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足踏みミシンと帆船の帆

 さてお祭りも終わりましたし、本格的に船の技術改良に取り組みましょう。


 まずこの時代の船は丸木をくり抜いて船底を作っていたので幅の大きな船底を作るのは難しいです。


 琵琶湖周辺では京へ向けて河川の浅い水域にも対応できるような、大きな平板を船底に持ってくるようになっていますし、まずはそこから改良していきましょう。


 接着剤として使われていたのが膠であるというのも大きな欠点です。


 膠は水溶性なので水に浸されると溶けてしまいますからね。


 最も今の日本で膠以外の接着剤は知られていなかったので仕方ないことではありますが。


 次のそして最大の欠点は帆の材料が藁を編んで作った(むしろ)を使っていることです。


 筵の帆では三角帆が作れないので当然帆は横帆のみなります。


 筵の横帆では追い風のときは良いのですが横風などの時に進むのは難しい欠点があります。


 なので日本の船は櫓の漕ぎ手を多数必要としていました。


 実のところ日本においての筵の帆は江戸時代の16世紀後半になって木綿帆が大型船や軍船に,17世紀後半になってようやく一般の廻船や小型船に木綿帆が使われるようになります。


 その最大の理由はそれまで木綿が非常に高価であったこととその時代に紡績と裁縫の技術がある程度確立したことにあります。


 日本における木綿帆は最初は〝刺帆さしほ〟という2枚の綿布を四子糸で縫い合わせた布を使っていましたが、この構造は破れ易く、修理にも時間がかかったのですね.。


 江戸時代に工楽松右衛門という人がが通称「松右衛門帆」と呼ばれる帆布を開発し、〝織帆〟にすることで、強度のある〝帆〟を生み出し、木綿の帆が一般的となるのです。


 遣唐使船等は網代帆あじろほと呼ばれる竹を薄く削った物を平らに編んで作った網代(あじろ)を竹で縛って継ぎ合わせた帆(ブラインドカーテンのような構造を思い浮かべてもらえればそう間違いはありません)を用いていたことも有ります。


 網代(あじろ)は中国では19世紀頃まで長い間使われ続けましたが、日本ではあまり用いられませんでした。


 その理由は筵の帆より高価で手入れが大変なのと重いため喫水の浅い、日本の船だと重心が高くなって横転事故が起きやすかったからです。


「まずは、丈夫で太い麻糸を糸としてヨレるようにしないといけませんね」


 小百合が私のことを”また何か変なことを考えてるんじゃないか”という目で見ています。


「えーと、小百合?」


「何でございますか、巴様」


「今回はそんなに変なことをしようとしてるわけではないですよ」


「では、今まで行ってきたことは変なことであったという認識があっということでございますね」


「うぐ、そ、そうですね」


「で、今回は何をしようとサれているのですか?」


「船の帆を麻布で作ろうと思ってるんですよ」


「船の帆?海の無い信濃でそのようなことを行う意味があるのですか?」


「私達の実家の宮崎家に伝えてもいいし、春から秋にかけての諏訪湖で使ってもいいと思うんだけど」


「ふふ、そんなにムキにならないでくださいませ。

 巴様のやってることはおかしなことでは有りますが、意味のないことではないとわかっておりますよ」


「むう」


 日本の船体の構造的な問題としての甲板が無い事で、船に水が貯まることとか、舷側が低いから大きな横波を被ると波がまともに船の中に入ってきてしまうという欠点もありますが、天然の良質な港が筑前国の博多、若狭の敦賀、陸奥の十三湊などといった片手の指で数えられるほどの少なさの日本では舷側を高くすると、荷物の積み下ろしが難しいのですね。


 なので宋船が入港できる港も限られていたのでした。


 さらに構造が複雑になると船の建造費がかさむとか荷物の積載量が減るなどの色々な問題があるのです。


 また西洋や大陸の船は外板は小さい板を大量に並べて作っていますが、和船は大きくて分厚い板を少ない枚数で組み合わせて作られています。


 これは森林資源の多さの違いによるもので実際に日宋貿易では木材は日本からの輸出品でした。


 構造的には大きな板を使ったほうが板と板の隙間から浸水したりする可能性は低いし、全体としての強度も高く作ることもできるはずで、実際遣唐使船は思われているほど沈んでいないようです。


 まあ、もっと昔の聖徳太子が居た時代に大陸から何万もの渡来人がきているはずなのですから、大陸から日本へ渡るのがそこまで難しいわけはないのですけどね。


 中国のジャンクや日本の船は舵を船尾に取り付けてはいたものの、取り外し可能で、つりおろすことも出来るようになっていました。


 これは、舵を下ろして重心を多少下げて船を安定させることが出来るといる利点がありました。


 平底でも沖に出てしっかりと旋回ができ、浅瀬では底に当たる前に舵を引き上げれることができるのですね。


 一見いいことのようですが、金具などでしっかり固定されていない舵は、追い波などで後ろから波が打ち込むと、舵板に掛かる水圧で舵本体や舵を固定する穴などが壊れて操船不能に陥る事が多い欠点もありました。


「となると壊れにくいように舵を改良する。

 水が入らないようにと船体の強度を上げるために甲板を作る。

 ジャンク船やヨットのようなラグセイルやラテンセイルを用いた縦帆船をつくる。

 船の大きさによっては帆柱を複数立てて縦帆横帆を組み合わせて風向きによっての対応を取れるようにする……といったところですかね。

 できれば衝角を備えた小型の快速船と、大型の砲撃船を作りたいところではあるのですけど、そのためには唐突しても大丈夫なだけの船体強度が必要ですし……。

 大型の船となるとやはり人力もしくは牛馬を落ちいた外輪船もほしいですね。

 それに麻布で三角帆を作るとなるとやはり足踏みミシンがほしいですね」


「巴様、言っていることが全くわかりませんが?」


「あ、えーとね。

 要は大陸の宋船みたいな船が作りたいなってこと」


「巴様は大陸の技術がお好きですねぇ」


「仕方ないですよ、日ノ本より大陸のほうが技術的に進んでいるのですから」


「たしかにそのようではありますけど」


 さてさて、ミシンは回転をクランクで針の上下運動に変える機械ですが、ハンドルを手回しだけで行うと大変なので、踏み板をクランクで回転運動に変えられる機構になっている足踏みミシンを作りましょう。


「台は木製でいいとして流石に本体は金属だよね」


 私は青銅を旋盤で削ったり、鋳型を作って成型したりして、ミシンを作り上げました。


「ふむ、足踏み機構は脱穀機や旋盤にも流用できるかな」


 そして、太めの麻糸で織り上げた麻布を三角にハサミで切り、それを太めの麻布を使ってミシンで縫い合わせて三角帆の帆布としました。


「コレなら大丈夫そうですね、小型船に帆柱を立てて、運用してみましょうか」


 早速諏訪湖においてある全長30尺(9m)程度の小型船をヨット風に魔改造してみます。


「なんとなく、うまく言った感じでできましたかね」


 実際に湖に出て三角帆で船を操ってみると、追い風だけではなく横風や逆風でもある程度の角度であれば切り返してジグザグに風上にすすめるのです。


 しかも、結構な速度も出ますね。


「ふむ、いい感じですね」


 しかし、箱型だと安定性がいまいちです、やはり竜骨を用いたうえでU字型に船底を作り、安定のために竜骨を金属として衝角も取り付けたいところではあります。


「しかし、船の重さを増やすためにはもう少し大きい方がいい気もしますが……」


 いろいろと悩みがつきませんね。

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