白銀の少女<後編>
重苦しいような話ですが、読んでいただきありがとうございます。
後編にて完結となります。
よろしくお願いいたします。
まったく知らない土地。
まったく知らない人々の顔。
皆が自らに向ける好奇と畏怖と蔑みの視線。
少女はそれらから逃れるように、自らを庇護した者の屋敷を飛び出してきた。体は思うように動かなかったが、それでも物音も足音も立てずに、ほんの少しの用心をすれば、彼女は誰にも気づかれることなく、屋敷の外へと出ることができた。
その屋敷は建物が密集する場所よりも離れたところにあり、人の住まう場所を避けて逃げれば、少女は自然と郊外へと出ていた。逃げ出していた屋敷を背にして立てば、少し離れた場所に大きな森が見える。この句の人々には「魔の森」と呼ばれて恐れられている場所であったが、少女がそんなことを知るはずもなく、そのまままっすぐに自らの故郷と似た環境の森へと向かっていく。
ふと、少女の足がとまる。森からほんの少し離れた場所に、湖を見つけたのだ。
「……」
きつく唇を噛みしめたまま、その湖を見つめていたが、何を思ったのかふらふらとした足取りで湖の方へと向かっていく。
湖は静かに水をたたえ、昼間の暖かな日差しを存分に受け止めていたが、少女がたどり着いた時には、不意に吹き始めた風が水面をざわつかせていた。その風は、ついでのように少女の白銀の髪をも揺らして吹き抜けていく。
少女はそんな風をしばらく見守って、水面が落ち着くのを待っていた。
水は嫌いだった。いつ触れても冷たいし、人の姿をゆがめて映すからだ。
でもなぜか、今目の前にある、視界の全てを水で埋め尽くしてしまいそうな湖は、優しく少女を招いているように見えた。
少女は泳げない。
それは自分でもよくわかっていたし、自分がこの湖の中へと入っていけばどうなるかということもわかっていた。
きっと苦しい。
そう思う。
でも、今よりも苦しいのかと問われれば、なぜかそうではない気がした。
今ある少女の苦しみはずっと続く苦しみ。
自分を愛してくれていると思った肉親に裏切られ、知らない人間に売られ、ひどく痛い思いをさせられ、そして、たくさんの人間の好奇な視線にさらされた。
獣に姿を変えることができることで、なぜこんな目に合わなくてはならないのか。自分の村に住んでいた者はほとんどが獣に変わることができた。
そのため彼女は普通の人間は獣に姿を変えることができるのだと思い込んでいた。
だがそれは違うらしい。
自分は特別らしいのだ。ならば、自分の姿が変わる限り、今の苦しみは続くのだ。
少女は幼いながらにそんなことを思い詰めていた。すでに自分が奴隷のように扱われることがなくなり、庇護されたという事実は、幼い少女にはまだ理解ができていなかった。
国王サクセスのしたことは、鳥かごに押し込められた野生の鳥をうけとって、その飼い主になっただけのようなものであった。彼自身は少女を庇護したつもりでも、少女の方はそのことを理解せず、別の場所に閉じ込められたとしか思わなかったのだろう。
「もう、やだ……」
湖の水に片手を浸して、水面に映る自らの顔を消し去って、少女はそう呟いた。
もう、愛してくれる人はいなかった。愛してくれていると思っていた人が、彼女を裏切ったからだ。
その人はもう自分を必要でなくなったから、自分を売ったのだ。
幼い少女はそう考える。
「自分はいらなくなったから捨てられた」
と。
ひどく悲しかった。
自分を愛してくれた人に裏切られたことが悲しい。
自分を愛してくれた人がもうそばにいないことが悲しい。
自分が一人なのが悲しい。
苦しみがほんの一瞬で、その後にはもう何も感じなくなってしまうのなら、こんなに悲しい思いをしなくてもよくなるのなら……。
そこまで思った時には、少女はその細い身体を腰まで水に浸していた。
不思議なほどに、湖の水は冷たさを感じさせず、優しく少女を包み込む。まるで、母の腕の中のような心地よさを覚え、少女はさらに深みへと足を運んでいく。
そこで思う。
このままここに沈めば、自分はきっともう一度母の元へと行ける。苦しみから逃れ、もう一度母のもとで暮らすことができる。
「母さま……」
そのつぶやきを最後に、少女の身体ががくんと水の中に沈んだ。足をすべらせ、彼女は深みに落ち込んだのだ。四肢が急に軽くなった気がした。
口の中に、喉に、肺に……全てに水が流れ込み、苦しみが一気に押し寄せる。激しく咳き込むように、体内に存在する空気の全てを吐き出し、その代わりに水が体内へと容赦なく入ってくる。
それでも、少女は自らの身体を浮かび上がらせることはしなかった。四肢を水の中に放り出し、水面越しに見える太陽とその光を見つめ、自らの口から吐き出される無数の泡をじっと見つめて見送っていた。
そうするうちに苦しみも感じなくなってきて、意識も視界も朦朧としたものになっていった。
緑がかった青い水が、少女を優しく抱き留めてくれているような錯覚を覚え、少女は眠りにつくときのように、穏やかにその瞳を閉じていった……。
***
暖かな胸だった。体をすっぽりと包み込んで、守られているという安らぎを与えてくれる。
少女は自らを抱き留めてくれる胸のなかで、久しぶりの心地よい眠りから目を覚ます。
だが、いつまでもその心地の良いぬくもりにすがるように、少女はさらにその胸の中に体をうずめる。
そこで気が付く。
母の胸はこのように広かったか? こんなにも力強かったか?
