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覇業をなすために

 ある時皆で集まり話し合いをいたしたのです。

その場にいたのは義仲様と二人の兄と私です。

義仲様が私達に問うてきます。


「俺達の願いは天下に覇を唱えることだ。

 むろん今すぐは無理であろうが……ではどうすればよいだろうか?。」


この中では最も歳上であり信濃国今井の地を領して今井を称した次郎兼光が答えます。


「なんといっても弓の腕を磨くことが大事かと。」


続いて信濃国樋口谷を領して樋口を称した四郎兼平が答えました。


「組討こそが勝敗を決める要、組討の腕を磨くが大事かと。」


 兄二人の言葉を聞いて私も考えます。


この時代の武士というと聞こえはいいですが実際は半分農民半分兵士の半グレのようなものが多かったのです。


兵士に統一した武器や鎧を支給してきっちり訓練するわけではなく適当に集められた人間がそれぞれが適当に武器となるものや鎧を調達して戦に参加するのものです。


 源平合戦というと騎馬武者が弓でお互いに射撃しあってるイメージがありますが戦のときに馬に乗って戦うような身分をもっているのは、領地を持っている豪族の家長やその血縁者である一族ぐらいです。


 信濃や坂東、平家一門のように馬が豊富な土地だったり財がある場合は一族に仕える家来である郎党であっても馬に乗る者もいましたが。


そしてそれぞれが屋敷に抱える使用人である下人や所従と伴類と呼ばれる領内の小作人も駆りだしました。

更に場合によっては木こりや狩人も徴発しました。

もちろん農民全員を駆り出したわけではなく、多くてもおおよそ20に1人くらいの割合ですし

三男以降の土地を継ぐ予定に無いものが多くは選ばれました。


そんな感じなので騎馬武者は1割もいればいいほうだと思ってください。


そしてこの時代の報酬は土地でしたので土地を所持できる騎馬武者というのは賞金首みたいなものでした。


戦国時代の「その首置いていけ」というのはまさしく首が報酬そのものだからです。


 馬に乗る者は全身を守る大鎧おおよろいを着用し、腰に太刀を佩き(はき)、この時代においての主要武器である弓を持ちました。

この大鎧と呼ばれるよろいは日本の鎧の完成形と呼ばれるもので硬く煮た皮の上に小さな鉄のプレートを縫い付けたもので西洋のラメラーアーマーとかスプリントアーマーと呼ばれるものに似ています。

ちなみに当時大鎧を一領あつらえるには2年の歳月と莫大な金額がかかり大きな屋敷を一軒建てる事ができるほど現在の金銭で言えば3千万から4千万ほどかかったので誰でも身に着けられるものではありませんでした。


 馬に乗るのはとても重たく動きづらい大鎧を着ながら行軍するためででもあります。

西洋の騎士がとても重くて動づらいプレートメイルによる移動の問題を馬に乗ることで補っていたのに似ていますね。


 そして騎馬武者の周辺には数人の徒歩の足軽である郎党や下人、所従が付きしたがっていました。

当時のかぶとは鉄製で中にクッションとなるものも無かったため大変重くまたとても蒸れてかぶりごこちは最悪なため基本的には戦闘時以外はかぶることはありませんでした。

なので兜持ちや武器もちといった武具を持ってつきしたがったものや、長刀なぎなた熊手くまでなどの打物うちものを持って主人である騎馬武者を守ったり敵を落馬させようとするもの、矢から主人を守るための人間の身長ほどもあるたてを持ち、矢から主人を守りたてに刺さった敵が射た矢を拾い集める者達などもいました。

