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木曽義仲の覇業・私巴は只の側女です。  作者: 水源


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石橋山の戦いと上野国制圧

  さて私が武蔵の国に向かう前の話です。


 伊豆にいる源頼朝の元へ6月24日に京の三善康信(頼朝の乳母の妹の子)が平家が諸国の源氏を追討しようとしているので、直ちに奥州藤原氏の元へ逃れるようにと急報を送ったのです。


 また、宇治平等院の合戦で敗北した源頼政の孫の源有綱が伊豆国にいたので、この追捕の為清盛の命を受けた大庭景親が8月2日に本領に下向して伊豆は緊張が高まったのでした。


 一方この頃伊豆国の元の知行国主であった源頼政の敗死に伴い、伊豆国の知行国主は平清盛の義弟平時忠となり、それによって伊豆国衙の実権は伊東氏が握ることになり、源頼政に近かった工藤氏、北条氏、宇佐美氏は逼塞していくことになるのです。


 頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向を探らせ波多野義常は返答を渋り、山内首藤経俊に至っては「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、鼠が猫をとるようなものだ」と嘲笑したそうです。


 ですが、大庭景親の兄の大庭景義は快諾し、老齢の三浦義明は涙を流して喜び、一族を集めて御教書を披露して同心を確約したそうです


 三浦氏は工藤氏、北条氏、宇佐美氏と同じように平氏系目代から圧迫されていたのです。


  さて、一方の大庭景親(おおばかげちか)は坂東八平氏の鎌倉氏の流れを汲む一族で、相模国大庭御厨の下司職を相伝していました。


 天養元年(1144年)に源義朝の郎党が相模国田所目代と共に三浦氏、中村氏を率いて大庭御厨に侵攻し、大庭御厨内鵠沼(くげぬま)郷の伊介神社では、一人が殺害され、神官八人に傷害を与え領家・伊勢神宮への供祭料である魚を奪い,大豆や小豆を刈り取っていく事件をおこしたのです。


 さらに義朝は10月21日、源頼清と相模の役人たち、義朝の代理人である清原安行、ならびに有力豪族の三浦義明、和田太郎助弘、中村宗平、以下千余騎を大庭御厨内に派兵して乱暴をはたらき、御厨の下司「大庭景宗」の屋敷を荒らして私財を強奪.伊介神社の神官6名を死傷させたのです。


 しかし、大蔵合戦のときと同じくこの義朝らの行動は朝廷から不問に付されました。


 保元の乱では義朝の軍勢に属しましたが平治の乱では参加せす義朝は敗死して源氏は没落しました、その後、相模国の国衙在庁系豪族の三浦氏や中村氏は義朝に近い立場であったため相模国内においては劣勢に立たされ、逆に義朝とは疎遠であったと思われる景親は平家への接近に成功し、それによって相模国内の大庭氏の立場は強化されたのです。


  治承4年(1180年)5月、以仁王と源頼政が平氏打倒の兵を挙げると、足利忠綱らとともに追討の任にあたり、彼はこれを破ったのです。その後も在京していた景親は平家の家人の上総介・伊藤忠清に呼ばれ、駿河国の長田入道から北条時政と比企掃部允が伊豆国の流人の頼朝を擁立して謀反を企てているとの密書があったと知らされ、実際に頼朝は挙兵の準備を進めていました。


 さらに頼朝に同心する者の中には兄の景義もいたのです。


 8月2日に東国の所領へ帰国した景親は、9日に佐々木秀義を自邸へ招いて頼朝に謀反の疑いあることを相談したのですが、秀義の息子たちは既に頼朝と意を通じており、驚愕した秀義は直ちに頼朝に使者を送り告げました。


 7月27日に源頼朝は以仁王の令旨を受け、北条時政や工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らに加え尾張より加わった長田忠致の支援により伊豆で平家追討の旗を揚げ8月17日に源頼朝は平氏打倒の兵を挙げ北条時政や長田多弾さの支援により挙兵し伊豆目代の伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃して殺害し、さらに頼朝は300余騎をもって土肥実平の所領のある相模国土肥郷まで進出したのです。


