義仲の帰還と心光寺建立
さてさて、義仲様の六位蔵人の任官期限の一年がたち、今日は義仲様が信濃に戻ってくる日です。
私は待ちきれずに、屋敷の外に立って義仲様の帰りを待っておりました。
私がそわそわしながら待っておりますとやがて馬に乗った集団が見えてきました、そして我が中原の馬借に混ざって義仲様の姿も見えたのです。
私は義仲様のもとに駆け寄りました
「義仲様、おかえりなさいませ」
義仲様はニヤッと笑うと私に答えてくださいました。
心なしか気品のようなものを感じる気がします。
「ああ、今戻ったぜ、ま、つもる話もあるし岳父殿の所へ行くとしようか」
「はい、皆にも知らせて父の屋敷に集まってもらうといたしましょう」
私は兄と弟、そして義経一行にも使いを出して、父である兼遠の屋敷に皆で集まるように伝えて回りました。
樋口次郎兼光、今井四郎兼平、落合五郎兼行、山本義経ら一行が父の屋敷に集まり酒宴が始まりました。
父は上機嫌で酒を飲んでいます。
「この屋敷が賑やかになるのも久方ぶりじゃのう、それはそれとして義仲殿、京の都はどうじゃったかな?」
静かに酒を飲んでいた義仲様が盃をおいてまじめに語り始めました。
「正直あんなに荒れ果てているとは思っておりませんでした。
朱雀大路の南端の羅生門あたりは盗賊のすみかになっておりましたし、群盗が多発しており検非違使の手に余っております
朱雀大路より西は、ほとんど人が住まなくなっていた荒地になっており、大内裏の西側も塀が崩れ落ちて野犬やら狐やらの獣が棲む不気味な場所になっておりました」
「うむ、まことのその通りじゃのう」
父が義仲様の言葉にうなずきました。
「物を盗むための放火も多いですな。
大蔵(各地より収められた税など国家の財産が納められた蔵)に火を放とうとしたものを捕らえたとらえたところそのものらは下級の僧侶が3人と、大蔵省の下級官人であったとか、全く嘆かわしいことですよ。
実際、消火しながら蔵の中に入っていた物品の消失を防ぐためにを運び出し、 大混乱をしているところをその混乱に乗じて物品を盗み取ろうと考えていたらしい」
「火事場泥棒じゃな」
「それにより多くの家屋が焼けても貴族どもは穢を恐れているから、流刑にしかならない。
そういった盗人が地方に流されれば当然地方の治安が乱れる。
そんなことも貴族どもはわからんのだ」
義仲様の嘆きの声に我が兄が相槌を打ちました
「ふうむ、かようなことになっておったとは」
「都というものはもっと華やかな場所かと思うていましたが」
「平家の兵士どもは何をしておるのですか?」
中原五郎兼行が義仲様に問いました。
「法皇殿の内裏の守護やら延暦寺やら興福寺やらの強訴の対応に駆りだされて、それどころではないようだな」
「なんともお粗末な話で御座いますな」
「ああ、だが京の治安を一気に良くしようとすれば厳しく対応せざるを得まいな」
「ふうむ、私が京の都にいた時よりもひどくなっているようですな」
義経がそういうと
「うむ、おそらくそうだと思われるな」
と義仲様が言葉を返しました。
私もそこで口を挟みます。
「もし、京に我らが討ち入るようなことがあれば、京の都はそのようなところなのだということを忘れずにいるべきですね」
実際にはこの後もっと京の都は荒れ果てることになるのですが。
「うむ、そうだな賊徒の跳梁している土地であるということを忘れぬようにしようぞ」
「ところで、京の都では色々面白い遊びがあってな。
今日は遅いゆえ明日以降にでも皆で楽しんでみたいのだがどうかな?」
義仲様のその言葉に私は当然賛成します。
「はい、私はかまいませぬ」
他の皆も賛成してその日は父の屋敷に止まったのでありました。
翌朝、まず義仲様が教えてくださったのは打毬でございました。
