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木曽義仲の覇業・私巴は只の側女です。  作者: 水源


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緑茶と綿花の栽培そして近畿動乱・南都炎上

 さて、12月です。


 私は宋国との貿易で手に入れていた木綿と緑茶の種を持って遠江へとやってきました。


 実のところ木綿自体は平安時代の延歴18年(799年)に三河に漂着したインド系の崑崙(コンロン)人)が、綿の種を伝えたとされるのですが、そのときは栽培に失敗し再び木綿が持ち込まれて栽培に成功するのは15世紀の後半でその後木綿栽培が広がり始めたとされています。


 綿花は基本的に亜熱帯の作物なので比較的高い気温、夏の日照りと開花前の降水が必要です。


 なので温暖で肥料を豊富に施すことのできる余裕のある地域で栽培が始まりました。


 基本的に暑さと乾燥に強く、反対に低温と多湿には弱いので、地植えの場合は日当たりと風通しの良い場所でないといけません、それに適し入れのが三河周辺だったようで、戦国時代のときも栽培は三河から広まったようでした。


 排水が良好であり、粘土質よりも砂質壌土で、酸性土壌を嫌うので石灰をまいて中和しておく必要もあります。


 しかしうまくやれば畑だけでなく、水田にも植えることもできます、水田に畝を立て、ワタを畝に、稲を溝に植える半田(はんだ)という方式です。


 綿は肥料も多量に必要とします。


 植物繊維は基本的に光合成産物を由来とするセルロースからなるので、光合成量が多いほど多くなるので、窒素を中心として肥料を多く与えると多く生産できます。


 しかし、大麻は茎の植物繊維を収穫するので、窒素施肥を増やしても相対的に葉が増えるだけで、むしろ、倒れやすくなって、茎の繊維の質が悪くなるので施肥はあまり意味がありません。


 施肥の習慣のない古代から麻が使えたのはそういった理由です。


 一方木綿は種子毛を用いますので、施肥を増やしすと収量がよく反応して増えます、肥料も他の作物のような堆肥や米ぬかなど自給肥料でなく、大量の鶏糞、干鰯や油粕等の金肥を与えなければ上等の綿花は咲かなかったのです。


 これほどまでに手間がかかる木綿ですが、麻はに比べて織るのにかかる時間が10分の1くらいですむことと麻より軽く丈夫で保温性に優れた繊維であるというのが長所です。


「うふふこれで木綿ができたら大姫に温かい半纏を作ってあげられますね」


 わたしはもこもこの半纏を着て


「おばちゃんありがとう、とっても暖かいよ」


 と大姫が言ってくれるくれる様子をそ想像してニンマリとしました。


 それからはたと思い返しました、


「そういえば麻の布団に水鳥の羽毛を詰めた布団は温かいはずって作ったんですよね……アヒルの羽を集めて半纏を作ることもできたんじゃ……ああ、私って本当に馬鹿……」


 今から雪の深い信濃に戻ることはできないですし、ああ、何と言うことでしょう。


「大姫をもっと優先して考えてあげれば良かったですね……」


 ま、まあ、今更言っても仕方ありません。


 次は緑茶です。


 中国大陸においては茶は古くから飲まれ茶の発見は紀元前2700年ごろ、神農時代といわれています。


 そしての日本に持ち込まれたのは遣唐使が往来していた平安時代で、日本で 最初に茶を伝えたのは、平安時代、最澄(伝教大師)で、遣唐使として渡った中国から茶の種を持ち帰り、当地比叡山麓の坂本に植えたのが始まりと言われます。


 平安時代では茶は薬で非常に貴重で、上流階級などの限られた人々だけが口にすることができました。


 お茶は木綿と違い窒素肥料を入れると味が悪くなります。


 しかし、低品質の茶葉で良ければ窒素肥料を用いたほうが収穫は増えます。


 低肥料で作られたお茶には特有のコクのある後味と透き通るような香りがありますが、高肥料の茶葉はあっさりとした味で、アミノ酸特有の香りがあるのです。


「まあ、両方の方法で栽培すればいいということですかね」


 茶葉には害虫が多くチャドクガが年2回から3回発生し、蛾の幼虫が葉をバリバリくべ荒らしたり、ハダニが葉を吸汁して、葉が硬化・黄化して使いものにならなくなったりします。


