唯識二十論 を読み解く ヴァスバンドウ(世親) 原著 私の仏教研究序説
序言
もちろん仏教哲学とは、いわゆる合理的な、、科学的な整合性や学問的な真実を追求するような種類の「哲学」ではない。
仏教の、、というか、、大乗仏教の仏教哲学とは、大乗の教えの擁護であり、弁護であるという大前提に立っているのであることは当然であろう。
大乗の教えの確立と弁護、そのための仏教哲学です。
まっさらな前提からの合理的、論理的な真理追及、、なんかではないということです。
そういう意味においては仏教哲学とは、即、神秘主義である。
唯識学も、中論による「空の哲学」もすべてそういう意味では
科学的な合理性とは隔絶した、、神秘主義であることをあらかじめ序言しておく次第である。
同様に小乗仏教の「アビダルマ」哲学も、まさに神秘主義であり、そこで論じられているのは科学的な真理の追求なんかではないのであることも、ご理解されたい。
あの精密無比な煩瑣哲学である、アビダルマ哲学にしてみてもその目指すところは
科学的真理ではなくして、あくまでも「サトリ」への階梯であることから見てもそれは明らかであろう。
原題 世界は表象のみである(唯識)ことを証明する20の詩・頌・論
1、欲界、色界、無色界、すなわち三界は、心の見ている、表象に過ぎない、
表象とは心的作用であり、表象の対象は存在しない。
「反論」対象なくして、表象のみが起こるということは、おかしいではないか?
「答論』あたかも夢の中の食べ物、衣服、武器は夢の中だけのことであり、対象は存在していないごとく対象なくしても表象作用は起こるのである。
「反論」例えば地獄の邏卒は実在するといえるのか?
「答論」彼らは実在していない、何故なら邏卒どもが彼らだけ地獄の業火に焼かれないのは不合理だからである。
「反論」畜生は天上界に転生できるのはなぜなのか?
「答論」天上界で歌う迦陵頻伽などはその行いのカルマによってそこに転生できるのだ。
反論 地獄の邏卒はある種の物質的要素が凝り固まって、実体化しているのではないか?
答論 それらはただ心の要素が転変したのであって、物質的実在でない。
2、世界には有情もなく、自我もなく、心識だけが表象として現れる。
反論、色や形が我々に実在すると認識されるのはなぜなのか?
答論 色や形として表象されるのは、その「種子」が「薫習」として、ある状態に達した時、
色、形として表象するからである。
反論 実体が存在しないというなら、「表象のみである」という主張も、存在しないのでないか?
答論 自我、他我というような区別は存在しないという意味での、実体の不存在であり、
表象が実在するのは確かである。
3、表象することが対象の実在を証明しない
反論 表象こそ確実な認識方法であり、表象作用は実在を証明するのではないか?。
答論 表象イコール実在という証明はできない、なぜならば表象作用は「刹那滅」であり、対象の実在性は証明できないからである。
反論 もしも夢の中のように、何ら対象がないのに認識するというならば、目覚めれば人は悟るであろう、しかし現実界では、どうやっても、対象が実在するとしか認識できないのである。
答論 現実界においても人は「分別」と「習気」の深い眠りに落ち込んでおり、「清浄智」の目覚めに達するならば、対象の非実在性を悟るのである。
4、他者が存在するという表象作用は「薫習」が潜在的に認識される表象作用である。
反論 もし他者が存在しないというならばたとえば「悪友と交わるな」というような教えは意味をなさないではないか?
答論 他者が存在しないとは言っていない、他者とは交互に認識しあう表象交互作用に限定されると言っているのである、
反論 では、例えば他者が人殺しをしようとしていても、それはただの表象作用にすぎず、人殺しの罪に問われないのではないのか?
答論 それは心のある特殊な表象作用としての死(殺人)である。表象作用としては確かにそれは、存在している。
5、究極の真理は仏陀のみが実現できるのである。
反論 一切が表象作用に過ぎないとするならば、悟りも幻なのではないのか?
答論 表象作用を超えたところに仏陀の認識作用は到達している。したがって、仏陀は主観・客観の超越した認識作用で、一切を領知している。
それは論理的思惟を超えており、
「一切は表象作用のみである」(瑜伽行唯識)という真理は、仏陀の清浄智に達したものだけが得られる無限の究極の「無量知」である。
まとめ
残念ながら,わたくしこと、世親はそこ(仏智)までは到達していないので、自分の許す才能の限りにおいて以上の論述を著したのである。
すなわち、完全な形での「一切は表象作用のみである」(瑜伽行唯識)という真理の、証明は仏智の境地に至らなければ得られないのである。
付論
唯識思想とは?
世親の唯識論であるが
これは同じく西洋風に言うと、
認識論に当たるだろう。
世界は我々の認識に於いては、ただ表象作用として現出してるだけであるという思想である。
存在認識は、8種類の識によって認識・観想される、
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識
その認識の底辺を成すのが「阿頼耶識」でありこれはいわば潜在意識(無意識界)である。
この基底の上部構造が「末那識」であり、これは辺縁系の潜在意識、、とでもいえるだろう。
ちなみに、、この潜在意識を発見したことにより唯識学派は世界最初の深層心理学だともいわれています。
更にいわゆる「五感」眼識・耳識・鼻識・舌識・身識が上部構造をなしているわけである。
以上で8識、
さらにもう一つ究極の仏智がある
これは悟りの境地の、第六感とでもいうべきものがある。
が、、これは仏智の悟りに到達しえたものだけの無窮の知恵であり
一般人には無縁である。
つまりは人は、8識で世界を認識していることになる。
そして、その認識の先に物自体が、、実在界があるということは証明しえない。
つまり意識界がただ生起し消滅を繰り返すのみで、
実在は、、即、、空である。
表象(識)は明滅しては消えていき、その背後は空である。
すなわち、色即是空の真理なのである。
この
空の論理(中観派)と
唯識思想(唯識派)は
こののち、
幾つもの分派を生み
大乗仏教の根幹哲学として、
枝分かれして発展してゆくのである。
付記
2017,4,16
NHK Eテレで
心の時代
「唯識を生きる」6回シリーズが始まりました。
え?
唯識って結構、トレンディだったんだ?
通俗的に
トレンディに
唯識が語られ実践されてゆく現状を
お伝えてしています。