第16章 すぐれた人は知っているうえに説明できる
その青年将校は、名をピット・アクルといった。ワンパ共和国の軍人で、階級は少佐だ。今は特務の仕事に就いている。
アクル少佐は今、西に向かう列車の中にいた。車窓を流れる田園風景をぼんやりと眺めながら、物思いにふけっている。
ぼくの調べた限りでは、鬼神隊長は腕力が自慢らしい。その怪力については、すでに多くの報告が届いている。
だが、腕力だけで何もかもがうまくいくと思えば大まちがいだ。知は力なり。知力の前には腕力も無力だ。
「情報を制する者は世界を制する」
ぼくの情報網は、すでにきみの弱点をつかんだよ。ぼくはきみの弱みを知っている。
ああ鬼神隊長、きみのかわいらしい顔が苦悶に歪むところを想像するだけで、ぼくはゾクゾクしてくるよ。がぜん意欲もわいてくる。
まっていてね。すぐに会いに行ってあげるから。ふふふ。
ニヤニヤと妄想にふけるアクル少佐がひざの上においている分厚いファイルの上には、かわいらしく笑っているサクヤのモノクロ写真があった。
◇ ◇ ◇
サクヤは意識を取り戻したとき、わらのベッドに寝ていた。しばらくはボンヤリとしていたが、野獣に追われていたことを思いだし、ガバッと起き上がる。
「あ、気がついたんですね!」
リーシャは囲炉裏のところに座り、スープを飲んでいた。
その斜め向かいには、初老の猟師が座り、大きなスプーンで囲炉裏の鍋をかきまぜている。この猟師がサクヤとリーシャを助けてくれたらしい。
「サクヤ様の意識がなかなか戻らないんで、おじさんと一緒に心配してたんですよ」
というわりには、リーシャはおいしそうにスープを飲んでいる。
事情を飲みこんだサクヤは、居ずまいを正して座ると、猟師に向かって「かたじけない」と頭を下げた。
「いやいや、そんなに畏まらないでください。世は相持ちって言うでしょ。お互いさまですよ」
猟師はお人よしみたいだ。
サクヤたちは猟師の狩猟小屋で一宿一飯のお世話になり、翌朝早くに出発した。ワグファイ大公国の首都――アスフールには、徒歩なら夕方までに到着できるらしい。
◇ ◇ ◇
アスフールは山あいの要塞といった感じの都市だった。りっぱな石造りの城壁に囲まれている。
大きな城門をくぐったところで、
「サクヤ様には、お世話になりました」
リーシャは満面の笑みで、ぺこりと頭を下げた。
「これから役所とかに行って、避難民の名簿とかを見せてもらいます」
「無事に家族が見つかるといいな」
「はいっ!」
言うが早いか、リーシャは駆けだしていた。通りすがりの人に道を尋ねながら、役場を目ざして雑踏の中に姿を消していく。
サクヤは、とりあえず大公の宮殿に向かった。宮殿は街はずれの小高い丘の上に建っている。煌びやかな装飾のほどこされた豪邸だ。
サクヤが案内された謁見室も豪勢だった。広い室内には、いくつもの宝物が飾られていた。いずれも古今東西の珍品ばかりらしい。
壁面には金箔を下地にした壁画が描きこまれている。あとで聞いた話だが、すべて有名な芸術家の手によるものらしい。
天井に釣り下がるシャンデリアには、たくさんの宝石がちりばめられていた。まばゆいばかりに輝いている。
左右に居並ぶ儀仗兵の軍服も、ビロード生地に金モールがたくさんついていて、とても美麗に見えた。いく人かの役人たちも控えていたが、いずれもきれいに着飾っている。その中には特使の姿もあった。
正面の玉座には、ゴージャスな衣装を身にまとい、たくさんの金銀宝石を身につけた小太りの中年男性が座っていた。
フソウいわく<まるで田舎の悪趣味な成金みたいだ>が、この人物こそワグファイ大公国の領主――カサン・ワート・ワグファイ大公だ。
ワート大公は、はじめてサクヤを見たとき、ちょっと顔が曇ったように見えた。が、気のせいだろう。玉座から立ち上がり、満面の笑みで「よくぞ遠路はるばる来てくだされた」とサクヤを歓迎する。
ワート大公はサクヤに握手を求めた。
「わたしが来た以上は、大船に乗ったつもりでいてほしい」
サクヤは物怖じすることなく、朗らかな笑顔で大公の手を握った。
「それは大変に心強い。よろしく頼みましたぞ。ともかく今日は着いたばかりでお疲れだろう。今日はこれまでとして宿舎で休まれたい」
サクヤの宿舎は市内にある高級ホテルのスイートルームだった。
さすがは国賓待遇だけあって、身のまわりの世話は執事たちがすべてしてくれる。衛兵もたくさんいて、セキュリティーも万全だ。
「でも、息苦しいな」
<慣れろ。郷に入りては郷に従え、だ>
サクヤは市内を自由に歩き回ることを許されていたので、たびたび外出しては市内各所をもの珍しそうに見学してまわった。
公文書館にだって自由に出入りできる。さすがに重要文書は閲覧させてもらえないが、一般図書ならいくらでも貸してもらえた。
サクヤは暇つぶしに5冊ほど貸してもらう。というのも、
<いつまでも待機させるんだろうな。ここに来てから、もう1週間だぞ>
「敵も近くまで迫っているのだ。いろいろと忙しいのだろう」
<だったら、なおさら軍事顧問のおまえを放置したままなんておかしいだろ?>
「それもそうだな」
<また他人事みたいな口ぶりで言いやがって、気にならねぇのかよ>
「わからないことを気にしても仕方ないだろう?」
<大物みたいな口をききやがって、どこまで呑気なんだよ>
