治承4年(1180年)
治承4年(1180年)2月、高倉天皇は言仁親王に譲位(安徳天皇)、平氏の傀儡としての高倉院政が開始されたのです。
そして3月、清盛は帝の外祖父になったことに満足せず、
「上皇様が厳島の社へご参詣なさるよう手配をせよ。
まずは、この福原へ御幸頂き、そこから船で厳島へ向かって頂く
と、言い出しました。
これは、高倉院が上皇になって初めての寺社ご参詣のことをあらわします。
高倉上皇は清盛の強い要請により厳島神社への参詣を計画するのですが、先例を無視するものとして畿内の寺社勢力は猛然と反発しました。
彼らから見れば自分たちの権力位を否定されるわけですから当然とはいえます。
園城寺の大衆は延暦寺・興福寺の大衆に呼びかけて後白河・高倉両院を誘拐して寺院内に囲い込み、朝廷に対して後白河法皇や前関白基房の解放、そして平家討伐命令を要求しようとしました。
摂関政治の解体以後、太政官は最高意思決定機関としての機能を喪失し、安徳天皇も3歳であったことから後白河法皇・高倉上皇のどちらかが治天の君として院政を執る必要があったのですが、その両院がいなくなれば朝廷は機能停止に陥りますし、この時代は「仏罰」の存在が信じられていたので、寺院の攻撃は一種の禁忌となっていたのです。
このため、公卿たちには要求を認めるしか選択肢は無くなるというものであったのでした。
実際に興福寺は同意、親平氏派が多い延暦寺でも反平氏派の恵光房珍慶の集団が参加の意思を示しました。
決行日を高倉上皇が厳島行幸に向かう3月17日と決定したが、前代未聞の計画であったため、興福寺の使者が鳥羽殿幽閉中の後白河法皇に打ち明けたところ驚いた後白河法皇が平宗盛に事の次第を告げたために高倉上皇の出発日が19日に変更されてこの計画は失敗に終わったのです。
だが、これを機に高倉上皇と清盛の間で後白河法皇の安全を理由に幽閉場所を鳥羽殿から京都市中へ移動させることについて協議され、5月14日の深夜、後白河法皇は鳥羽殿から八条坊門烏丸邸に遷ったのです。
引き続き高倉上皇が院政を執ることになったものの、ここで後白河法皇は幽閉生活から解放されることになったのです。
さらに1180年は養和の飢饉の原因となる夏の西国の大干ばつがおこります。
そこにきて秋になると大型台風が襲い、穀物はことごとく実らず、春に田をおこし夏に苗を植える仕事はあっても、秋に収穫をし冬にこれを喜ぶことができなかった。
人々は様々な財貨を食料と交換しようとしたが誰も目に留めず、幸運にも交換できてもとても価値のつりあわない量しか手に入らなかった。
流民が増え酷い有様となったが何とか年を越した。