 と聞くと大庭と頼朝の戦いは平氏と源氏の戦いと見えますが実のところ頼朝やそれに付き従ったものの目当ては大庭の領地の豊かな相模川流域の平野の田畑です。


 頼朝に従った三浦半島の三浦氏や、土肥や土屋といった中村氏の領地には丘陵部が多く、水田になる平地が少ない土地でした。


 つまり源義朝・三浦氏・中村氏は水田にできる平野が領内に少ないという同じ立場なのでした。


 三浦氏や中村氏は相模の有力な在庁官人でしたが同時に源義朝の郎党でした。


 彼らは相模の中央に近く豊かな地域「相模平野」への進出という共通の目的を持っていたのですね。


 その後三浦氏は義明の弟「義実」(岡崎義実)を平野の北である大住郡に配し,さらにその子「義忠」(真田与一義忠)を北西部に配しました。


 一方、中村氏は宗平の息子である土肥実平を湯河原に配し、その弟の宗遠を土屋に配しました。


 土屋と真田は距離も近く両氏は姻戚関係結び、この時点において平野部を取り囲む三浦一族と中村一族の大庭包囲網ができあがったというわけですね、そして義朝の地位を引き継いだのが源義朝でした。


 これに対して大庭氏は同じ県央地域に領地を持つ渋谷氏や糟屋氏と手を結びますが、そのつながりは婚姻関係にある三浦氏や中村氏の結びつきに比べてさほど強くありません、それは大庭氏が鎌倉党と呼ばれる一族なのに対して糟屋や渋谷はそれぞれが別の一族だったからです。


 つまりは頼朝の挙兵は父義朝と同じく大庭を従えて相模平野を獲得するためのものだったのです。


 石橋山の合戦は頼朝軍300に対して大庭軍は3000と言われるほど兵力の差がありましたが、三浦氏の援軍により大庭軍を挟み撃ちに出来れば勝機はあったのです。


 ・・・


 そんな状況の中、私は上野から南に下った武蔵国の畠山の屋敷へ来ておりました。


 私は門の前に立っている門番へ声をかけます。


「畠山重能殿はいらっしゃいますか?」


「いや、大殿はいま大番役として京都にあります」


 っと、そういえばこの時のかれは京都にいるのでしたね。


「では息子さんはいらっしゃいますか?」


「はい、重忠様はいらっしゃいます」


「では、木曽より参りました木曽中三信濃権守兼遠が娘、巴がまいったと伝えていただけませんか?」


「かしこまりました、少々お待ちを」


 やがて門番が戻ってきて私は屋敷に通されました。


 彼は相変わらず肉体鍛錬にせいを出しているのでしょう、引き締まった肉体です。


 笑いながら彼は聞いてきました


「ふむ、久方ぶりですな巴御前。

 本日は如何なされたか?」


「はい、私がここにまいりましたのは、我ら木曽軍に畠山殿も加わって欲しいと思い参りました次第です。

 すでにあなたの叔父であります高山三郎重遠様は我軍に加わり今頃は新田領へと進んでいる頃でございます」


「むむ、そなたは我らに平氏への弓を引けと申すか?」


「はい、寿永三年の変以来、東国では在地豪族の平家への怨嗟の声が聞こえぬ日はありません」


 重忠は私の言葉にうなずきました。


「うむ、たしかにそうである。

 しかし、我が父は京にあって平家に従っておる。

 そなたは父を裏切れと申すか」


「はい、今我らに従わなくともいずれは 新田なり比企なりがここに攻めてくることは間違いありませぬが、その時平家は兵を率いてこちらに来ることは叶わぬでありましょう」


 私の言葉に彼は少し悩んだようでした。


「うむ、そうであるな……うむ、分かった。

  われら畠山も木曽殿とともに戦うとしよう」


「ありがとうございます。

 これで無駄な血を流さずに住みますね」


「そうなったとてそうそう負けはせぬがな」


「私を叩くだけでしたらばそうでしょう。

 ですが、信濃と上野を制圧した信濃の軍と争えるほどのちからはないでしょう」


「うむ、まあそうではあろうな」


 そこへ急使がやってきました。


渋谷重国(しぶやしげくに)殿より、伊豆目代の山木兼隆を討った、北条や宇佐美、中村などの一族が渋谷殿の領へ進んできているため救援をこうとのことです」


「なんと?!

