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長寛2年(1164年)目覚め

 しばらくしてまた別の男性がやってきました。


「おお、巴。目を覚ましたか」


 その言葉と男性の顔を見てようやく私は思い出したのです。


「父上、ご心配をおかけいたし申し訳ありません。もう大丈夫です」


 そういって私は体を起こします。


 この男性の名前は中原兼遠(なかはらのかねとお)信濃権守(しなのごんのかみ)として信濃(現在の長野県)の国の受領(ずりょう)の地位をもっています。


 平安時代の受領(ずりょう)とはの中で現地に赴任した者のうち、最上席の責任者を指す官位です。


 ちなみに、国司(こくし))とは、律令制下で中央朝廷から派遣され、国単位での地方の行政や財政、司法、軍事などを統括した役人で、現在の県知事と県警をあわせたものに相当しますね。


 受領の役割は税の徴収、朝廷への貢納物の納入、国内の維持管理などです。


 権守とは国司である守の現場代理人で、国司は通常任地へは来ないので、任地での実質的な最高責任者です。


 現在で言うところの長野県の県知事と県警トップみたいなもの、でようするに独自に武力を持つ貴族の血を引く有力豪族であります。


 そして私はその娘の(ともえ)


「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。

 山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。

 中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。

 強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」


 といわれた巴御前です。


 さらに、乳兄弟として幼少より義仲や兄などと共に育ち、力技・組打ちの武芸の稽古相手として義仲に大力を見いだされ、長じて戦にも召し使われたとされる。


 京を落ちる義仲勢が7騎になった時に、巴は左右から襲いかかってきた武者を左右の脇に挟みこんで絞め、2人の武者は頭がもげて死んだという。


 とされていたはずです。


 どこの霊長類最強なのかと思わないでもありません…が、実際そうなのですから仕方ありません。


「私に投げ飛ばされてぴーぴーないていた、駒王丸になげられ気を失うとは、不覚です」


「おいおい、そりゃひでぇな」


 笑いながらそういったのは清和源氏である源義賢の血を引く駒王丸です。


 源義賢は河内源氏の生まれで源為義の次男、源頼朝・源義経らの父である源義朝の異母弟です。


 源為義は保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦いましたが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑されました。


「いや、駒王丸の腕の上達には目を見張るものがある」


 そう答えたのは兄である中原次郎兼光なかはらじろうかねみつ


「うむ、巴もますます精進せねばならんな」


 そう答えたのはもう一人の兄である中原四郎兼平なかはらしろうかねひら


 後に義仲四天王とされる武勇に優れた私の二人の兄です。


「姉様大丈夫ですか?。」


 更にもう一人は中原五郎兼行なかはらごろうかねゆきで、私の弟になります。


「ええ、大丈夫。もう痛みはないから、心配かけてごめんね。」


 私がそういうと彼は安心したように微笑んだのでした。


 実際には少し頭痛は残っていましたが心配をかけたくはありませんからね。


 どうやら組討(徒手格闘)の稽古の最中の投げられ地面に打ち倒された際に私は気を失っていたらしいですね。


 その際に昔?の記憶が戻ったようです。


「でも、どちらが昔なのか…」


 小さくつぶやいた声は周りには聞こえなかったようです。


 ちなみに次郎兄様が15歳。四郎兄様が12歳。駒王丸が10歳。私が8歳。五郎が6歳です。


 兄様二人はすでに元服(げんぷく)の儀(成人の儀式)を終えてますが、駒王丸と私は元服・裳着(もぎ)(女性の成人の儀式)はまだすんでおりません。


 中原では5歳を過ぎたら早足(駆け足)、遠足(長距離走)、馬術、弓術、太刀術、組討術、水練(水泳)などの鍛錬を始めます。


 また学術も習っております。


 中原は文武両道共に立つをよしとしているのです。


 だいぶスパルタな気がしないでもないですが。


 そして今日も組討の組み手をしていたということですね。


 視界がぼやけ多少頭が痛むのは睡眠薬の影響というわけではないようです。


 しかしどういうことでしょう”畑仲智恵”の昔の記憶と”巴”の記憶は両方あるのです。


 あ、ちなみに私は駒王丸の便女(びんじょ)です。


 …はいそこでHなことを思い浮かべた人は反省してください。


 便女というのは便利な女つまり家政婦とか小間使いとかメイドと呼ばれるような身分の高い人の身の回りの世話を行う人間の事です。


 メイドが下級貴族などの娘が勤めたように便女もそれなりに地位や権力を持ったものの娘が勤めるのが普通なのですよ。


 まあ、男女の関係になったりすることも少なくはなかったわけですけど。


 ・・・


 長く続いた平安時代も末期になりますと法律を持って統治する律令制度は崩壊し中央朝廷の地方への支配力がほぼ失われました。


 天皇家の外戚として権勢を振るった藤原氏もその勢いは昔日の物ほどは無く、現在では幼い天皇を傀儡として引退した上皇や出家した法皇が中央朝廷にて権勢を振るっていました。


