重盛の容態回復と越前での宋との貿易
治承三年の政変が起こり、状況が緊迫感を増す中ですが、今の私に直接的に取れる行動は今はさほど多くありません。
各地に巻いた草からの情報を集めながら対策を取り、兵の訓練を継続し、開梱を行って農作物の確保を行うくらいですね。
この2年間、私は越前の重盛の屋敷に度々赴いては、彼の容態を見ていました。
2年前には重篤な症状でしたが清盛と後白河法皇の間の板挟みのストレスからの開放と、塩の多い保存食中心の生活から新鮮な食べ物を食べられる食事になったことで症状はかなり改善されたようです。
今では普通に生活ができるようになりました。
「重盛様本日のお体の調子はいかがですか?」
彼は笑って言いました。
「うむ、政務からの開放や塩辛い食事をしなくて良くなったせいで、だいぶ良くなった。
まあ、また政治に戻れと言われても、もう戻りたくないがね」
私はその言葉にうなずきます
「それはようございました、何れにせよ無理は禁物でございます。
今後もお体には気をつけてください」
「わかっている、そちらもな」
「はい、ありがとうございます」
私は重盛の屋敷を出て湊に向かいました。
私は信濃で算出する硫黄・木材や信濃で加工した漆器・干し椎茸などと大陸で作られる陶磁器やお茶、砂糖や氷砂糖、綿花の種、その他日本で手に入らない漢方薬などを交換して交易を行っていました。
宋代の壺というのはとても美術的価値が高いものですが、私が買っているのはもっと実用的なものです。
また高麗からも小麦などの食料や高麗人参などの医薬品、紙、筆、墨などの文房具の手工業品を輸入しております。
この時代の高麗の中国やアラビア、インドなどからも買い付けに来る船があったそうです。
コリアと言うのはこの時の高麗を示すものですしね。
「できればお茶と綿花は栽培して増やしたいのですけどね……」
信濃は高地で気温が低くお茶や綿花が栽培できる環境ではありません。
「信濃の近くでは遠江か三河あたりが一番いいはずなのですが、流石に今は無理ですしね」
とは言え、戦乱が始まってからでは遅いわけで今のうちに入手しておくに越したことはないですからね。