霧が覆い隠すこと
イルが馬車の外に出てからほんの数秒後、外で口論が始まった。密閉性はそれほど高くないとはいえ、外でイルとベスティアが何やら話をしている事しか分からない。
揉めているのだけは分かる。滅多に声を荒らげないイルの声に棘がある。残念ながらお互いに向かって2人は何を言っているのかまでは聞こえない。
馬車内にいろと言われたので動くべきではないだろう。必要であればリタをイルが呼びに来てくれるはずだ。そう頭では分かっているのに仲裁に行くべきかと悩む。
窓の外を覗こうにも何故か曇りガラスのように霧で覆われていて外を確認できない。状況的にどう考えても異常事態だ。霧が発生して前が見えずに魔獣を轢いてしまったとかかな?とも考えたが、それでイルが声を荒らげるとも思えない。
外は2人の口論以外に、魔獣が唸るような声もする。ベスティアがまたあの薬品を撒いたのだろうか?でも、なんで?この状態で外に出たらまだ体調が万全ではないリタでは足手まといになってしまう。それに戦闘にはかなり不向きな格好をしているだけに、安易に外には出られない。
ガンッ!
「キャッ!」
窓から眺める外は未だ霧で覆われていて見えないが、何かが馬車の側面に大きな音を立てて激しくぶつかった!
ドンッ!
「ひえっ……!」
一体なんの音だろう?強い風が吹いているのか、馬車は止まっているのにガタガタと横に揺れる。このまま乗っているのもそれはそれで危ない気がした。
ゴンッ!
「うわっ!」
今度は天井に何かがぶつかったようだ!
馬車の揺れも激しくなってきている。リタは怖くなり、思い切って外に出ることにした。
扉にそっと手を掛け、勢い良く飛び出す!馬車にはまだ何かがぶつかってきており、衝撃で馬車が軋む音がする。急いで馬車から離れなければ、馬車に目掛けてぶつかってきている何かにリタも当たりかねない。リタは小さな声でイルに外に出てしまった事を詫びる。
「ごめん、イル。やっぱり気になっちゃって……って、あれ?」
霧は馬車をドーム状に包んでいただけのようだ。数歩進むとポスっとその中から出る事が出来た。急にクリアになった視界に戸惑い、リタは辺りをさっと見渡す。後ろから馬車にまた何かがぶつかる音がしたので振り返る。しかし馬車は未だにドーム状霧に包まれており、馬車を視認するのは困難だ。
何かがぶつかってきていたならば、それに怯えるはずのウマが落ち着いているわけだ、と思った。ウマにはより濃い霧がかかっている。ウマ自体、何が起こっているか分からないから慌てたり怯えたりすることもなかったのだ。もしかしたらあの霧で音も吸収しているのかもしれない。
目線を後ろのウマから前方に戻そうと体をひねる。
グルルル……
「駄目です、リタ様!馬車にお戻り下さい!」
「今日はわたくし、準備万端ですの」
イルがリタに向かって叫んだ後にベスティアの声が耳元で聞こえ、驚いたリタは素早く距離を取った。
「いったっ……!」
羽を使って俊敏性を高めた事で、損傷を受けている羽に痛みが走る。飛翔の魔法が今は使えない。羽で風を切って素早さを上げる事で精一杯だ。それでも無事、距離を取ることには成功した。
リタは周囲を警戒しながらぐるりとその場で一回りする。ベスティアの姿を探すと、ベスティアを見つけるよりも前に、犬型の魔獣をリタは見つけた。
コヨーテウルフだ!
コロンバス連合世界の歩き方に挿絵と一緒に紹介されていたのを思い出す。
「アオーーーーーン!」
リタと目があった一匹が遠吠えをする。
その瞬間!
「……!ガハッ!」
それとは別のコヨーテウルフが背後からリタを襲った!小さな個体だが、力は魔獣なだけあって強い。油断していたリタは前のめりになって地面に膝を打ち付けた。
「リタ様!クソッ!離せ!」
イルも何かに動きを封じられているようだ。距離があって暗い所為で良く見えない。じんわりと照らす月明かりと街灯で、かろうじてローブを被っている事が分かる。だがおかしい。さっきベスティアはリタの近くにいた。いつの間にイルの方に行ったのだろうか?すばしっこい獣人族とはいえ、流石に早すぎる。もう一人別の敵がいるのだろうか。
地面についていた膝に砂を付けたまま、立ち上がる。イルを助けなきゃ!羽が痛むのも構わずリタは胸元から針を取り出し、イルを拘束しているローブを被っている者に向かって詠唱する。幸いここは森だ。
『樹々よ、緑よ、私に力を!蠢き!』
イルの近くにあった木の枝が瞬時に伸び、意思を持っているかのように動き出す!ローブの者を拘束しようとウネウネと枝が動く。
ローブの者が避けて躱している間にリタは風を呼んだ。
『爆風!』『状態維持!』
羽が使えないので、風魔法でイルの元に向かう!
