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大蔵館跡と畠山重忠

 さて、常陸の国を出立した私たちは、一路武蔵国比企郡大蔵にある大蔵館跡を目指しました。


 ここは義仲様の父である源義賢が、当時の武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとり住んだとされる場所です。


 相模や伊豆、房総半島の安房、上総、下総あたりは義朝や義平の影響が未だに強いですからそちらにいくことはあまり意味がないですが上野や武蔵の北部あたりには義賢の影響がまだ残っているはずですからね。


「巴様、今度はどちらへ向かわれるのですか?」


「駒王丸が生まれたという場所に行ってみようかと思っています」


「そちらかに何方かお会いしたい方でもいらっしゃるのですか?」


「いえ、はっきりそう決まってるわけではないのですが……。

 せっかくですし一度訪れておきたいのです」


「分かりました、では参りましょう」


「ありがとう小百合」


「巴様のわけのわからない行動にはなれておりますゆえ」


 うむむ、なんだかひどい言われようです


 秩父重隆は、甥・畠山重能並び父・重綱の後妻との間で家督を巡って対立しており、また隣国の新田氏や藤姓足利氏と利根川を挟んで抗争を繰り返していたのです。


 秩父重隆の対抗勢力である新田氏、藤姓足利氏、畠山氏らは源義朝とその長男・義平親子の勢力と結んでおり、父・重綱の後妻は義平の乳母であったのですね。


 この頃の源義朝は鎌倉に館を構え相模国一帯に強い基盤を持っており、都へ戻った義朝に代わりその地盤を受け継いだ義平は、叔父・義賢と秩父重隆の勢力が上野、武蔵の武士団を糾合して南へ勢力を伸ばそうとする動きを見せると、先手を打って武蔵国の大蔵館を襲撃し、源義賢、秩父重隆を共討とはたしました。


 このときわずか15歳の義平はこの戦いで大いに武名をあげ「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになるのです。