 また、駒王丸の祖父に当たる源為義とその長男である義朝の勢力争いにおいて源為義が長男・義朝への対抗策として、義朝に代わって嫡子とした次男・義賢を武蔵国最大の武士の秩父重隆と婚姻をむすばせ、武蔵国比企郡大蔵に館を構ました。


 久寿2年(1155年)、大蔵合戦と呼ばれる秩父氏の家督あらそいにて駒王丸の父 源義賢は秩父重隆とともに甥の源義平に討たれ、当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されました。


 駒王丸の母君小枝御前と私の母である千鶴御前は共に秩父重隆の娘であり、秩父重隆の甥である畠山重能と武蔵の平家筋の斉藤別当実盛の保護を受けた駒王丸はその後私の父であり乳父(育ての親)である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曾松本へとやってきたのです。


 そして保元元年(1156年7月)に起こった後白河天皇と崇徳上皇の間で起こった「保元の乱」この朝廷内の内紛によって武士階級が力を持ってくるのです。


 この時崇徳上皇側は藤原家は藤原頼長、源氏は源為義、平氏は平忠正。

 それに対して後白河天皇側の藤原氏は藤原忠通、源氏は源義朝や源頼政、平氏は平清盛と一族別れて争いこれは後白河天皇側が勝利します。

 

 さらに平治元年(1159年12月)の後白河天皇と東宮・守仁の擁立を図るグループ(二条親政派)の間で起こった「平治の乱」では藤原信西を藤原信頼・源義朝の部隊が打ち倒すものの平清盛一門・源頼政と源義朝一門の戦いにおいて平家が勝つことで源氏は壊滅的な打撃を受け平氏が実権を握ることになります。


 まあ、源氏は内輪もめがひどすぎての自滅とも言えますが。


 そして時は長寛2年(1164年)平清盛たいらのきよもりを筆頭とする平家が権力を掌握し平清盛の三女平盛子が関白藤原基実の正妻となり、北政所を称した時代。


 ”平家にあらずんば人にあらず”といわれていた時期ですね。


 またこの年保元の乱で敗北し讃岐国(香川県)に流刑となっていた讃岐院が逝去しました。


 天皇もしくは上皇の流刑は、淳仁天皇から400年ぶりの出来事でありました。


 都に戻る望みが絶たれ、皇位も剥奪され、虚しい日々を過ごす讃岐院ことのちの崇徳上皇は、自らの血を使って後生の菩提のために3年の歳月をかけて五部の大乗経(華厳経・大集経・大品般若経・法華経・涅槃経)を写経し、これを都に送りました。


 二度と帰れない京の都にせめて自分が書いたお経だけでも戻りたいという願いを込めたのですが、血で書かれた経など受け取れぬと後白河法皇の近臣・藤原信西に受け取りを拒否され、五部の大乗経は都から戻されました。


 讃岐院は怒りのあまり


「我願わくば五部大乗経の大善根を三悪道に抛って、日本国の大魔王となりて天下を悩乱せん 皇を取って民となし、民を皇となさん。

 人の福をみては禍とし、世の治まるをみては乱をおこさしむ」


 と叫ぶと舌を噛み、流れる血で、突き返された五部の大乗経に


「天下滅亡」の呪詛の誓いの言葉を書きつけました。


 そして数日の後、憤死してしまったのです。


 その時の上皇は髪も爪も切らず伸ばし放題にし、身はやつれ、日々に凄まじい形相になっていったといいます。


 また遺体は葬儀に関する朝廷からの指示を待つ間、木陰の下の泉に20日間漬けておかれましたが、その間、全く様子が変わらず生きているかのようであったといい、死骸を焼く煙は御念のためか都の方にたなびいていったといい、その柩からは血が流れ出し、柩を置いた台を真っ赤に染めたといいます。


 しかしながら罪人とされていた讃岐院が讃岐国で崩御した際、「上皇の服喪の儀の必要なし」と後白河院はその死を無視し、「国司を付けて崇徳上皇の葬礼を行い、公家よりその沙汰なし」と国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなく諡号(生前の徳をたたえる称号)も贈られませんでした。


 ちなみにこの年は後に地球上の陸地の四分の一を直接の統治下に置いたという、大モンゴル帝国を築くことになるチンギス=ハーンが生まれた年でもありました。


「あ、なんかとってもいやなことを思い浮かべてしまいましたよ…。」


 もちろん私の気のせいであればいいのですが…。


 私がこの時代に来ることになった原因って…日本最強の大魔王となるこの方が原因なのでは……。


 続く長寛2年(1165年)2月、太政大臣の藤原伊通が亡くなり、二条天皇も病に倒れました。


 6月には前年に生まれた実子の順仁親王の立太子を行うとその日のうちに譲位し六条天皇が即位します。

 そして7月に二条天皇は押小路東洞院で崩御したのです。


 しかしこの時はまだ讃岐院の怨霊を疑うものはおりませんでした。

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