馬に騎った者らが2組に分かれ、打毬杖をふるって庭にある毬を毬門に早く入れることを競う競技であります。
馬にのらないものは徒打毬となりますね。
打球はポロ、徒打毬はラクロスのようなものと思っていただければいいでしょう。
その次は蹴鞠です。
蹴鞠は4人か6人または8人が輪になった状態で革靴を履いて、その中で径7~8寸(25cm程度)の革製の鞠を地面に落とさないようにしながら元木と呼ばれる柳、桜、松、楓などの植木の高さ以上の一丈五尺(約4.5m)に鞠を蹴り上げ、一人が三足以上、具体的には一足目は貰って受ける鞠、二足目からは自分が蹴って楽しむ鞠、そして最後に相手が蹴りやすいように渡す鞠、という風に定められた回数蹴って他の人間に渡していくというものです。
複数のチームで蹴り続けられるかを競った団体戦と、鞠を落とした人が負けという個人戦がありますが、もっと単純に皆でワイワイ騒ぎながら鞠を蹴り続けて楽しむのは、会社の屋上バレーとか、パンポンに近い気がしますね。
さらにはもともと蹴鞠は大陸で生まれたものであり12人をチームとして、30~40cm幅の網のゴールに蹴り入れる、現在のサッカーに近い競技であったらしいですね。
徒打毬を打毬杖を用いず足でけるようにすればそのまま蹴球となるでしょうか。
それにバランスを取りながら蹴りあげたりするのは足腰の鍛錬にも使えそうです。
そんなことを考えてる私に義仲様が声をかけてきました。
「巴、いまこれは鍛錬に使えますねとか考えるだろ」
「え?なぜわかったのですか」
「そりゃ付き合い長いしな、そんなこったろうと思ったが、こういうのは純粋に楽しむためにやればいいんだよ。
そうすればいろんな奴と仲良くなれるだろ」
「はい、まさしくそのとおりでございます。
義仲様は京の都に行かれて成長なさいましたね」
確かにその通りです。
でも天神での兵士たちへの娯楽兼訓練として教えてもいいかもしれませんね。
更に囲碁と将棋です。
囲碁に関しては2000年頃とほぼルールは変わりませんが、将棋は小将棋はともかく大将棋は駒の種類がだいぶ違います、と言ってもおおまかなところは変わりませんが。
そして皆で将棋を指してみました。
対戦は義仲様と義經、穂口次郎兼光と今井四郎兼平、落合五郎兼行と私、武蔵坊弁慶と伊勢義盛、鎌田盛政と鎌田光政での対局になりました。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
私は五郎と挨拶をしたあとぱちぱちとお互いに駒をさしてゆきます。
「うーん……ここかな」
「姉様そこは悪手ですよ」
「うぐ……」
結局私はこの対局に負けてしまいました。
「むぐぐ……無念です」
「まあ、時の運もありますし姉上、落ち込まないでください」
「わかってますよ」
その他の対局では義仲様と義經は千日手で決着つかず。
次郎兄様と四郎兄様は四郎兄様が、弁慶と義盛は義盛が、盛政と光政は盛政が勝ったようです。
将棋は戦術的な思考を、以後は戦略的な思考を鍛えるのに向いていると聞いたことがありますが、五郎に負けるようでは私もまだまだですね。
そして父兼遠が兄である樋口二郎兼光、今井四郎兼平に命じて、心光寺を建立させました。
そして義仲様は館を心光寺の付近に移しました。
寺という名の士官学校であるこの付近に更に屋敷を立て信濃豪族の多くの子弟を預かり鬼一法眼が教師となりまた我が兄たちは助教となって鬼一法眼を助け学問、兵学、戦術等を教えたり囲碁や将棋で戦術眼を磨いたりしたのです。
現在信濃の地でに平氏に与するのは笠原氏くらいでその他の豪族はほぼ義仲様に従っておりました。
そしてここ心光寺に信濃豪族の子弟が学問、兵学などを学んでいたこともあってここに集まっていた豪族は後の義仲様の挙兵に加ることになるでしょう。