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横田河原合戦・越後・佐渡制圧

  さて、月は移って4月になりました。


 越後の城資長は、兵馬糧秣を越後・出羽南部・会津4郡(摩耶、大沼、河沼、会津)からかき集め、法皇のご厚意に応えようと、越後の国の国府を出立し、早速五千余騎を率いて我ら木曽軍を蹴散らし義仲様をを討ち取らんと、信濃へ攻め込んできました。


 城資長は平維茂の子孫で平維茂という人物は信濃は戸隠の鬼女紅葉伝説に出てくる鬼女紅葉(もみじ)を退治した人物と言われています。


 鬼女紅葉伝説とは平安中期の頃、紅葉と呼ばれた女が、源経基(みなもとのつねもと)の目にとまり、召されて経基と夜を共にして、経基の子を宿すと紅葉は経基の寵愛を独り占めにしたいと思うようになり、妖術を使って正妻を呪い殺そうと計るが、露見して捕らえられ信濃の戸隠へ流され、都での暮らしを恋しく思った紅葉の心は次第に荒んでいき、京に上るため軍資金を集めようと、一党を率いて戸隠山に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになってしまった。


 この噂が戸隠の鬼女として京にまで伝わっていくと、朝廷は平維茂(たいらのこれもち)に鬼女退治を命じ、維茂は多くの兵を連れて討伐に向かいましたが、紅葉の妖術に太刀打ちできず、かくなる上は神仏の力にすがる他なしと、維茂は観音に参籠し、必勝祈願をすると紅葉の妖術は無効化され、969年(安和2年)紅葉が33歳の晩秋についには征伐されこれ以降、紅葉の住んでいた村は鬼無里と呼ばれるようになったといわれます。


  一方私たちは信濃・甲斐・上野・武蔵の諸将の兵おおよそ10000を集め依田城にて軍議を行っていました。


 残りの国の諸将は奥州藤原氏や平家への対応にそれぞれの国で待機をしております。


 まず上座に構えた義仲様が周りに聞きました。


「さて、このたびは越後の城資長は一族郎党を率いてこの信濃に攻め入ってきた。

 目的は俺の首と信濃の年貢米であろう、

 すなわち信濃の国府の占拠とここの占拠だ」


 諸将は頷きました。


「しかも、城資長は我が便女である巴を、かっての戸隠の鬼女紅葉になぞらえて、それを捕らえては京に送る算段ともきいておる」


 諸将は続いて頷きました。


 鬼女という言葉に誰も反対しないのはなんででしょうね。


「これより我らは依田城を出て北へ進む。

 此度の戦において意見のあるものは申してみよ」


 えーと、鬼女発言はみんなスルーですか?


「ふむ、ならば越後の軍兵の進路は関山越えと葛野超え、筑摩超えの三手でありましょうな」


 越後近辺の地理に詳しい栗田寺別当大法師範覚がいいました。


「おそらく道を先導するのは市原の戦いにて敗れた笠原の家人共かと思われます」


 義仲様はその言葉にうなずきました。


「うむ、では我々はどう動くのが良いと思うか」


「大軍が展開できるのは千曲川沿いの横田河原でございましょう。

 ならば我々もそこにて迎え撃つのがよろしいかと」


 横田河原というのは後の戦国時代、有名な上杉謙信と武田信玄の川中島の合戦が行われたのと同じ場所です。


 そこへ私も言葉を続けます。


「我々の兵は越後の2倍、であらば、兵を2手に分け、一方は正面より接近し、もう一方は妻女山(さいじょさん)を回って背後に回り込み、挟撃するのが良いかと」


 義仲様はうなずきました。


「うむ、正面と背後よりの挟撃であれば我らは必ずや勝とう。

 巴の策を用いるに異議のあるものはいるか?」


 周りを見れば異議のあるものはいなそうです。


「では、巴の献策を持って、我らは城資長を討つ!