これらは主人が死んだら自分たちも一蓮托生なので必死に戦いました。

彼らが身につけたのは胴丸と呼ばれる幾分か簡素な鎧で軽く動きやすいものとなっていました。

まあ安いと言っても数十万円ぐらいはしたのですが。


 そういうこともあって戦場跡で死んだ者の鎧などをはぐ者も多く居ました。


 しかし強制的に借り出された領地小作人の伴類は装備も貧弱であまり士気が高い存在ではありませんでした。

何せ武器も具足も基本は自腹です。

彼らは竹や木の鎧を身に着けたりしたか、防具は何も身につけていませんでした。

彼らの役割は主に武具や兵糧の運搬や陣地構築などの土木作業もしくは数を多く見せることだったのです。


 さらに戦になれば飯が食えるし略奪もできるとうわさを聞きつけたごろつき連中も多く混じっていました。

下手すれば後ろから石を投げるだけの連中もいたのです。

まあ、投石といっても実際は馬鹿にはできませんが。


 まあ、そういうごろつき連中は柄が悪くて威勢だけはいいですがいざ矢が飛んできたりして危ないと思えばさっさと逃げ出してしまう当てにならない連中でもあります。


 最もこの時代の兵数は誇張され過ぎていますので実際は十分の一、実質的な戦闘要員は更にその二分の一くらいだったりします。


 例えば有名な倶利伽羅峠の合戦について平家物語では平家軍10万義仲軍5万となっていますが

義仲軍については信濃と越後の人口を考えれば8千から1万がせいぜいでしかも、信濃の国や越後の国にも兵を残さねばならないことを考えればせいぜい5000といったところです。

平家についてもおそらく10000程度でしょう。


 そしてこの頃の合戦の正式な手順は結構儀式のようになっています。


 まず一方がもう一方の館などの居住地に軍使を派遣して

合戦場所と時刻指定など、合戦の段取りを書いた書状を送ります。

いわゆる宣戦布告というものですね。


 合戦の定められた日時になったら陣取った両軍から使者が出て、牒という開戦を告げる書面をお互いに取り交わします。

その後使者はゆっくりと自軍の方へ戻るのですが、後ろから攻撃されかねないので肝の太い勇者が選ばれ、使者は敵に背を向けながらも堂々と戻りました。

もっとも使者を殺すということはあまりなかったようですが。


 次に言葉戦いが始まります。これは、領地の代表者が出て自らを名乗り祖先からの武勲や味方の正当性、相手方の不義をあげることです


「やぁやぁ、音にこそ聞け、近くば寄って目にも見よ。

 我こそは、○○(先祖の名前)の血を引く

 ○○国○○(家名)の○(長男、次男など)、○○(名前)なりぃ。」などですね。


まあ、たいした身分のない豪族同士の戦いなどではけっこう省かれますが。


 そして矢合わせをおこないます

大きな矢尻と笛のついた鏑矢かぶらや(射るとヒョウ、と音のする二又の矢)を射ち合い、

全軍で「ウワーッ」というトキの声を上げのです。

明らかに兵力に差がある場合はこの時点で兵数の少ない方の敗走が起こることも多かったようです。

何せ本当にやる気があるのはごく一部なのですから


ここまでは戦前の厳粛な『儀式』です。


そして実際に戦闘に入りますと


1.お互いに離れた場所で人間大の楯を並べその陰に隠れながら

  お互い矢を射かけあう「楯突戦たてつきいくさ

  この時のお互いの距離はおおよそ50mほど。


2.家長などの騎馬武者が楯から出て、お互いに相手に向かって

  馬を馳せかけながら矢を射る「馳射戦はせしゃいくさ

  この時のお互いの距離はおおよ10mほど。

  

