第四話
昨夜はすることもないから知らない間に寝てしまった。
現在時刻は暫定午前五時半。
まだ夜は開けてないが、山の向こうが少し明るい。
あちらが東だろうか、コンパスで確認してみる。
間違いない東だ。もちろんコンパスの北がこの星の北ならばだが。
お湯を沸かしている間その辺でトイレを済ませてお湯が沸いたらコーヒーを飲む。
チョコレートを軽くつまみながら体をほぐしていく。
少し早いが、出発することにする。
この世界に来てから二日目。時刻は暫定でお昼の十二時。俺の腹時計もそのぐらいだ。
道のそばを流れていた川は目の前で滝になっていた。
滝といっても三mほどの高さだが、滝壺は結構な水をたたえていた。
俺は誘惑に負けて水にタオルを濡らして体を拭いていた。
安全か確認されてからと思っていたが、ここまで風呂にも入らず体が汗ばんで気持ちが悪かったので、妥協してしまった。飲まなければ大丈夫だと信じたい。 川の水が冷たくて気持ちがいい。滝のそばだからマイナスイオンもたっぷりだ。
ここまで危険な目には合っていない。魔物も魔獣も、普通の獣にも出会わなかった。
運がいいのか。あるいはいないのか。
正直助かっている。
コーヒーを飲みながらの食事はやっぱりカロリーメイトである。
飽きてきてはいるが、街までもうすぐのところまで来ている。
山の道は途中から森に変わったが、やはり道がしっかりあったので、さして苦労することもなかった。
勾配もそんなになく、ちょっと厳しめのハイキングコースといった感じだった。
体のほうも異常はない。
異常がないので、気が緩んで体を拭いてしまった。
シャツを着替え、ジャケットを着こみ準備をしているとどこからかがさりとした音がした。
水音に紛れそうな小さな音だったが、確かに聞こえた。
俺は腰のナイフを抜きながら身構えてあたりを見回す。
もちろんナイフで戦ったことなど一度もない。しかしそんなことも言ってられない。
心臓の鼓動がうるさい。
今拭いたばかりの体から汗が出てくる。
滝のそばの森の木の陰から一頭の巨大な黒いものが出てきた。
俺はそれを見てさらに緊張していく。
(メガボアだ!)
メガボアはイノシシと野生の豚のハーフだ。以前ネットで見たものは体長五m、体重五百kgだったがそこまではなさそうだ。
だが俺よりはるかに大きいそれは、悠然と俺を見つめている。
俺との距離は三十mくらいか。
おそらく水を飲みに来たのだろう。
(どうする?逃げるか。逃げられるか?)
頭の中が整理できない。
リュックも足元に置いてある。
このリュックはかなり重量があるので、抱えてはおそらく逃げ切れない。しかもイノシシは脚が早いので手ぶらであっても逃げられるものではない。
戦うか逃げるか迷っているうちに向こうはその気になったようだ。
こっちに向かって突進してきた。
「うおー!!!!」
思わず声が出た。
かなり早いし、俺よりでかいメガボアの突進は車が走ってくるようだ。
メガボアの突進を俺は大袈裟に横に飛び跳ねてかわした。ひらりとかわすなんて無理無理。
メガボアはそのままかなりの距離を走っていったが、またこちらを向いて突進してくる。
俺はその正面から外れるように横に走る。
走る走る。
メガボアも曲線を描くようにこちらに向かってくる。
俺は走りながら前方に太めの木を見つけ、それに向かって全力で走る。メガボアもついてくる。
追いつかれそうになりながら目の前に迫った木に右足をつけて壁走りをす。この場合壁ではなく木だが。
二歩三歩と俺は木を垂直に走る。その瞬間メガボアが木に衝突した。
「ドスン!!!!」
ものすごい音がした。
俺は空中で回転し、落ちたところはメガボアの背中だった。
狙ったとはいえ、うまくいってよかった。
かなり大きな音がして衝撃もそれなりだったろうに奴はまだ元気だ。
俺は持っていたナイフを力の限り奴のこめかみに突き刺す。眉間や頭では刺さらないと思ったからだ。
「ムオオオオオオオオ!!」
メガボアは俺を振り落とそうと体を振り回す。まるでロデオのようだ。
俺は刺したナイフを右手で握りながら左手で腰のホルダーを探る。足は奴を力一杯締め付ける。
それが奴に効くわけはないだろうが、そうしないと落ちてしまう。
ホルダーからタクティカルピンを拭いてまた奴のこめかみに突き刺す。
ピンは深々と刺さったが、メガボアはまだまだ暴れる。
もう一本突き刺す。
その時に前に刺したピンが俺の拳に当たってより深く刺さったようだった。
脳に達してくれたか?
「オオオオオオオオオ」
大きな声でひと啼きして倒れこんだ。
「ドオオオン!!」
俺は何とか巻き込まれずに済んだ。
メガボアは全身を痙攣させているが、まだ生きている。
奴のこめかみからナイフを抜き、首を切りつける。
何度目かで太い血管を切ったのか、血が勢いよくあふれ出る。
これで死んでくれるだろう。
俺は後ろに少し下がって、尻もちをついた。全身から力が抜けてしまったからだ。
とたんに汗が噴き出る。喉もカラカラだ。マラソンランナーのように息も上がってしまっている。
しばらく放心したように俺は動けなかった。
下は濡れた砂利なので血は吸い込まれるように地面に消えていく。一部は小さな川のように流れて滝壺の水に交じっている。
落ち着いてきた俺は思った。
(これ金になるよな。どうやって運ぼうか)
それは異世界マニュアルにも書いてなかった。