朦朧とした頭で考え、やがてはっとなる。違う、と心が訴え、身体全体に緊張が走る。
恐る恐る瞳を開く。
ぼやけた視界に初めに映ったのは、大量の黒。彼女を抱き留めている人物が、長く伸ばした黒髪と、真っ黒な衣装を身に着けているということが分かった。少女の母も黒髪で、常に黒い衣装を身にまとっていたが、やはり自らを抱き留めている人物は母とは違う。
ゆっくりと、視線を上げて情報にあるその人物の顔をみあげると、そこには不思議な輝きの薄紅色の瞳を持つ、端正な青年の顔があった。
「母さまじゃない……」
震える声で何とかそういうが、身体がだるくてその場から逃げだすことができなかった。
そんな少女を、青年は不意に見下ろして言う。
「目覚めたか」
と。短い言葉を口にした青年は、少女の一番上の兄よりも年上のように思えたが、兄たちの誰にも似た雰囲気は持っていなかった。
「だれ?」
少女も短く問い返す。だが、青年は少女から視線を外すと、片方の手に持っていた釣り竿の先へと視線を向けた。
「……ツァルガの血筋にこんなところで会うとは思わなかった」
淡々とした口調でそんなことを言うが、その言葉は少女の問いに答えるものではなかったうえに、彼女には理解のできない言葉を含んでいた。それでも、少女は自分が死んだのではないことを理解する。そして、いま青年が腰を下ろして釣り竿を垂らしているその場所が、自分が身を沈めた湖のほとりであることに気が付く。
「なんで、たすけたの?」
自分が死んだのではないのなら、だれかが自分を引き上げたのだろう。そして、それはたぶん、この青年でしかありえないと、少女は考え、そう尋ねる。
自らの服や髪や身体が彼の魔法によって乾かされたことなど、少女にとっては問題ではないのかもしれない。いや、もしかしたらそこまで考えが及んでいないのかもしれない。
黒髪の青年は、そんな少女に再び視線を落とし、竿を持つ手と反対の手……先ほどまで少女を支えていた手で彼女の白銀色の髪を少しだけすくう。
「珍しいからな、もったいなかろう?」
彼女の髪の色の事をいっているのだろう。確かに、このあたりで金や銀の髪色は珍しくないが、白銀となるとそうそういない。青年はそれが珍しく、もったいないから助けたのだと言う。少女がなぜ身を沈めたのかもしらずに、そんな理由で助けたのだと。
「死にたかったのに。もういやだ。みんな裏切るんだもの。みんなひどいことするんだもの。なのに、死のうとしたらなんで助けるの? みんないらないからひどいこと、苦しいことをするんでしょ?」
今まで誰にも言うこともできなかった言葉を、少女は堰を切ったように口にし、小さな拳で次から次へとあふれる涙をぬぐう。
そんな少女を、好き勝手に胸の中で泣かせ続け、青年はただ静かにその姿を見やっていた。
やがて、少女の言葉がすべて吐き出された、ただ小さく肩を震わせてしゃくるだけになったころ、青年は小さく息を吐いてから言う。
「お前が死ねば、サクセスが悲しむからな」
「サク……セス……?」
誰だっただろうかという思いで口にしたが、すぐに脳裏に一人、青銅色の髪と瞳の人物が浮かんできた。
「なんで、悲しいの」
そんなことは嘘だと、そういいたかった。自分が死んで悲しむ人などもういないのだと、少女は瞳で青年に訴える。その視線を受け止めて、感情の起伏のない表情で青年は少女に問うた。
「あいつは、お前にひどいことや苦しい事をしたか」
その言葉に、少女はしばらく考え込んだ。あの人は自分に何をしたのかと。そこで、初めて少女は自らの記憶の中で、あの人の視線はほかの人と違ったものだったということに気が付く。
なぜか悲しそうに、自分を見ていた。
そんな気がする。
「ううん……」
小さく、首を横に振った。
「ならば、あいつはお前を必要だと思っているのだろう。……それだけではだめか?」
なにが、ダメなのか。
それをはっきりとは口にしなかった青年であるが、少女はそれがどういう事かを読み取っていた。
だが、すぐには答えが出ない。
そんな少女に青年がその大きな掌を頭の上に乗せる。
「ゆっくり考えろ」
そんな声が聞こえる。
少女の兄は彼女の頭に手を乗せて、何度も何度も優しくなでてくれた。青年はただ頭に手を乗せただけだった。それでもなぜかその手の大きさと暖かさに、彼女は懐かしさと優しさを感じてゆっくりと瞳を閉じた……。
***
いつの間に眠っていたのだろうか?
