としての振る舞いを教えられた。できなければ暴力を振るわれる——なんてことは決してなかったけれど、少しでも反発したり嫌がったりすると、母は宝物を壊された子供のような、そんな悲しい顔をした。そんな母を蔑ろにすることは、私には到底できなかった。
結果として私は、艶やかな長い黒髪によく手入れされた玉肌、ピンと伸びた背筋に必要以上に丁寧な言葉遣いの、誰もが認める立派な大和撫子へと成長した。
決して、母のことが嫌いなわけではない。無理強いをしてくるわけではないし、愛情の限りを尽くして接してくれているのは伝わっている。
ただ、彼女は、私の母親だとは思えないほどに時代遅れで、夢見がちな人だった。
海外アニメ映画に出てくるような、王子様と幸せな結婚をするプリンセスに憧れ、自らも古典的な「女性らしい女性」として振る舞い、結果的に大手企業部長である父に見初められた。彼女は今でも、それが女性としての正解だと思っている。
◇ ◇ ◇
中学3年の冬。
私は、近隣で最も大学進学率の高い公立高校の門をくぐっていた。
当然、母が進めてきた学校は、私立の女子高だった。パンフレットを渡されたとき、私は初めて母に強く抵抗した。
「別にこの学校が嫌なわけじゃない。でも、将来のことを考えたら、私はこっちの学校に行きたいの」
「将来のことって?何か、やりたいことがあるの?」
ある——と正直に答え、詳細に言ったところで、どうなるかは目に見えている。あり得ないという風に見開いた目を徐々に潤ませ、その場に崩れ落ちながら顔を覆い、女の子がそんなことをしなくても、と嘆くのだ。
言えるわけ、ない。
拮抗した話し合いを収めてくれたのは、普段ほとんどこういったことに口を挟まない、父だった。
「もう子供ではないのだから、何もかも親の俺たちが決めなくてもいいだろう。——好きになさい。自分が後悔しないように」
父が、私の夢を知っていたのかどうかは分からない。それでも、その一言が大きな救いになったのは間違いなかった。娘と同じくらいに夫を愛している母は、あっさり私の意見を聞き入れてくれたのだ。
とはいえ、金を積めば入れるような私立学校と違い、公立の学校は受験がある。努力なしに夢を掴むことなんて、もちろんできない。
私は、まさに今日、推薦受験を受けにやって来たのである。
受付の列に並ぶ。ここで受験票を提示し、まず小論文の試験会場である各教室が割り振られる。そのあと、面接試験が待ち構えているのだ。
見慣れない中学校の制服がたくさん並ぶ後ろで、スクールバッグからクリアファイルを取り出す。自分の番まではまだ時間があるが、直前に慌てたくはない。ついでに、中身をもう一度確認しておこう——。
「……あ」
ファイルの開いた片面から、受験票と面接対策のメモの束がひらひらと落ちた。いけない。自覚はないが、思った以上に緊張しているみたいだ。受験当日に物を落とすなんて。
慌てて拾おうとしゃがみこむと、隣の列に並んでいた受験生も、腰をかがめた。その子はパパっとメモをかき集める。長いマフラーを何重にも巻いていて、あまり顔は見えないが、穏やかそうな目を私に向けた。
「大丈夫?」
「あ……りがとう、ございます」
差し出されたメモの束を受け取り、頭を下げる。受験当日なんて、自分のことで頭がいっぱいで当たり前なのに、親切な人もいたものだ。それとも、目の前で物を落とされて不吉だと思われてしまったのだろうか。
しかしその子は、「気にしないで」と手をひらひら振って再び前を向いた。自然体。親切にすることが、当たり前に身についているタイプの人だ。いい子に、女の子らしく、と親の望む通りに振る舞い、取り繕ってばかりの私とは、まるで正反対。
いいなあ。素直に、そう思った。
全ての試験が終わると、案内役の生徒会役員の先輩に促され、受験生用の靴箱へと向かった。