羽を損傷してから魔法の発動に微妙なラグがある。その上、今までであれば魔法を連発しなければ息は上がらなかった。だが今はすでに魔力欠乏症になる手前の初期症状が出始めており、頭痛がする。
もうイルは目の前だ。ローブを被った者はリタの発動させている木の蠢きから逃げている。すると、キラッと何かが光ったかと思うと、魔法を詠唱する中性的な声が聞こえた。逆光で良く見えないが、細長く鋭利な物を使ってイルに焦点を当てている。
『魔力窃取』
その瞬間、イルはカクンと意識を失い、膝から崩れ落ち、横たわった。
「な?!イル?!」
イルの意識を奪ってすぐにローブを被った者は姿を隠した。木の枝が対象を捕らえられずに目標を失ってウネウネ蠢いている。キョロキョロと見渡し標的を探すが見当たらない。
そしてイルに触れられるあと一歩でリタの背中に衝撃が走る!
「ギャアッ!」
ベスティアだ!リタの羽をもごうと手を伸ばしたのだ。防御壁を膜のようにして羽に纏っていたつもりでいたが、やはり上手く魔法が発動できていない。右羽の上部先端が少し破れ取られてしまった。ベスティアはどこからか取り出した小瓶にそれを入れ、またどこかにしまう。
リタはクルッと身を翻し、ベスティアに背を見せないようにする。腕でベスティアを払い退け、距離を取った。そしてイルに覆い被さり、息を確かめる。
良かった、息はあるようだ。さっきの魔法は何だったのだろう。窃取?摂取?イルの魔力を奪ったのか。そんな事が可能なのだろうか?様々な疑問が湧いては消えた。それよりも気を失っている人は無闇に触らないほうがいいと聞く。リタはイルを横たわらせたままにした。ベスティアが近づかないよう、イルを背にして立ちはだかる。
「ベスティアさん、私の羽が目当てなの?」
スッと足音もなく一歩、また一歩とリタにベスティアが近づく。
「ええ、事情があって……2枚だけ頂けませんか?お返しはできませんが……療養所もご用意してありますので、しばらくそこで過ごして頂ければ宜しいかと。もちろん、お礼は弾みますわ」
「いやいや、それで大人しくはい、そうですか、と差し出す奴がどこにいるのよ……イルに何をしたの?」
「少しお眠り頂いただけですわ」
「あの時も羽を狙っていたの?だからあの薬品を持っていたの?」
「あれは手違いですわ。あの薬品はあくまでわたくし専用の物。リタ様には関係ありません」
話しながらも歩みを進めてくるベスティアを牽制する為に防御壁を展開する。
『プロテクション』
光が球体状にイルとリタを包む。これで少しは時間稼ぎになるだろう。リタはイルの胸元やポケットを探り、紙とペンを取り出す。いくつか現状を説明する単語を羅列して書物伝令を素早く書き上げ、複写する。同じ事を書いた物を念のためにレイズとジルクの2人に飛ばした。
「イルから聞いたけど、ジルクやレイズはデソレート街の件もあなただって疑っているわ。その服類にはブランドネームタグがあったの。人族の服に悪戯をしているのはあなたなの?」
「そんな事は致しませんし、存じません。デソレート街にだなんて行ったこともございませんわ。確かに以前サンプルでいくつか人族にタグを提供したことはありますが、獣人族の作った物を貶めるような事は絶対に致しませんわ」
「デソレート街で私たちが服類を回収しようとしていたら次の日に服が消えたの。ねえ、あなたがやったんでしょう?さっき他にも誰かいたわよね?もしかしてその人に協力してもらって……?」
「何のことです?誰か、とは?見間違いではありませんか?ここにいるのはわたくしだけですわ」
ベスティアはあくまでシラを切り通すつもりだ。防御壁の光が均一さを失い、消えかかっている。
防御壁で対処出来るのがここまでか。
リタが攻撃に転じようと針を構えた、その時。
「あら、ベスティア。わたくしもいるのですわよ?それにリタ様、ベスティアはタグの異変に気がついていませんでしたわ。タグのサンプルをベスティアから見せられた事がありましたの。その時にあれはわたくしが対処しましたわ。ベスティアは何も分かっていないんじゃないかしら?」