 わかった、すぐ兵を率いてそちらへ向かうと伝えよ」


「はっ、ありがたき次第、これにて失礼!」


 そう言って重忠は私の方へ向き直り


「そういう訳で、我らは一族の救援のため相模に向かう。

 そなたはどうする?」


 私はその言葉に対し


「鎌倉の頼朝は義仲様の父上の敵でもあり、そこに加わる長田忠致は私に従っている鎌田兄弟の敵でもあります。

 私達も一緒に参りましょう」


「うむ、それは助かる、我らの一族である河越、江戸にも知らせ、兵を集めてともに向かうとしよう」


 私はその言葉に考えました。


 それでは石橋山の戦いには間に合わないかもしれません。


「分かりました、我々は渋谷殿のもとへ先に向かいますので渋谷殿への紹介状を書いていただけますか?」


「ふむ、承知した。

 しばし待たれよ」


 そう言って彼は彼の名で渋谷氏への紹介状を書いてくれました。


 そして私はともに来た兵200を率いる鎌田兄弟へと告げました。


「鎌倉の頼朝は彼の父の敵である長田忠致を加えて大庭の同盟者である渋谷の領地もあらそうとしているそうです」


「なんと、実の父を裏切って討ったものを配下に加えるとは佐殿は気が狂ったか?」


「いえ、すでに頼朝は嫁の実家の北条の傀儡とされているようです」


「なんと、許せん」


「父のかたきを討とうともせぬとは、もはや我らの主に器にあらず」


「では、皆さん、頼朝を討つということで構いませんね」


  私の言葉に朝顔がうなずきました。


「はい、我らに長田忠致を討たせていただけるのであれば」


「分かりました、では相模に急ぎましょう」


 私は鎌田兄弟と歩兵を引き連れて相模の渋谷氏のもとへ急ぎました。


 8月20日我々は相模の渋谷氏の領地に到着しました。


「貴様はなにものか?」


「秩父氏であります畠山重忠殿に縁のあるものでございます。

 どうぞ紹介状をお持ちください」


 私は門番に書いてもらった紹介状を渡し、渋谷氏に迎え入れられました。


「うむ、わが一族よりの紹介とあらば助かる。

 ともに戦おうぞ」


「は、よろしくお願いいたします」


 8月20日、頼朝はわずかな兵で伊豆を出て、土肥実平の所領の相模国土肥郷まで進出しました、これに対して、頼朝蜂起の報に接した大庭景親は、武蔵・相模の武士に頼朝打倒のための出陣を呼びかけた。景親の呼びかけに応じた武士は、股野景久(かげひさ)、海老名季定(すえさだ)、河村義秀、曽我祐信、佐々木義清、渋谷重国(しげくに)、熊谷直実(なおざね)、飯田家義(いえよし)、梶原景時その他家の子郎党を含め3000余騎を率いて迎撃に向かったのです。


 23日、頼朝は300騎をもって石橋山に陣を構え、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせ、その谷ひとつ隔てて景親の軍も布陣しました。


 さらに伊豆国の豪族伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで進出して頼朝の背後を塞いだのです。


 この日は大雨となり頼朝方の三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされていました。


 三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしとし、大庭景親は夜戦を仕掛けることにしました。


 そして闇夜の暴風雨の中を大庭軍は頼朝の陣に襲いかかりました。


「三浦一族が頼朝と合流するまえに、奴らを叩く!」


「おお!」


 頼朝軍は抵抗しましたが多勢に無勢で兵や将が次々に討ち取られていきました。


「長田忠致!我が父の敵取らせていただきます!」


 戦いの中、仇敵長田忠致を見つけた朝顔が切りかかり、鎌田盛政と鎌田光政も加わって、長田忠致を討ち取ったようでした。


 我々は勢いのまま追撃を行いましたが、頼朝に心を寄せる大庭軍の飯田家義の手引きによって頼朝らは辛くも土肥の椙山に逃げ込んだのです。


 翌24日昼、大庭軍は追撃の手を緩めず、逃げ回る頼朝軍の残党は山中で激しく抵抗ました。


 ちりぢりになった頼朝軍の武士たちはやがて頼朝の元に集まったのですが、頼朝は土肥実平、岡崎義実、安達盛長ら6騎とししどの岩屋の臥木の洞窟へ隠れました。


 そして土肥実平は、人数が多くては必ずや見つかりとても逃れられない、故にここは自分の領地であり、頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので、皆はここで別れよと進言しました。