3.矢が尽きたら馬上で打ち物(刀剣)を撃ち合ったり組み合ったりする「馳組戦はせくみいくさ

  もしくは馬を馬にぶつけて相手を落馬させる「馬当うまあて


4.落馬したばあい徒歩での「組討ち」。


5.どこかの段階で総大将を討ち取るか、全軍を敗走させれば勝利確定。


 要するに最初は弓の打ち合いをしてある程度たったら腕の立つものが適当に突っ込んであとは乱戦です、隊列を組んで陣形に従って前進だの後退だのは基本的にありません。


 そしてゲームのようにどっちかの兵士がが全滅するまで戦うなどということはよほどの事が無い限り無かったのです。


 結局戦闘の勝敗は、強靱で威力がある弓を用いた正確な弓射を行えるかと雑兵がどれほど士気しきを持続できるかにかかっているわけです。

最初の楯突戦であっさり決着がつく場合もありましたし組討ちに及ぶまで終わらないこともしばしばでした。

それだけ大鎧の防御力は高かったのです。


 しかし戦う以前から兵力差がありそれでも正面から戦おうとしたばあいは雑兵が戦場から逃亡したり武将がその場で裏切るようなことも多くありました。


 燧城ひうちじょう合戦や富士川の戦いなどがその例ですね。

……まだ起こってませんけど。


 なお自分の姓名、素性、先祖の功績などを叫ぶ「名乗り」は、戦闘開始の直前や最中、または敵を討ち取った後に行うこともあります。

これは誰が功績を上げたか周りに周知させるためです。


 もちろん、このような取り決めをそもそも守らず、「奇襲」「夜討ち」「不意打ち」などのルール違反をして、勝利を手にすることもたびたびありました。


 さて、いまさらですが平安時代という名である現在が実は北斗の拳も真っ青な世紀末な無法状態だったりします。


 まず国家的な裁判所や江戸の奉行所のような犯罪を犯した人間を裁いたりする司法や警察的な機関が実質的に存在していないということ。

弾正台だんじょうだい刑部省ぎょうぶしょうはすでに有名無実化しており検非違使けびいしはせいぜい京の都の内部の治安維持を行うのが精一杯でした。

しかも規模の大きい盗賊段に対しては返り討ちにあうこともよくあったのです。


 ですのでそれ以外の地域では富農が自警のための私兵をもって自衛に当たるのが当然であり物を盗まれたり誰かが殺されたり犯されたりしてもそれを逮捕する公的な機関の人間もいなければ領土や水源のいさかいが起きても両者の意見のを聞いて判断を下す奉行所のようなところもなかったのでそういったことの解決はすべて武力ということになるのです。


