表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
木曽義仲の覇業・私巴は只の側女です。  作者: 水源


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

82/109

治承3年(1179年)

 治承3年(1179年)平家のクーデターである治承三年の政変が起こります。


 前年の治承2年(1178年)平清盛の娘である建礼門院中宮徳子は高倉天皇、のちの安徳天皇になる第一皇子を出産しました。


 清盛はこの皇子を皇太子にすることを後白河法王に迫り、法皇はそれをしぶしぶ受け入れ親王宣旨が下されて言仁(ときひと)と命名され立太子した。


 皇太子の後見人は平家一門や親平氏公卿で固められ、院近臣は排除され、後白河は平氏に対して不満と警戒を強めることになるのです。


 またこの年は治承の大火(じしょうのたいか)が起こりました。

 前年の安元の大火(太郎焼亡)との関連で次郎焼亡(じろうしょうぼう)とも呼ばれるこの火災は七条東洞院から出火し、折からの東風に煽られて朱雀大路に至るまでの三十数町が全焼したのです。


 そこは前年の安元の大火(太郎焼亡)で焼け残った地域とも重なっており、この二度の火災により平安京の三分の二が焼けたと言われています。


 治承3年(1179年)3月、清盛の娘である白河殿盛子が死去しました。


 盛子は夫・近衛基実の死後、摂関家領の大部分を相続していて、盛子の管理していた摂関家領は基通(基実の子)もしくは、盛子が准母となっていた高倉天皇が相続すると思われていたのですが、後白河は白河殿倉預くらあずかりに近臣・藤原兼盛を任じて、事実上その所領の全てを没収してしまったのです。


 また関白・松殿基房の子で8歳の師家が20歳の基通を差し置いて権中納言になりました。


 基房は摂関家領を奪われた上に、殿下乗合事件に巻き込まれたこともあり、反平氏勢力の急先鋒となっていたのです。


 この人事は自らの娘・完子を基通に嫁がせ支援していた清盛の面目を潰すものでした。


 さらに親平氏の延暦寺でも反平氏勢力が台頭して内部紛争が起こるなど、情勢は予断を許さないものになっていたのです。


 さらにこの年は冷夏で冷たい雨ばかり降ったため、例年より米が不作でした。


 この時の源頼政の位階は正四位下でしたが、従三位からが公卿であり、正四位とは格段の差があったため、70歳を超えた頼政は一門の栄誉として従三位への昇進を強く望んでいました。


 そしてこの年清盛の推挙により念願の従三位に昇叙したのです。


 清盛は頼政の階位について完全に失念しておりそのため長らく正四位であった頼政が、


  のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな


 という和歌を詠んだところ、清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、従三位に昇進させたといわれます。


 治承3年(1179年)11月14日、清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛、八条殿に入りました。


 京都には軍兵が充満し、人々は何が起こるか分からず騒擾を極めたといいます

 15日、基房・師家が解官され、正二位に叙された基通が関白・内大臣・氏長者に任命されました。


 清盛の強硬姿勢に驚いた後白河は、静賢(信西の子)を使者として今後は政務に介入しないことを申し入れたため、一時は関白父子の解任で後白河と清盛が和解するのではないかという観測も流れたのですが、16日、天台座主・覚快法親王が罷免となり親平氏派の明雲が復帰します。


 さらに、17日、太政大臣・藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)が解官され、この中には一門の平頼盛、縁戚の花山院兼雅も含まれていたのです。


 諸国の受領の大幅な交替も行われ、平氏の知行国はクーデター前の17ヶ国から32ヶ国になり、「日本秋津島は僅かに66ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」という状態となったのです。


 18日、基房は大宰権帥に左遷の上で配流、師長・源資賢の追放も決まりました。


 これらの処置には除目が開催され、天皇の公式命令である宣命・詔書が発給されていることから、すでに高倉天皇が清盛の意のままになっていたことを示しています。


 20日の辰刻(午前8時)、後白河は清盛の指示で鳥羽殿に移され、鳥羽殿は武士が厳しく警護して信西の子(成範・脩範・静憲)と女房以外は出入りを許されず幽閉状態となり、後白河院政は停止された。


 清盛は後の処置を宗盛に託して、福原に引き上げ、次々と院近臣の逮捕・所領の没収が始まり、院に伺候していた検非違使・大江遠業は子息らを殺害して自邸に火を放ち自害、白河殿倉預の藤原兼盛は手首を切られ、備後前司・藤原為行、上総前司・藤原為保は殺害されて河へ突き落とされました。


 後白河の第三皇子である以仁王も所領没収の憂き目にあい、このことが以仁王の挙兵の直接的な原因となったのです。


 このとき源範頼を養育していた藤原範季も解官されています。


 ただ、清盛も当初から軍事独裁を考えていたわけではなく、左大臣・経宗、右大臣・兼実など上流公卿には地位を認めて協力を求め、知行国の増加に比して人事面では平経盛が修理大夫になったのが目立つ程度で、解任された公卿たちの後任の多くを親平氏あるいは中間派とみなされた藤原氏の公卿が占めたのです

 また、解任された公卿の多くも翌年には復帰しています。


 ちなみにこの時の平氏の知行国は

 出羽(秋田)常陸(茨木)上総(千葉)下総(千葉)武蔵(東京埼玉)

 伊豆、駿河(静岡)三河(愛知)尾張(愛知)

 越後(新潟)佐渡、能登(石川)加賀(石川)飛騨(岐阜)美濃(岐阜)

 越中(福井)越前(福井)若狭(福井)

 伊勢(三重)紀伊(和歌山)

 丹波(兵庫)但馬(兵庫)播磨(兵庫)備中(岡山)伯耆(鳥取)周防(山口)長門(山口)

 淡路、讃岐(香川)阿波(徳島)土佐(高知)

 筑前(福岡)薩摩(鹿児島)でした。


 そして後白河法皇を幽閉して平家が政治の実権を握ったことは、多くの反対勢力を生み出したのです。


 寺社勢力では関白・基房の配流に反発する興福寺、後白河と密接なつながりをもつ園城寺が代表で延暦寺系列とその他の寺社の対立につながります。


 とくに後白河法皇の近臣から没収し新しく平氏の知行国となった国では、国司と国内武士の対立が巻き起こったのです。


 特に、この時に交替した上総・相模では有力在庁の上総広常・三浦義明が平氏の目代から圧迫を受け、源頼朝の挙兵に積極的に加わる要因となったのでした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