 出陣だ!」


「おおー!」


 城資長は6000に増えた兵を率いて越後の館を出ると越後の国府直江津に赴き軍を三軍に分け、浜野小平太を大将とした2000、津幡宗親(つばたのむねちか)を大将とした2000、本隊の城資長を大将とした2000に別れ、笠原平五の家人であった、尾津平四郎、富部三郎、閑妻六郎、風間橘五とその家来の立河次郎、渋川三郎、久志太郎、冠者将軍と家来の相津乗湛房、その子の平新大夫、奥山権守の子藤新大夫、坂東別当、黒別当などが先陣にたったのです。


 城資長は統率を取るため誰にも先駆けを許さず、千曲川のほとり横田河原に陣をとったのです。


 それに対して我々は対岸に布陣しました。


 4月13日横田河原において軍は激突します。


 私たちは5000、正面の越後兵は6000数では少々負けていますね。


「義仲様、まずは私が先陣を切り、意図的に後方に敗走いたします。

 私を追う敵兵を左右より挟撃し、私も取って返して撃退したいと思いますがいかがでしょうか?」


「うまくいくのか?」


「はい、おまかせください」


 私たちは木曽軍の先陣を切って突出し先ずは私は名乗りを上げました。


「やあやあ、遠からんものは音にも聞け、近からんものはよって目にも見よ。

 そこにまいったるは、大軍を押して我が国に攻め寄せた平家の犬の越後の腰抜け武者共とみゆ。

 われこそは最勝王より平氏追悼の勅を受け、旗揚げした源氏の御曹司木曽次郎六位蔵人源義仲殿の乳母子にして便女、木曽中三信濃権守兼遠が娘の巴申す女武者なり。

 我と思わんものはかかってこい!」


 それに対して越後の軍からも女武者が出てきたのです。


「やあやあ、われこそは恐れ多くも今上に弓を引き世を乱す木曽の田舎武者を追討せよとの勅命を受けし

 城資長が妹の板額御前なり。

 木曽の鬼女め退治てくれるゆえかかってまいれ」


 ほほう、この時代のもうひと方の高名な女武将の板額御前が出てきましたか。


「相手にとって不足なし。

 いざかかってまいられよ」


「いざ」


 私たちは何度か方天画戟と長巻にて打ち合います。


 そして頃合いを見計らって私は逃げ出しました。


「これは手強い、逃げるが勝ちよ」


 私に従って私に部隊に従っていた兵も後ろへ逃げ出しました。


「なんと、木曽の鬼女の噂は噂だけであったようだ。

 者共、追撃して討ち取れ!」


 越後の兵が後ろよりおってきますが、こちらの方の逃げ足のほうが早く、そして私の疑似敗走より縦に伸びた越後軍の左右を木曽の軍が襲いかかりました。


「よし、反転し越後兵を打て、しかし、板額御前はわれに任せよ」


 私は馬を反転させ再び板額御前と対峙しました。


 板額御前が悔しげに言いました。


「おのれ、退却は偽装であったか、なれど、ここでそなたをうてばまだ勝ち目はある」


「ならばかかってこられよ」


 しかし今度は私は超本気です。


 彼女の衣紋を弾き飛ばし私は彼女を生け捕りました。


「城資長の妹板額御前を木曽義仲が便女巴が召し捕ったり!」


 私はさらに七人の豪族を討ち取りました。


 やがて背後からの挟撃も加わり、越後の軍は散々に討たれ、城資長は戦死、弟の助茂は捕虜となりました。


 そして、城資長の息子城資盛は300の兵とともに越後の国府に退いたのですが、それまでの悪政で苦しめられていた土地の住民に追われ、出羽に逃げ落ちたという話です。


 我々はそのまま越後に攻め入り直江津の国府を制圧(直江津)すると越後の豪族は我々に帰順しました、我々はさらに佐渡国を制圧し、更にそれにより越中、加賀、能登などの武士は木曽に従ったのです。


 この戦いの勝利の後、若狭、越前などでも反宗盛の活動が活発になります。


 平氏は北陸の味方を失い、東国における支配権を失いました。

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