 少し時代が下った鎌倉時代の巻物 音読・男衾三郎絵詞では


弓矢取る物の

家よく作りては、何かはせん。庭草引くな、俄事のあらん時、乗飼にせんずるぞ。

馬庭の末に生首絶やすな、切り懸けよ。

此の門外通らん乞食・修行者めらは、益ある物ぞ、蟇目鏑にて、駆け立て追物射にせよ。

若者共、政澄、武勇の家に生まれたれば、其の道を嗜むべし。

月花に心を清まして、哥を詠み、管絃を習ひては、何のせんかあらん。

軍の陣に向かひて、箏を弾き、笛を吹くべきか。

この家の中にあらんものどもは、女・女童に至るまで、習ふべくは、

この身嗜め、荒馬従へ、馳け引きして、大矢・強弓好むべし。


つまり


武士たらんものは家を作ったら庭草を刈らずに馬に食わせろ。

庭に生首をつねに絶やさぬようにせよ。

門の外を通る乞食や修行者は弓の鍛錬のいい的としてあつかえ。

月や花の美しさを和歌に歌ったり笛や琴にあらわすことに何の意味があるのだ。

敵軍の陣に向かって琴を弾いたり笛を吹いたりしても無意味だ。

この家に生まれたものは女であっても馬術や弓術を好んで鍛えるべきだ。


 とあるのです。

どれだけ力こそすべてな時代かわかっていただけたでしょうか。


 それを考えれば弓の腕や組討の腕を磨くのは確かに必要なことです。


ですが…私は口を開き義仲様の問いに答えました


「古来より戦の勝敗は引き連れる兵の数の数とその志気の高さ

 および武器防具の性能に負うところが大きかったと聞きます。

 ならばまず土地を富まし兵を多く率いることが可能にすることが必要かと思います。

 そして可能ならば戦わずに傘下に収めることができればそれに越したことはありません。」


「そのために土地の開墾をさらに進め、そして税率をよそよりも

 少し下げるようにしたほうがよいかと思われます。」


私の言葉に義仲様が首を傾げます。


「なぜだ?」


それに対して私は言葉を続けます


「そもそも税の取立てが厳しすぎ逃げ出す民が続出するところと、

 税の取立てがゆるく居残る民が多いところではどちらが

 安定していると思いますでしょうか。」


義仲様が得心がいった、というようにうなずきました


「ふむ、それは当然後者だな。」


さらに私は言葉を続けます


「税も払えずに飢えるようでは民は逃げます。

 耕すものがいない田畑からは年貢が取れません。

 逆に作物が余れば彼らもよい武具を入手できるかもしれません。

 私たちの国の民が多くの米を多く持っていると知れば略奪を考えるものも増えるでしょう。

 そういったものは返り討ちにした上で使えそうなものは配下とし

 使えないものは殺すべきかと。

 また、自衛のための装備を整えるためにも、刀剣工や具足師ぐそくし

 製鉄を行う大鍛冶おおかじ、包丁や農具、漁具、山林刃物などを手がける

 野鍛冶のかじ農鍛冶のうかじ

 などを領内に呼び寄せることができれば兵の強化や開墾などの手助けになるかと。」


「なるほど、かといって税に関しては俺たちの直轄領以外では難しいだろう。」


その言葉には二人の兄もうなずきます。


それに対して私は答えました


「まずはそれでかまわないかと思います。

 また万葉の世において製鉄・養蚕・染色・機織・酒造・製薬・土木・灌漑・寺社建築などを行った

 秦氏はたうじの力を借りることができればそういったことが容易になるかもしれません。

 伊勢神宮や東大寺の大仏などの巨大な建物の建造および八幡神宮や稲荷神社、平安京などを

 作り上げたのは秦氏ですから。」


 義仲様が不思議そうに聞き返しました。


「秦氏ってのはいったい何者だ?。」


 私は答えます。


「当時の唐の国からやってきたといわれています。

 平家がやっているように西の大陸と交易が可能でしたらよかったのですが

 信濃の国は内陸ですし船は専門の知識が必要ですので当面は難しいかと思われますが。」


 そしてふと思いだしました。


 そういえば広幡って秦氏じゃないですか。八幡と関係する。


 感心したように義仲様は言います


「なるほど、しかし巴はいろいろ知っているな。」


 義仲様の言葉に二人の兄もうなずきました。


「漢文の手習いでいろいろ教わりましたので。」


 にこりとほほえみながら私はそう答えました。

 半分は本当で半分はうそです。

 私自身が秦氏の子孫だったのでたまたま知っていただけです。


「あと現在京の鞍馬山に義朝の九男である遮那王しゃなおうが預けられているはずです。

 彼にもし寺を出奔し身を寄せるべきところがないのであれば

 中原を頼るように伝えるのもよいかもしれません。

 寺の坊主というのはなかなかに戦に詳しいゆえ遮那王を配下にできれば

 戦の役に立つ可能がございます。」


 後の九郎判官義経といえばこの時代の日本の歴史が好きなら

しらぬ人はいないというほど有名な武将です。


「ふーむ…。」


 これについてはみなあまり納得が言っていないような顔です。

何しろ義仲様の父上の仇が彼の兄なのですから、しかたのないことではあります。


「まあ、いいだろう。別に損になるようなことはないだろうしな。

 で、鞍馬寺には誰にいってもらうつもりだ?。」


「戸隠大助様のお弟子にお願いするのがよいかと。」


「なるほど、山伏なら歩いていてもおかしくないし

 あの先生の弟子なら失敗することもないだろうな。」


「はい私もそうおもいます。」


「では先生に頼んでみるとしよう。」


 義仲様はそういって


「まとめれば弓や組討の腕を磨きつつ、田畑の開墾を進め、税の徴収を少し緩めればよいのか?。

 そのあと鍛冶職人や秦氏とやらを呼び寄せればよいと。」


「は、それで問題ないかと。秦氏についてはこの前の人買い商人が

 おそらくそうかと思いますので、あの方に文を送ってみたいと思います。」


そして私は言葉を続けます。


「今現在は平家の基盤は磐石です。あまり目立つことをすれば

 兵を差し向けてくるかもしれませんが

 宮廷内の権力争いやら貴族との争いやら寺社との争いに忙しく

 兵を動かすことはあまりないようです。

 しかし、時が流れれば状況も変わるかと思われます。

 そのときまでに力を蓄え財を蓄え兵を蓄えいつでも

 行動できるようにするのがよろしいかと思います。」


うなずいた義仲様が私い再び聞いてきました。


「よし、ところで税率はいくらぐらいにすればいいと思う?」


私は少し考えた後


「四公六民程度がよろしいかと。

 周りは五公五民程度であると思われますので。」


 義仲様はうなずき


「うむ、ではそのように告知するとしよう。」


「ではわれわれも。」


二人の兄もそう答えてくれたのでした。


「よろしくお願いいたします。」


 そういって私は頭を下げたのでした。

そして義仲様は言ったのでした。


「今後木曽谷の俺の直轄の土地については巴。

 お前に任せる。うまくやってくれ。」


 私は頭を下げたまま。


「は、かしこまりました。」


とその言葉を受けたのです。


 将来的には軍の中核になる鍛えぬいた専業兵士というのもほしいところなのですが今はまだ頭の中の計画だけですね。

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