プロローグ
それは遥か遥か遠い昔。
人々との記憶にも記録にも残ることのなかった遠い遠い昔の出来事。
「姫、まもなくでございます。」
一人の初老の男が、正面のそれから目を離すことのない彼の主に語りかける。
それは誰が作ったのか何時からそこにあったのかわからないが、魔法陣であった。
正面の魔法陣はうっすら光を発している。
その魔法陣の中には大量の魔物や犯罪者の死体がうず高く積まれていた、
「爺、ここに救世主様が現れるのですね。」
それは男に話しかけたのか独り言なのか判然としなかった。
姫は思い返す。
この辺境の山中に召喚魔法陣が発見されて十年、そして利用法が判明したのが二年前。用意に一年以上をかけ、半年かけて遠い王都からこの辺境までやってきた。
皆疲れているが、それもこの召喚が成功すればすべて報われる。
我が国は救われるのだ。
最後のいけにえが投入されると、魔法陣の光が一層大きくなっていく。
周りの兵士のどよめきが起きる。
「おお……」
誰彼なく思わず声を漏らす。
光は十分に大きくなっているように思われるが、一向に変化がない。
「爺、何も起こらんではないか。どうなっているのじゃ?」
最後のいけにえを投入して1時間ほど、何も変化がない事に姫の心に不安の種が広がっていった。
その生涯をかけて魔法陣の研究に没頭してきた男は、
「姫、どうやら魔力が足りていないようでございます。」
「なんと!話が違うではないか。」
ここまで来て足りないなどとは。
「やはり生者と死者では魔力の量が違うようでございます。」
これはかねてから危惧されていたことでもあった。
「……姫、長い間お世話になりました。」
男はゆっくりと陣に向かって歩き出した。
「何を……」
姫が止める間もなく、男は歩いていく。
周りの兵士も魅入られたようにそれを見つめて、動きを止めてしまっている。
「姫が生まれて20年、恐れ多いことながら妻も子もおらぬ私にはまるで本当のわが子のような気がいたしておりました。」
陣から目を離すことなく、男は叫ぶ。
「お美しくなられ、国を思う御心は誰にも負けず、立派に御成長なされ、今偉業を成されようとしている。」
薄々わかってはいるのだ。姫の瞳に涙が浮かぶ。
止めなくてはと思う気持ちと、何としてでもこの召喚は成功させなくてはという気持ちの間で心は大きく揺れている。
「この20年を思えば爺の心には満足しかありませぬ。」
「爺……」
陣の直前姫に振り返り、
「姫ならば必ずやこの召喚を成し遂げ、国の危機をお救いくださると、爺は確信しております。」
「……」
姫はもう言葉を放つことができない。
男の言葉が届いているのかどうかもわからない。
一人の二十歳の女としての気持ちと、王族につながる為政者としての矜持が葛藤して、心の中はぐちゃぐちゃになる。
息が苦しい。
「思い残すことはもはやありませぬ。どうかお許しください。」
何に許しを乞うたのか。
最後に深々と一礼すると、男は陣の中に飛び込んでいった。
「爺!!」
姫の絶叫と光が大きくなるのが重なる。
更に兵士の中からも何人かが飛び込んでいく。
「皆のもの……」
大きくなった光は眩しく、そして点に向かって伸びる。
もうそれは誰の目にも召喚陣が反応し、成功することを確信させるほどだった。
残った兵士達のざわめきも大きくなる。
やがて光は天に昇っていった。
後の残されたの光を失った魔法陣と、多くの兵士、そして姫たちだった。
あれだけ積まれていた犠牲は跡形もなく、そしてそこには何もなかった。もちろん救世主の姿も。
「あああああ……」
姫は膝から崩れ落ち、陣から目を離せない。
瞳からは滂沱の滴を零しながら、そこに何もないことが信じられないのか放心している。
待女が傍により、姫の背中を抱えながら、何事か話しかけても姫はそこを動けなかった。
姫の慟哭が山々に響いていた。
姫たちはそこで一週間留まったが、何も起こらず、失意のうちに王都に戻ることになった。
それからしばらく後に姫の国はなくなってしまった。
何が起きたのか、
姫はどうなったのか。
危機とは何だったのか。
すべては時の流れに飲み込まれ、誰にも知られず消えてしまった。
そう、誰も知らない。
姫の名も、国の名も。
それは遥か遥か遠い昔。
人々の記憶にも記録にも残ることのなかった遠い遠い昔の事。