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父母の様子と常陸行

 さてと、内政官についての教育は戸隠大輔様にあとは頼みましょうか。


 今のうちに東国へ向かって様子を見ておきたいところですが、その前に父母の健康状態と食事を見ていきましょう。


 私は父のいる館へ向かいました。


「父上お久しぶりでございます」


「おお、巴かたしかに久方ぶりだな。

 何かあったのか?」


 私の顔を見て喜んでいる父に私は答えます。


「いえ、たまには父上や母上の様子を見ておこうかと思いまして」


 そこへ母上がやってまいりました。


「あら巴、あなたが来るなんて珍しい。

 どうしたのかしら、なにかあったの?」


 その言葉を聞いて私はくすっと笑いました。


「母上、お久しぶりでございます、たまには母の顔が見たくて参った次第です。

 それにしても父上と母上はとても仲がよろしいのですね」


「何を言っておるのだ」


「何を言っているのですか」


 ふたたび揃えたように答える二人に私は羨望を覚えます。


「父上と母上はいつまでも仲睦まじくて羨ましいですね。

 義仲様は私のところには最近あまり来てくださいません」


 そう行って私はため息を付きました。


 父はうーむと考えたあと


「それはお前があちこちフラフラ歩き回ってるからではないか?」


「うーん、歩き回ってるつもりではないですが」


 そういえば京や讃岐に行ったばかりでは説得力もないですね。


「ま、こんなところで立ち話もなんだ。

 中にはいってゆっくり話すとしようではないか」


「そうですね、では、上がらせていただきましょう」


 私は屋敷に上がって二人と対面いたしました。


「ところで父上、母上。

 体の具合などはいかがですか?」


 見たところどちらも健康そうに見えるのですが念のため聞いておきます。


「うむ、至って健康じゃよ、巴の送ってくれる食材のおかげでもあると思うがのう」


 私はそれを聞いて安堵しました。


 本来海のない信濃ではどうしても食べるものが偏りがちです。


 父である兼遠は1181年の横田河原の戦いの最中病没するのですが、その原因の一つは保存食の多い食生活であったでしょう。


「では朝餉を作ってきましょうか。

 たまには母上と一緒に作るのもいいものですね」


「あら、偶にはじゃなくてもっとちょくちょくきてくれてもいいのよ」


 そんなことを言いながら私たちは台所へ向かいました。


 朝餉は鶏卵と山芋の厚焼き玉子に海苔と鮎の塩焼き、胡瓜のぬか漬けと、滑子の吸い物に玄米ご飯です。


 私たちはそれをお膳におせて運びます。


「うむ、うまそうじゃ、ではいただくとしようか」


 父に続いて私達も頂きます。


「いただきましょう」


「いただきます」


 山芋が入ってふわふわの卵焼きからいたきます。


「うん、美味しいです」


 椎茸で取った出汁とみりんの味が卵の淡白な味を引き立てますね。


 取り立ての鶏卵と椎茸の出汁は健康にもいいですし。


 玄米ご飯を頬張り、獲りたての鮎の塩焼きを口にします。


「やっぱり鮎は塩で食べるのが一番ですね」


 下手に変な味をつけるよりずっと美味しいのですから。


 胡瓜をポリポリ食べながら、滑子の汁物をすすります。


「うむ、滑子をこのような季節に食べられるとは贅沢じゃ」


「そうですね」


 私は父の言葉にうなずきました。


 菌床の人工栽培であればいつでも取れますが、茸は基本秋の食べ物ですからね。


「うむ、馳走であった、いつも助かっておるぞ」


「ええ、ありがとうね、巴」


 私は微笑んで答えました。


「いえいえ、父上母上にはいつまでも長生きしていただきたいですから。

 このくらいは大したことないですよ」


 本当に父母には平和になるまではしっかり生きてほしいものです。


 私たちは膳を片付けまた雑談に興じました。


 そしてしばらくは世間話をしたあと、私は本題を切り出しました。


「父上、私はこのあと東国を見て回ろうと思うのですが、畠山殿や志田義弘殿などへの紹介状などはいただけませんでしょうか?」


「紹介状か、ふむ構わんが東国は治安が悪いと聞くが大丈夫……まあ心配はいらぬか」


「ええ、供の者は連れて行きますが大丈夫だと思っております」


「では、紹介状を儂の名で書いておく。

 気を付けていくのだぞ」


「はい、わかっておりますよ父上」


「やれやれ、おてんば娘を持つと寿命が縮むわい」


 そういって父はカラカラと笑いました。


 こうして私は紹介状を手に東国へ向かうことといたしました。


 西国に向かったときと同じように隊商を装って情報収集のために戸隠大輔様のお弟子様をお借りして、護衛に歩兵から10人ほど連れて行けば、今回もまあ大丈夫でしょう。


 こうして私が向かったのはまずは常陸国(茨城県)の志田荘でした。


 こちらには源志田三郎先生義広みなもとしださぶろうせんじょうよしひろ殿が居ます。


 義仲様の父親である源義賢の同母兄であり、また義賢と同じく帯刀先生の職にあったこの方は、義賢とほぼ同時期に関東にきたようです。


 そして、常陸国に荘園である志田庄を開墾し立荘しますが、この時の志田庄の本所は美福門院、領家は藤原宗子(後の池禅尼)であり、その立荘を斡旋したと思われる常陸介が宗子の息子の平頼盛であったようです。


 義賢と共同して領地の開墾を行い、長兄義朝の領地を脅かします。


 のちに義賢は久寿2年(1155年)の大蔵合戦で義朝の長男・源義平に討たれましたが、このときは動かず、保元の乱や平治の乱にも参加しなかったようです。


 治承四年(1180年)頼朝挙兵後の佐竹攻めのとき頼朝に会見し敵意は無いことを表明します。


 その後、野木宮合戦に敗れた彼は木曾義仲軍に参加し、どこかの誰かとは違って終生これを裏切ることはなく、義仲様とともに北陸道の戦を勝ち進み一方の将として上洛し、入京後に信濃守に任官されたのです。


 しかし、粟津の戦いで義仲様が討ち死にし、敗走した義広もまた逆賊として追討を受ける身となり伊勢国羽取山(三重県鈴鹿市の服部山)に拠って抵抗を試みるが最後は斬首されたのです。


「この方とはぜひとも、面識を持ちたいですからね」


 京の都の帰りに熊野新宮に向かい源新宮十郎義盛みなもとしんぐうじゅうろうよしもりと会うことも考えなかったわけではないのですが、どうもいい印象がなく、会ってうまく話をつけられそうな気がしなかったので熊野には行かなかったのですよね。


「まあ、それはともかくお会いするのが楽しみですね」


 私は希望を心に乗せて常陸国へと向かったのです。

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