 あまり多量に生産するのも危ないかもしれませんね。


 こういった昆虫の天敵は蜘蛛です。


 害虫を完全に駆除することはできませんが、蜘蛛をなるべく放つことにより害虫が発生しにくくなるようにします。


 まあ、綿は衣服や船の帆、火縄などに緑茶は飲む薬として役に立つので頑張りましょう。


 ・・・


 一方機内では山本義経・柏木義兼兄弟が挙兵し北陸と平安京を結ぶ物流拠点である琵琶湖を占拠し、北陸から都へ上る年貢を差し押さえました。


 更に園城寺の僧兵達も近江源氏と手を結び、その連合軍は一時平安京を占拠する勢いを見せ京の都に迫りました。


 さらにはこの反乱に若狭国の在庁官人が同意の動きを取り、若狭から近江、山城の補給線は完全に寸断されていました。


 それに対して平家は反撃に転じ、高倉上皇から近江寺社勢力に対して謀反人追討の院宣が発せらました

 2日に平知盛が追討に向かい6日に行なわれた戦闘では知盛らによって近江源氏が打ち破られたのです。


 この戦に敗れた兵の多くは美濃へ逃れて抵抗を続けるました。


 そして平家は園城寺内の反乱軍に同意した僧兵たちにも攻撃を加え、その結果園城寺の一部が炎上したのです。


 そして、大和の悪僧に対しては重衡を派遣しました、もともと平治の乱の後、大和国が清盛の知行国になった際に清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視して大和全域において検断を行ったのですが、これに対して南都寺院側は強く反発したのです。


 特に聖武天皇の発願によって建立されて、以後鎮護国家体制の象徴的存在として歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と藤原氏の氏寺であった興福寺は、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景とし、また大衆(だいしゅ)と呼ばれる僧侶集団が元来自衛を目的として結成していた僧兵と呼ばれる武装組織の兵力を恃みとして、これに反抗していました。


 ですが、治承3年(1179年)11月に発生した治承三年の政変で皇室と摂関家の象徴ともいえる治天の君後白河法皇と関白松殿基房が清盛の命令によって揃って処罰を受けると、彼らの間にも危機感が広がり、治承4年(1180年)5月26日の以仁王の挙兵を契機に園城寺や諸国の源氏とも連携して反平氏活動に動き始めたのです。


 そして以仁王の挙兵が鎮圧された後の6月、平氏は乱に関わった園城寺に対する朝廷法会への参加の禁止、僧綱の罷免、寺領没収などの処分を行いました。


 興福寺はこの時の別当玄縁が平氏に近い立場をとっており、興福寺内部に平氏との和平路線をとる勢力が現れた事により、園城寺ほど厳しい処分はされなかったのですが、近江攻防で園城寺や興福寺の大衆が近江源氏らの蜂起に加勢し、それによって平氏は12月11日に平重衡が園城寺を攻撃して寺を焼き払うと、いよいよ矛先は興福寺へと向くことになるのです。


 清盛はまず妹尾兼康に兵500を付けて奈良に派遣しました。


 清盛は兼康に対して出来るだけ平和的な方法での解決を指示して軽武装で送り出したのですが、南都の大衆は兼康勢60余人の首を切り、猿沢の池の端に並べるという挙に出て兼康は命からがら帰京し、清盛を激怒させたのです。


 大衆の行動は興福寺の平氏に対する敵意の大きさを物語る出来事でしたが、結果的には興福寺攻撃に対する公卿たちの反対を封じ込め、興福寺への大軍派遣の大義名分を与える事になったのです。


 清盛は12月25日には息子の重衡を総大将として4000の兵を向かわせ、これに対して南都大衆も般若寺と奈良坂に堀を築き、兵700で固めたのです。


 27日に重衡らも兵を2手に分けて木津方面より侵攻、大衆も木津川沿岸や奈良坂・般若寺などで抵抗を続けたため、全体的に平氏軍有利ながらも決着が付来ませんでした。


 28日に入ると、平氏軍は奈良坂と般若寺を占拠して本陣を般若寺内に移し、その夜、重衡は僧坊等を焼き払うために火をかけたのですが折からの強風により奈良の主要部を巻き込む大火災が発生、興福寺・東大寺などの有力な寺院が焼け落ちて多数の僧侶や避難していた住民など、数千人が焼死したといわれます。


 特に東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の殆どを失い、中心から離れた法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰するなど大打撃を蒙り、興福寺でも三基の塔の他、金堂・講堂・北円堂・南円堂など38の施設を焼いたと言われています。


 しかし、これにより平家は仏敵の汚名を被ることにより機内の寺社勢力の多くを敵に回してしまいました。

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