 皆はこれに従って涙を流して別れ、北条時政と息子の二男の義時は甲斐国へ向かおうとしました。


「貴狐天王、逃げるものをあなたの配下の狼にて仕留めていただけないでしょうか?」


『ふむ、それは構わぬがそ奴らの心の臓を妾に捧るかえ?』


「はい、構いません、ですが味方のものはおやめください」


『うむ、まあ100名程度は食らえるか、ではゆくとするぞ』


 貴狐天王の配下の狼による狩りが始まりました、北条親子は狼の群れに囲まれ足首を喰いちぎられたあと喉笛を食い破られ、心の臓を食われたのです。


 さらには、山を庭のごとく駆け回る私の歩兵が山中にて敵兵を散々に打ち取ります。


 また、嫡男の宗時は別路を向かったのですが、彼は伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしたのです。


 さらに、大庭軍は山中をくまなく捜索しました。


 大庭景親が捜索に来てこのししどの岩屋の臥木の洞窟が怪しいと言うと、景時がこれに応じて洞窟の中に入り、頼朝と顔を合わせたのです。


 頼朝は今はこれまでと自害しようとするが、景時はこれをおし止め


「お助けしましょう。

 戦に勝ったときは、(きみ)をお忘れ給わぬよう」


 と言うと、洞窟を出て


「大殿ここに人の跡はなく、蝙蝠ばかりで誰もいないようです、向こうの山が怪しいと思われます」


 と言いました。


 大庭景親はなおも怪しみ自ら洞窟に入ろうとしたのですが、景時は立ちふさがり


「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」


 と詰め寄ったのでした。


「そうか、では、あちらを探してみよう」


 と彼は景親らを導き、頼朝の命を救おうとしたのです。


 が、無論それを見逃す私ではありません。


 更に狼の群れも集まってきました。


 大庭景親一行が立ち去ろうとした時、私はそっとその隊から離れ、その洞窟の前にある木の影に隠れ潜みました。


  やがて九死に一生を得たと思ったであろう頼朝とそれに従う土肥実平などが、洞窟の奥から姿を表しました。


 土肥実平が洞窟のあたりを見回し


「どうやら立ち去ったようでございます、今のうちに逃れましょう」


 と、頼朝を洞窟の中から呼び寄せました。


 私は弓に矢をつがえ、頼朝の眉間へ矢を放つと、それは違わずに頼朝の眉間を打ち貫きました。


 そして、残りのものもあるものは狼に食われ、あるものは私に射殺されていったのです。


 この場で動く人間が私だけになったとき私は額の汗を拭いました。


「よし、これでまずは一人厄介な者を倒せましたね」


 そして私は頼朝や土肥の首を取ると大庭景親の元へ持参しました。


 それを見て梶原景時が青くなっています。


「よくぞ、頼朝とその近習のものを討ち取った。

 して、頼朝はどこにいたのか?」


「はい、ししどの岩屋の臥木の洞窟に隠れておりました。

 まだ胴体は残っておりますので見聞されますか?」


「なんと、景時!これはいかなることか!」


 景時は逃げようとしましたが捕らえられ、縄で縛られました。


 そして、洞窟の前の死体と洞窟に残された物が見つかり景時は首を切られたのです。


 石橋山の戦いで頼朝の軍に参加した豪族はすべて山中で討ち取られました。


 それを聞いた三浦氏は兵を戻したのですが、26日、畠山重忠、河越重頼、江戸重長の秩父党の軍勢は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、三浦一族は城を捨てて安房に逃げ出しました。


  同じ頃上野では信濃の軍が新田義重(にったよししげ)を討ち、上野をほぼ平定したのです。

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