 この時、2歳の駒王丸は、畠山重能の計らいで、斎藤実盛により、駒王丸の乳母夫である信濃国の中原兼遠のもとに逃がされたのですね。


 このときの源義平の行動が都で問題にされず処罰される事もなかったのは、当時の武蔵国司である藤原信頼との結びつきによるものだと言われます。


 この人達は後に平治の乱で死ぬことになるわけですが……ね。


「このあたりが、かって義仲様が住んでいたあたりでしょうか」


 熊谷と秩父の間くらいの比企の土地は風光明媚な山と平地の間くらいに位置し、利根川の洪水などの影響も受けにくいなかなか良い場所でありました。


 まあ、秩父は一部の盆地を除き、水田が作れず米の作れぬ土地でした。


 しかし甲斐武田氏が発見した秩父鉱山などを始めとした金・砂金の鉱山があり、養蚕も盛んであったのです。


「とは言え今はもう何もないですか……」


 少し残念に思いましたが、ここにこれ以上居ても得るものは特に無いようです。


「では武蔵国大里郡畠山荘の畠山のもとに向かいましょう」


「畠山?」


「ええ、駒王丸を逃した方がそこにいるはずです。

 できれば一度お会いしておきたいですからね」


「なるほど、かしこまりました巴様」


 私たちは一路畠山荘を目指します、といっても大蔵館があった場所からさほどは離れていませんけどね。


「このあたりのはずですが……」


「あのおきなお屋敷ではありませんか?」


 小百合が示した先にたしかに大きな屋敷がありました。


 私はそちらに向かって歩いてゆきました。


 そして門番らしい男の人に声をかけます。


「すみません、こちらは畠山様のお屋敷でございましょうか?」


「なんだ、商人がなんのようだ?」


「あ、いえ、私は木曽からやってきた木曽中三信濃権守兼遠の娘で巴と申します。

 畠山様に一度ご挨拶がしたいのですが……」


 と私は袖より紹介状を取り出して門番に渡しました。


「これが我が父よりの紹介状にございます。

 何卒お取り次ぎくださいませ」


 門番はふむと考えたあと


「それがしでは判断できぬゆえ、我が主人に判断を仰ぐゆえここでまつがいい」


「はい、かしこまりました」


 しばらくして門番が戻ってきました。


「お前たちを通して良いとのことだ、入れ」


「ありがとうございます」


 私たちは開けてもらった門から屋敷の中へ入りました。


 出迎えてくれたのは40くらいの男性とその子供であるであろう10歳前後の男の子です。


「そなた兼遠殿の娘ともうすか、私が畠山重能(はたけやましげよし)だ。」


 そして男の子の方を見ると


「そしてこちらが私の長男の畠山重忠(はたけやましげただ)だ」


 彼は箱と頭を下げ


「紹介に預かった重忠です、よろしく。」


 と静かに言いました。


 彼は一の谷の戦いの折、源義経率いる鵯越えの逆落しのときに、急斜面の断崖を乗馬のままでは馬が可哀想と、愛馬三日月を肩に抱えて崖を下り平家軍に突っ込んだという説話もあるほどの怪力の持ち主で、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなしました。


 しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれたのです。


 ちなみに宇治川で私と遭遇したときに、女性を打ち殺しては武士の恥と思い、捉えようと巴御前の鎧の袖を掴んだところ私は逃げ、鎧の袖はバッサっと切れてその場から逃げ去り、さすが怪力とうたわれる重忠公も、巴御前の大力に驚いたと言う話もありますね。


「わが従姉妹である小枝は元気にしておるのかな?」


「いえ、小枝様はもうだいぶ昔に亡くなられています」


 私の言葉に彼は顔を曇らせました。


「そうか、それは残念なことだ…やはり女の身で秩父の山越えはきつかったもしれないな」


「そうかもしれません」


 私は彼の言葉にうなずきました。


 ここ武蔵から信濃の父兼遠の館までの道は遠いですからね。


 あちこちに小豪族も居たわけですから義平が放った追ってに見つからぬようにするには山の中の小道を歩いたのでしょう。


 それは大変なことだったに違いないでしょうね。


「して、この地には何用で来られたのかな?」


「はい、今は夜を見て回っておりますが、義仲様の命の恩人である方とおあいしたいと思った次第です」


 かれはウムと頷き。


「うむ……まあ、なにもないところではあるがよくぞ訪ねてきてくれた。

 ささやかではあるが宴を催すとしよう、準備するゆえ少々待たれよ」


 皆さん宴会が大好きなのですね。 


 まあ、酒の席が嫌いな男の人は少ないようですが。


「では、宴の準備が終わるまで、庭石でも担いで鍛えておきましょう」


 重忠がそう言うと重能が一瞬言葉に詰まりました


「う、うむ……」


 そんな様子に私はくすりと笑うと


「重忠殿は随分と熱心に肉体鍛錬をされるのですね」


「うむ、あれは訓練バカでなぁ……」


 なるほど、怪力の秘訣は訓練馬鹿ですか。


 いや、私も人のことはあまり言えませんが。


 流石に私に組討を仕掛けて私が逃げ出した唯一の武将ではありますね。


『平家物語』中で「ねぢきッ」ているのは私と彼のみで、彼とは頸ねぢきり仲間、略してねじ友ですね。


「なかなかに末恐ろしい方ですね」


 まあ、今回の私なら彼にも勝てる気がしますが。


 そして宴が始まりました


「うむ、重忠たまにはお前もぱっと酒など飲んで気晴らしをせよ。

 鍛錬ばかりでは息が詰まるであろう」


 酒が回ってきて口が軽くなったのか重能は重忠にそう言いました。


「父上今の世は常在戦場でありますぞ。

 小山や新田、足利がいつ攻めてくるやもしれません。

 酒を飲んで前後不覚になってはどうして戦えましょう」


「おまえは真面目すぎるぞ」


 彼の息子の生真面目すぎる言葉に重能はため息を付きました。


 やがて、夜もふけ宴も終わり私は寝所に通され一夜を過ごしました。


 そして翌朝となり私は畠山荘を出立いたします。


 私は頭を下げ信濃へ帰ることにいたしました。

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