仁安2年(1167年)かくれ城
仁安2年(1167年)、平清盛は太政大臣となりました。
天皇家の皇子と摂関家及び源氏初めての太政大臣源雅実以外の人間が太政大臣になるのは奈良時代の怪僧道鏡以来のことでありこのころの平家の権力のほどが伺えます。
そして清盛の昇進に伴って平氏一門も皆昇進し平家全体の栄華栄達も目覚しいものがありました。
しかし、太政大臣になってたった3ヶ月で重病になった清盛は出家します。
清盛は5月10日、重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨を下しました。
この時上皇によって東宮が即位して高倉天皇となります。
その後清盛の状態は回復していきました。
平氏一門は京の六波羅一帯に邸を連ねていました。
そしてその財力の源はおもに西国にある荘園の所有と宋との貿易にありました。
平家は筑前・筑後・豊前・肥後・薩摩・壱岐・豊後・長門・周防などの九州、中国地方と播磨を押さえ宋の国との貿易により多大な財を成しました。
平清盛が権力を極めるにつれ、平氏一門の専横な行いが目につくようになります。
地方の武家は、武家の庇護者とは言えなくなった平家にたいして距離を置くようになり天皇家の継承に口を挟んだことで後白河法皇との間も悪くなっていきます。
こうした中、清盛は娘の徳子を高倉天皇の女御(後の中宮)とします。
これで一層摂関家を中心とした貴族の反感を買うことになるのです。
貴族化していく平氏一門に対し、新興勢力の在地武士は平氏から離れる気持ちはありますが、他に武家の権威としての庇護が可能な大きな勢力がないため、表面的には平氏にとりあえず従属していました。
また、このころ法皇の側近達は常に延暦寺・興福寺等の寺院と紛争を起こしていました。
寺社の神官・僧や荘園の武家を剃髪させた僧兵たちは、仏罰・神罰や武力を振りかざして、朝廷に対し自らの要求を通そうとしました、興福寺は春日大社の神木(春日神木)、延暦寺は日吉大社の神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出たのです。
強訴の理由は寺社の荘園を国司が侵害したり他の寺社との競合に有利にしたりするためでした。
朝廷は、これらの強訴を押さえるため、平氏の武力を利用しました。
これは、武士が、仏罰や神威を恐れなかったためと朝廷がすでに独自の武力を持てぬ状態にあったからです。
つまりこの頃は朝廷や摂関家などの貴族と寺社勢力と平氏の間で三つ巴の権力争いが行われていたのです。
白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」
という言葉を残しているのですが、毎年のように反乱する川、禁止令を出しても効果がない賭け事
そして言うことを聞かない寺社勢力に対しての愚痴だったと言われています。
この年諏訪下社の大祝金刺盛澄様の舎弟である手塚光盛様が朝日が峰の地に諏訪大明神の奥社を作りかくれ城として武技、兵法など修練の場をしつらえてくださいました。
さすがに諏訪の経済力はすごいです。
この頃私たちはかくれ城で兵法を学んだり組内の稽古をしたり相変わらず山野を駆けまわったり、川で釣りをしたり鹿狩を行いながら弓の腕を磨いたりして己を鍛えつつ田畑を耕すのを時折手伝っていたりしました。
まあ取り立てて大きく変わったことは起こらなかったと言っていいでしょう。