——出来は悪くない。「求められたこと」に応えるなんて、幼い頃から自然と身についたことだ。用意された作文用紙に、どんな文字でどんな言葉を綴れば真面目で模範的な生徒を装うことができるか。問われた質問に、どんな声色でどんな言葉を紡げばこの学校に欲しいと思われるか。計算せずとも、肌に感じる空気感で分かる。教師たちに植え付けた私の印象は、決して悪くはなかったはずだ。
ローファーを履き、重たい扉を押し開ける。ふと空を見上げると、雪がちらついていた。外で校門まで案内している先輩たちも、マスクでは隠せないほど顔を赤くしている。寒いだろうに。何だか申し訳なく思ってしまう。
「うっわ、雪降ってる」
背中から飛んできた緊張感のないその声は、聞き覚えのあるものだった。ちらりと振り返ると、マフラーに埋もれたその子の目がニッと細められる。
「あれ、さっきの子だ」
「どうも。先ほどはありがとうございました」
深々と頭を下げる。その子は、目をぱちくりさせて、それからアハッと子供のように声を出して笑った。
「さっきも言ったけど、気にしないで。緊張するよね、こんな日は。あんなところで物落とすから、ちょっと心配してたけど……うん、大丈夫だったみたいだね」
そう言いながら、私の目をじっと覗き込む。——近い。この距離感は、普通なのだろうか。同い年とはいえ、初対面の相手なのに。
「お互い、受かってるといいね」
その口調も笑顔も、まるでこの季節にそぐわない、カラッとした初夏の向日葵のようだった。この場にいる受験生は皆ライバルなのに、「お互い」なんて。やっぱりこの子は、驚くほど裏表がない。なんだか、自然と引っ張られてしまいそうだ。
「……そう、ですね。私も、そう思います」
口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど偽りないものだった。その子は、うんうん、と満足そうに頷き、階段を一段降りる。そして、唐突に振り返ってこう言った。
「キミは、受かってると思うよ」
「……え?」
「合格。してると思うよ」
思わず、訝しげな眼を向ける。言葉を交わしたのは、ほんの数回だ。それだけで、何が分かるというのだろう。勘?それとも、怪しげな占い?
私の的外れな心配が伝わったのか否か、それは分からないが、その子は校門付近の先輩たちの群れに視線を向けながら、予想とはまるで違う言葉を放った。
「似合うと思うもん。ここの制服」
「制服?」
防寒用のコートの下からちらつく、少し明るい青っぽいブレザーとスカート。いかにも公立学校らしい、地味で中途半端な色の。
喜んでいいのか怒っていいのか悩んでいると、続けてその子は言った。
「まるで、キミのためにあるみたいな色だよね。……花色の制服」
「えっ……」
私が声をかける前に、その子は「またね!」と手を上げて走り出してしまった。あっという間に校門を曲がり、姿を消してしまう。
もう少し話をしてみたかった。言葉の意味を知りたかった。でも、確かに「またね」と言った。
もしも、ふたりとも合格したら、またあの子に会えるだろうか。
眠る前、私はベッドの上で、スマホの検索タブに「花色」と打ち込んだ。予想外の検索結果に、思わず「え?」と声が漏れる。
その日見た夢は、自分でも単純だと呆れるほど、その色で埋め尽くされていた。
桜の花が散り始めた頃。
無事合格した私は、再びこの校舎に足を踏み入れる。
「……」
きょろきょろと、辺りを見回す。注目を浴びているのは分かっている。必要以上に整えられたこの容姿が、人目を引いてしまうことなんてもう嫌というほど実感していた。小学校でも中学校でもこうだったのだから、これは慣れるしかない。
むしろ、この見た目だからこそ、もしかしたら「あの子」が気づいてくれるかもしれない。私はあの子の声と目しか知らないから——。
「あー!”花”さんだー!!」
後ろからほとんどタックルされるように飛びつかれ、私は思いきり首を痛めた。ああ、あの声だ。若干の苛立ちを含みつつ、それでも再会の喜びを隠しきれず、自分史上最高に変な顔で声の主に応える。
