治承5年(1181年)
治承5年(1181年)正月、重衡が興福寺や東大寺を焼討ちしてすぐのことです。
本来ならば正月ともあらばさまざまな行事や参賀があり賑やかなものなのですが、この年はお祝い事は全て中止となりました
東国での反乱や南都焼討ちで正月を祝うどころではありませんし、紀伊の熊野三山勢力が挙兵して、伊勢や志摩で平氏側勢力と交戦したのです。
更に1月14日に高倉上皇は21歳の若さで崩御されたのです。
平氏は停止していた後白河院政の復活を余儀なくされ、これにより後白河と清盛の対立が一層深まったのでした。
そして、2月1日畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じました、これは天平3年(731年)に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた新田部親王の例に倣ったもので、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いたのです。
清盛は宗盛を総大将とした軍を派遣して反乱の鎮圧に臨もうとしました。
宗盛の軍の出発は2月27日と決定し、そしてその日、事態は大きく揺れ動きます。
また丹波国に諸荘園総下司職を設けて、平盛俊を任じ、さらに藤原秀衡に対して義仲を追討する院宣が出され、秀衡は従五位上・陸奥守に叙任され、同時に越後守に城資長が任じ木曽義仲追討の宣旨を与えました。
これらは当然義仲様の背後からの牽制目的であったのです。
これに対して九条兼実はこの叙任も「天下の恥、何事か之に如かんや。悲しむべし、悲しむべし」と嘆き、また参議・吉田経房も「人以て磋嘆(なげくこと)す。故に記録すること能わず」と日記に記しているのです。
清盛は平重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かう事が決められていたのですが、その時清盛は熱病に倒れたのです。
その噂を聞いた市井の人々は「大仏を焼いた罰があたった」とそやし、おまけに清盛の妻、時子までもが、大仏を焼いた罪で閻魔様の使いが清盛を迎えに来るという夢にうなされるのでした。
死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したのですが、法皇より返答がなかったため、恨みを残して
「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」
と言い残し、
「3日以後に葬儀行い、遺骨は播磨国山田法華堂に納め、7日毎に仏事をして、毎日は行わないように。
京都で追善をしてはいけない。
そして、子孫は東国を降伏させる事」
と遺言したといわれています。
そして2月4日に九条河原口の平盛国の屋敷で死亡したのでした。
この時清盛は享年64歳でした。
この清盛の死により、平氏の新体制作りは計画倒れに終わる事になります。
高倉上皇と平清盛の相次ぐ死は政治面でも軍事面でも兵士に深刻な打撃を与え浮き、彼らは足立つことになりました。
栄耀栄華を欲しいままにした平氏政権は、制度的な根拠や磐石な体制によって支えられていたのではなく、保元の乱・平治の乱を勝ち抜いた平清盛という史上稀に見る政治的・軍事的な英傑に支えられていたのであり、平清盛を失った平家には平氏一門をとりまとめるだけの求心力を持った棟梁がいなくなっていました。
平清盛の後を継いだ平宗盛は、混乱期を乗り切るだけの政治的な資質に恵まれず軍事的な才能にも秀でていない凡庸な人間でありました。
清盛の死によって平家の力は弱まりますが、西国を襲った大飢饉も平家の勢力を削ぐことになります。
しかし、長きにわたって平氏は政治の中枢で権益を蓄えていたため、兵力・財力・領土・政治的権限の総合力では、未だに平氏のほうが源氏よりも有利でした。
清盛の死後、後継者の宗盛は政権を法皇に返還し、兵糧米が不足なので反乱の征伐は困難であり荘園からの運上物を徴収したいと提案したのでした。