「!!!!!!パトラ様?!どうしてここへ!」
パトラがベスティアの後ろから現れた!さっきのローブの者はパトラだったのか?いや、それはない。ベスティアの驚き加減を見れば分かる。パトラは予想外に現れたと見える。
「どうしてって、ここは公爵家の私有地の森よ。わたくしがここにいるもは当然でしょう?」
「ですが、今日は夜会に参加されるのでは……!一体どこに隠れて……!」
「わたくしを舐めてもらっては困りますですわ!隠密は得意ですのよ?」
まさかのパトラの登場に動揺を隠せないベスティアは、一旦リタとパトラから距離を取れる方向に飛び上がった。
パトラはリタとイルの元に足を進め、2人を背にしてベスティアに顔を向けた。
「ベスティアが自分から率先して馬車でリタ様をお迎えに行くだなんて、おかしいと思ったの。だってベスティアがいた事ですでに怪我を負わせる出来事があった後でしょう?たとえこの人達の侍女を命じられたからと言って、自分が原因で怪我をさせた相手の馬車を自分が引こうとなんて、普通は思わないわ。特に今日はべアーノがいるもの。今日、わたくしはベアーノを敢えて使わず、違う使用人に馬車を引かせて出て行ったの。伝えてあったでしょう?だから貴女からしたらベアーノに馬車を引かせて、自分は賓客と馬車内に乗り込むほうが安全じゃない。でもベスティアはそうしなかった。ね、怪しいと思うでしょう?」
「そ、そんな理由で後を付けたのですか?!一体どこから?!」
「仕立屋を出た辺りからよ。あの仕立屋の近くでわたくしもたまたまアクセサリーをまだ選んでいたのですわ。ベスティアがローブを被って御者席に座った所でやっぱりおかしいな、と思ったの。途中で霧がかかって見失ったから見つけるのに時間がかかっちゃったわ」
もしイルが同行していなければ最初から仕立屋に向かうつもりもなかったベスティアは、それを聞いて唇を噛み締めた。イルをあの時防いでいれば、この事態にも陥らなかったのに、とベスティアは悔やむ。
「ベスティアさんが何も分かっていないって、どういうことですか?」
リタはパトラに背で守られながら尋ねた。
「ベスティアから見せられたタグには嫌な感じがあったから、その上から守護を縫い直した事があったの。それの事でしょう?」
「守護を縫い直した……?でも悪意はまだ残っていたわ」
「そうなの?じゃあ完全に消せた訳ではなかったのね。抜かったわ」
「わたくしがタグを広めたのがそんなに気に食わなかったのですか?やっぱり影ではわたくしの事を嘲笑っていたのね!」
ベスティアは怒りで全身の毛を逆立てている。尻尾がブワッと膨らみ威嚇の姿勢を見せている。
「ね?何のことか分かっていないでしょう?だから別で誰かが裏で糸を引いているのよ。ベスティアがこんなことする筈ないもの。だってベスティアは……
優しいから」
優しいから、と言ったパトラの声には悲しみが含まれていた。きっとパトラはまだベスティアを信じているのだ。ベスティアがこんなことする筈ない、誰かに脅されているのだという考えが透けて見える。
パトラはリタに説明するようにそう言うと、言葉を続けた。
「他の使用人を置いてきちゃったから今頃わたくしを探し回っている頃だと思うわ。観念なさい」
パトラが手に嵌めたナックルをグッと握りしめ、ベスティアに向かって走り出す!
すると、
『魔力譲渡』『増幅』
どこからか詠唱する声がリタには聞こえた。呟いた瞬間に感じた気配がスッと消えるのが分かった。
「お前さえいなければあああああ!」
ベスティアの魔力が増幅する!猫の見た目をしたオレンジの耳と尻尾に黒い斑点が浮かび上がり、花のように並ぶ斑紋が広がった。ベスティアの小さく鋭い爪が太く肥大化する。さながらヒョウのようだ。
「やっぱり、協力者がいたのね」