「おはようございます。……お互い、合格して良かったですね。ええと……」
「薫。かおる、って呼んで」
その子は——薫は、歯をむき出しにして、晴れやかに笑った。それが何だか幼くて、可愛らしくて、私も思わずつられてしまう。
「じゃあ、私のことも、名前で。敬称もいりませんから」
「うん!よろしくね!……やっぱり誰よりも似合うね。花色の制服!」
恥ずかしげもなく、さらりとそんなことを大声で口にする。今までの私なら、こんな悪目立ち、絶対に避けていただろう。でも、薫と一緒だと、不思議と嫌ではなかった。むしろ、野菜たっぷりのスープをゆっくりと流し込んだ時のような、ほっこりとした温かささえあった。
私と薫との、穏やかで甘い綿菓子のような関係は、この日始まったのだ。
◇ ◇ ◇
「お待たせ、薫。遅くなって悪かったわね」
生徒会の終礼を終えて生徒玄関に向かうと、すのこの上で膝を抱えている薫が、うとうとと舟を漕いでいた。私の声に、ハッと顔を上げて目を擦る。
「おかえりぃ」
「はいはい、ただいま。……ちょっと!スカートでそんな座り方しちゃダメって言ったじゃない!」
慌てて彼女を立たせると、私より10センチは低い目線で、なぜか嬉しそうにアハッと笑う。
「もう、心配性だなぁ、花は。そんなところも好きだけどさ」
ストレートに言われ、バッと顔が熱くなる。私は、彼女のこういうところ、少し苦手だ。——嫌いではないけれど。
「大変そうだね、会計サン?」
スカートの襞に着いた埃を払いながら、そう訊いてくる。私は「まあね」と答えて言った。
「でも、やりがいはあるわ。お金の管理って、責任は重いけれど、やっておいて損はないもの。高校の生徒会程度で社会に通用するわけではもちろんないけれど、やっぱり将来的には、経済学部に進みたいしね」
前年度までの資料と今年度の生徒会行事計画、来年度以降の行事予定なんかとにらめっこしながら、予算を割り振ったり臨機応変に運用したりするのは、簡単ではないけれど案外楽しい。自分が学校の中枢を担っているのだと実感できるし、間違いなく自分の力になっていると分かる。
彼女は、ニッと口角を上げ、目を細める。
「皆は花のこと、可愛いとか大和撫子だとか言うけどさ。あたしからしたら、花は、国王を支える格好いい大臣って感じなんだよなぁ」
「王様や王子様じゃなくて大臣ってチョイスが、薫らしいわね」
言いながら、靴を履くため腰をかがめる。そのとき、彼女は不意に、私の頬にチュッと口付けた。
「なっ……ちょっと、薫!」
真っ赤になって頬を押さえる私を、大好きなその目で覗き込んでくる。悪戯っぽくて、でも裏表はなくて、真っ直ぐで輝いた目。私には手に入れられなかった、宝石のような目。
「生徒会のお仕事、頑張ってるご褒美。でもね、あんまり無理しちゃダメだよ?本当はピンクより青が好きで、格好よくありたいって頑張ってるの、知ってるし、本当に格好いいと思うし、大好きだけど。
……それでも、あたしにとっては、可愛くってたまらない一輪の”花”でもあるんだからさ」
そんな、今どきの恋愛ドラマでもあまり見ないような甘い甘い台詞を吐いて、彼女は手を差し出した。
「帰ろう、花」
むず痒いような、でも心地いいような、そんな複雑な感情に心をキュウっと締め付けられながら、私はそっとその手を握り返した。あの日先に走り出されてしまった道を、今は、ふたり並んで歩く。
いかにも女の子であることを強要され、男の人に愛でられることを前提としたような、母の夢が詰まった自分の名前が、嫌いだった。
でも今、花色の制服に身を包み、それを似合うと笑ってくれる彼女が、嘘のない真っ直ぐな声と瞳で呼んでくれるその名前が。
——何だか少し、好きになってきたみたいだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回初めてガールズラブというものに挑戦してみました。
また、過去の作品や今後の作品も読んでいただけると嬉しいです。