「ともあれ、よいではないか。おかげでいろいろと珍しいものを見ることができる。英気を養うのにもちょうどいい」
<まあ、たしかに休養は必要だが、おまえはここに静養しに来たわけではないんだからな。その点は勘違いするなよ、サクヤ>
「もちろんわかっている。心配するな」
<そう軽く言われると、さらに心配になってくるぜ>
「あれは……!?」
<ん?>
サクヤがやや驚いた感じで目を向けている先――広場の噴水のところには、リーシャがいた。人ごみの中、噴水のへりに腰かけている。あまり元気がないように見えるが。
サクヤはスタスタと歩いてリーシャに近づくと、笑顔で「久しぶりだな。家族には無事に会えたか?」と話しかけた。
「あ、サクヤ様」
リーシャは苦笑いした。目に力がない。
「ここには家族はいないようでした」
リーシャの話によると、家族の行方をつかむことはできず、しかも樹海で野獣に襲われたせいで荷物も失い、今は着の身着のままのストリートチルドレン状態らしい。
「で、噴水の水を飲み、残飯をあさりながら、急場をしのいできたのか!?」
サクヤは目を丸くしていた。
「はい」
リーシャの目に涙が浮かぶ。その哀れな姿は、まるで捨てられた子猫のように見る者の同情心を誘う。
「ならば、わたしのところに来い。食べ物だってたくさんある」
リーシャはパッと笑顔になるが、一瞬にして曇り顔に戻った。
「……でも、あたしみたいな部外者がついていけば、サクヤ様にご迷惑をおかけするのではないでしょうか」
「その点は問題ない。わたしの従者ということにしておく。だから、ついてこい」
かくしてサクヤはリーシャを宿舎に連れ帰るが、それを咎める者はだれもいなかった。
◇ ◇ ◇
その日は朝から雨――サクヤは外出を控え、窓際のイスに腰かけて静かに読書していた。そんなサクヤを見かけたリーシャは、なぜかサクヤを見つめてしまう。
「リーシャか、どうした?」
サクヤは本から目を離し、リーシャに笑顔を向けた。
ハッとしたリーシャは、あたふたしながら「あ、いえ、サクヤ様は剣を振る姿だけでなく、本を読む姿も様になりますね」と言った。
「そうか。ははは」
「ところで、なんの本を読んでいるのですか?」
「この国の歴史だ。わたしは知らないことが多すぎるからな」
「勉強熱心なんですね」
「そう言うリーシャも熱心ではないか。新聞もよく読んでいるだろ? しかも難しい言葉もたくさん知っているようで、いつも感心する」
「そ、そんな、感心するだなんて。やめてくださいよ。恥ずかしいじゃないですか」
リーシャは紅潮した笑顔で、ほほに両手をあてながら照れくさそうにモジモジした。
そんなリーシャのことをサクヤは、ほほえましく思う。
「よいことなのだから、恥ずかしがる必要はないぞ」
「はい。ありがとうございます! あたしも知らないことが多いので、いろいろ知りたいって思っています」
「よい心構えだな。そうであれば、きっと伸びるぞ」
サクヤが言うには、戦国最強の軍師と言われたタイゲン・セッサイは、「自分の才能も大したものではないと分かってしまえば、おのずと外から多くの知識を取り入れるようになる」と言ったそうだ。
まさに「無知の知」だ。自分の無知を謙虚に認め、知ろうとするからこそ、知識が増えていく。だから、セッサイのような最強の軍師になれる。ということらしい。
「だから、リーシャもいろいろと大変かもしれないが、今の努力する気持ちを忘れるなよ」
「はい。あたしもサクヤ様について、がんばって知識を増やしたいです」
「わたしについて? さっきも言ったが、わたしは知らないことが多すぎる。わたしに師事したところで、学べる者は少ないと思うぞ」
あ、いえ、そういうわけじゃないんですけど。サクヤ様、「ついて」の意味をとりちがえてませんか? ついていくとう意味じゃなくて……。
なんてことをリーシャが思っていると、サクヤがまじめに言った。
「知識というのは、覚えるのも大変だが、教えるのはもっと大変だ」
だからフソウは、こう言ったのだろうか。
<宇宙は何でつくられているのか?
そして、どのように動いているのか?
天地はどうなっているのか?
そのなかで人はどのように関わりあうとよいのか?
どう生き、どう死ねばよいのか?
こういうことを知っているやつは“神”で、それを説明できるやつは“聖”だ。あ、“聖”っていうのは“神”よりも上な>
知ることよりも、教えることのほうが上にある。つまり、教えることのほうが知ることより難しいということだ。
「だが、難しいからといって逃げるのはよくないな。わかった。わたしは弟子をとらない主義だが、おまえだけは特別に弟子入りさせてやろう。隙があれば、いつでもかかってこい」
あのう、サクヤ様、話が変な方向にズレていませんか?
こんな平和な日常がすぎていたとき、隣国では討伐軍の猛攻によって、ついに首都が陥落していた。
『闘戦経』第16章
〇原文・書き下し文
物の根たるものに五あり。曰く陰陽。曰く五行。曰く天地。曰く人倫。曰く死生。其の初めの始まりを見る者は故に神と為る。神にして而も衆人の為に舌す者は聖と為る。
〇現代語訳
ものごとの根本は5つだ。陰陽であり、五行であり、天地であり、人道であり、生死である。
その由来を分かっているなら神様だし、神様であるうえにみんなのために説明できるなら聖人だ。