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治承元年(1177年)

 治承元年(1177年)この年は災厄が続きます。


 1月に東大寺の鐘と大仏螺髪が落ちる大地震が発生します。


 さらに4月加賀の白山が噴火をしました。


 続いて4月安元の大火と呼ばれる大火災が京の都で発生します。


 大極殿をはじめ、内裏、八省の諸建物、関白はじめ公家の邸宅十四家、民家二万余家が焼失。


 皇居だった閑院にも火が迫ったため、高倉天皇と中宮・平徳子は正親町東洞院にある藤原邦綱邸に避難しました。


 火は2日間にわたって燃え続けたそうです。


 焼失範囲は東が富小路、南が六条、西が朱雀以西、北が大内裏で、実に京の三分の一が灰燼に帰したのです。


 大内裏の大極殿の焼亡は貞観18年(876年)、天喜6年(1058年)に次いで三度目でしたが、内裏で天皇が政務を執り行う朝堂院としての機能はもはや形骸化しており、以後は再建されることはなかったのです。


 さらに後白河法皇の女御の建春門院こと平滋子の病状が悪化して死去。


 さらに二条天皇の中豪雨である高松院姝子内親王(しゅしないしんのう)・孫の六条上皇・近衛天皇の中宮の九条院こと藤原呈子が亡くなり、朝廷は大きく動揺するにいたります。


 ここに至って朝廷は讃岐院の怨霊を鎮めるため、「崇徳院」の諡号を贈りました。


  「崇」という文字は偉大にしてあがめらるという意味で、「徳」という文字は「怨恨のあるものを憎まず、かえって恩惠・善意で報いる」の意味があります。


 今更ですがあなたは偉大にして崇められる徳のある方なので怒りを沈めてください。


 という意味合いがあったのです。


 しかしながら天変地異はこの後もつづき天皇の権力が顧みられないという崇徳院の呪いは明治になるまで続くことになります。


 一方清盛の長男・重盛は左大将、三男宗盛は右大将となり、摂関家をはじめとして公卿の不満はおおいに高まっていました。

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