少女が目を覚ました時、彼女はやわらかな寝台に横たわっていた。目の前には黒髪の青年の姿はなく、代わりに青銅色の瞳が自分を心配そうにのぞきこんでいた。
「目が覚めたかい? 良かった。羯羅に君が湖に身を沈めたと聞いた時には、心臓が止まるかと思ったよ」
優しげに瞳が和み、笑みにほころんだ口からそんな声がこぼれる。
「から?」
「君を湖から助けてくれた人の名前だよ。覚えていないかい?」
あの、黒髪の青年が羯羅というのだと理解したとき、彼との会話が不意に思いだされ、
「サク……セス……」
その名前が自然と口を突いて出た。
少女の口から自らの名が出たことに驚き、そうしてからようやく彼女の声を初めて聞いたのだということに気が付く。そのため、彼は嬉しそうに微笑んで言う。
「それは私の名前だ。君は、私の名前をしっているのだから、私にも君の名前を教えてほしい」
少女の名前はまだ誰も知らない。口をきいたことも初めてだったのだから当たり前だろう。ゆえに、サクセスも彼女の名前を知りたかった。
少女はしばらくの間、じっと目の前のサクセスの優しげな笑みを浮かべた顔を見つめていた。琥珀の瞳にはまるで、信じて良いのか、いけないのか、そんなことを考えあぐねているような色が浮かんでいた。
サクセスはただ、じっと少女の唇が動くのを待った。
「……ユキ……」
やがて、ぽつりと少女がつぶやいた。あまりの短い呟きだったために、それが少女の名前だと気が付くのに少しの時間を必要としたサクセスであったが、すぐに少女の手を握りしめて言う。
「じゃあ、ユキ。私のお願いをきいてくれるかい?」
少女は、ユキは、自らの手を握りしめられたことに、ほんの少しの戸惑いを浮かべながらも、小さくうなずいた。
この人は、自分を必要だと思ってくれているのだろうか?
そんなことを思い浮かべたころに、サクセスは再び口を開いた。
「……お願いだから、もう、自ら命を絶とうとしないでくれ」
ゆっくりとした口調で言い、ユキの手を握りしめる手に力を込める。
「私はいらない子だと言われてきたが、こうして生きている。君にも同じように、強くいきてほしい」
真摯なまなざしであった。
「お兄ちゃんは、わたしがいらなくなったから、知らないおじさんにあたしを売ったの」
そう呟けば、じんわりと涙が浮かんでくる。
誰でもいい、自分を必要だと言ってほしい。いらない子どもなんかじゃないと、言ってほしい。瞳がそう語っていた。
サクセスのは彼女のその思いが良くわかった。それは、自分自身が何度も願ったことだったから。ゆえに。強い意志をその瞳に宿して言う。
「私は君に会ったばかりだけれど、君が死んでしまったら悲しい。君の兄さんが君をいらないと言ったのなら、私が君を貰い受けてもだれも文句は言わないだろう? だから、今だけでもいいから、君は私のために生きてくれ。君が強く生きてくれたのなら、私はただそれだけで嬉しいし、幸せになってくれたらもっと嬉しいだろう」
だめだろうか?
そう言った彼の声は、心地よくユキの心に届いた。
『あいつはお前を必要だと思っているのだろう』
黒髪の青年……羯羅の言葉が思い出される。
「自分を必要だと言ってくれる人間が、たった一人では生きていけないか」
彼はそう言ったのではないかと、ユキは思う。だかた、彼女はじっとサクセスを見やった。
彼もまた、同じ言葉を彼女に言った。
優しい瞳と暖かい手を持つ彼の言葉は、きっと嘘じゃない。
根拠などなかったが、そう思わせる何かがあった。
だから。
「……ううん、だめじゃない」
首を小さく横に振り、ユキはそう答えた。
「ありがとう、ユキ」
微笑んでそう言った彼の顔を見て、ユキもまたほんの小さく微笑んだ。彼の表情をみて嬉しくなったからだ。
この人が笑ってくれるなら、苦しくてもいい。この人が見ていてくれるならきっと生きていける。
少女は傷ついた心でそう思う。それだけで、傷ついた心が少しだけ癒えていく気がした。
こうして少女は国王サクセスのために生きることを、幼い心に誓った。
彼女はやがて、養父ユーサー将軍の教育の元、健やかに、そして強く成長していき、国王サクセスを支える部下となるのである……。
≪白銀の少女 後編≫
ここまで読んでいただきありがとうございました。
自分的に少女もサクセスも思い入れのあるキャラなので、また何かの形でお話を披露できたらいいなと思っております。