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仁安元年(1166年)義仲元服

 時は流れて、仁安元年(1166年)春。


 私は10歳になりました。


 六条天皇の即位により改元年号が改元されます。


 この年、平清盛は武家として初めての内大臣に任命されました。


 駒王丸は元服して木曾冠者次郎義仲きそかんじゃじろうよしなかを名乗ることになります。


 義仲の名は父に恥じずと父義賢と我が父中原仲三中原兼遠の恩を忘れずと選んだ名前です。


 元服はもともと中国古代の儀礼に倣った男子成人の儀式で、「元」とは(こうべ)つまり頭、「服」とは(かんむり)の意とされ、要するに頭に冠をかぶり、出仕して仕事を行える準備ができたことを示すわけです。


 すなわち子供の服装から大人の服装に着替え、髪の毛を結い上げ冠をかぶることによってやっと社会的に一人前の扱いを受けるようになるのです。


 相撲の力士が十両以上に昇進したら髷をゆえるようになったり、ブレザーからリクルートスーツに着替えると社会人みたいな感じですね。


 とはいえ頭に冠をかぶるのはとってもえらいお公家さんたちなどの貴族階級だけで、下級貴族以下では冠の代わりに烏帽子(えぼし)になりますが。


 元服の儀は源氏の氏神である八幡神社で執り行われます。


 前髪を落とし氏神の社前で大人の服に改め、総角(角髪(みずら))と呼ばれる子供の髪型を改めて大人の髪である冠下の髻かんむりしたのもとどりを結い、私の父が勤める烏帽子親により烏帽子をつけた駒王丸もとい義仲様はなんだかとても大人びて見えました。


「義仲様、元服おめでとうございます」


「おいおい、なんだよ巴。

 ずいぶんと硬いな」


「そうはいってもこの時代天皇家の血を引く源氏の義仲さまと私たちでは身分に大きな差があるのです。

 このようにするのが正しいこととでしょう」


「まあ、公の場はともかく普段はそんな堅苦しくなくていいぞ。

 息が詰まる」


「わかりました。

 そのようにいたします」


 そして義仲様の姿を見たあと


「なるほど、馬子にも衣装ですね。

 いつもよりずっとかっこよく見えます」


「よせ、照れる」


 笑いながらそういう義仲様はやはり駒王丸のときと変わりませんでした。


 そして無事に儀も終わり私たちは八幡様に武運長久を祈りました。


「八幡大菩薩よ、どうか俺に平家にも他の誰にも負けぬ加護を」


 義仲様の表情も声も真剣そのものです。


「「「…」」」」


 一緒に次郎兄様、四郎兄様、五郎そして私も神仏にお祈りをします。


(神様どうか私たちをお守りください)


 そして義仲様が


「そしてわれら4人共に生きともに死す事を願わん」


 その言葉に私はよく読んでいた三国志演義の桃園の誓いを思い出します。


「同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同じ館にて育ったわれらは、同年、同月、同日に死せん事を願わん。

 八幡大菩薩よ、実にこの心を鑑みよ」


 私がそういうと4人が声を重ねるのでした。


「「「同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん」」」


 そして私たちは顔を見合わせて笑うのでした。


 もっとも三国志においては劉備、関羽、張飛の3人はそれぞれ違う場所で死ぬことになるのですが。


 元服を済ました義仲様は中原の家を出て、新しく協力勢力の土地に建てられたお屋敷に移り住むことになります。


 貴族の館に似た寝殿造りと呼ばれる屋敷がたくさんありその間を廊下でつないで行き来するつくりです。


 ただし、警備のものの詰め所や武具を保管する場所、面会所があったり、塀の周りを水濠が囲っていたり家のあちこちに段差があったりします。


 これは敵対勢力の襲撃に備えるためです。


 そしてありがたいことにこのお屋敷の敷地に温泉があるのです。


 どんな季節でも温められたお湯に入れるというのはこの時代ではとてもすばらしいことです。


 風呂の水を替えなくても新しい水が常に補給されるのは本当にすばらしいことです。


 平安時代では湯船に水を張って大量のお湯をたくのはほぼ不可能でしたので温泉のような特別な例を除けば蒸し風呂が普通でした。


 現代でいうところのスチームサウナです、これならば大量のお湯を入れ替えたりわかしたり殺菌消毒したりせずに済みますしそれなりの大きさの設備があれば多くの人が入ることができました。


 ただし、貴族は陰陽道や仏教の迷信を信じていたため、あまり風呂に入っていませんでした。


 何しろ内裏への出仕、要するに仕事場へ行くのすらすら縁起悪い日だと物忌みと称して行かなかったくらいですから。


 ちなみに物忌はずる休みの言い訳にも使われました。


 そんなわけでお風呂に関しても縁起が良いとされる日でなければ入らなかったのです。


 そんな理由でお風呂にほとんど入ることがない貴族たちは、結果として非常に体臭が強く、不潔であったと言われています。


 貴族の死因に結核や脚気とともに皮膚病が多かったのもこれが原因です。


 さてさてそのお屋敷に便女としてつかわされたのは、西信濃の木曽松本地方の有料豪族である中原氏の木曽屋敷は私。


 南信濃の伊那諏訪地方の伊那屋敷は諏訪大社下宮の宮司である金刺盛澄(かなさしのもりずみ)様の娘である胡蝶。


 東信濃の佐久上田地方の上田屋敷は大豪族、滋野行親(しげのゆきちか)様の娘であり、私たちの組討訓練仲間でもある根井六郎親忠ねいのろくろちかただうの姉でもある山吹。


 北信濃の長野善光寺地方の善光寺屋敷は栗田寺別当大法師範覚くりたでらべっとうだいほうしはんかくの娘である葵。


 つまり信濃の国の東西南北の有力者のそれぞれの娘たちということになります。


 実質的に主人である義仲様が不在のときに屋敷の管理を行うのは私たち便女ということになります。


 そして、義仲様は今日はこちら明日はあちらというように、その日によってあちこちの屋敷に通うことになるのです。


 ちなみにこの中で経済力が高いのが諏訪と善光寺です。


 なにせこの時代の寺社といえば貴族に並ぶ荘園の持ち主だったのですから。


 また領土の統治行政の手腕に優れるのが滋野氏、最強の武力を誇るのが私たち中原氏ということになります。


 そして元服のしばらくの後私は父に相談をいたしました。


「父上の伝手を頼り、義仲様に官位をいただくことはできませぬでしょうか?」


 父はふむと考えた後


「出来ぬ事はないと思うが、中原の伝手を頼るより、源三位頼政(げんさんみよりまさ)殿か、八条院暲子内親王はちじょういんあきこないしんのう様にお力を借りたほうが早いだろうな。

 頼政様は義仲殿の兄上である仲家殿を養子にしていらっしゃる。」


「なるほど、ありがとうございます。

 朝貢品としては何が良いでしょうか?」


「頼政殿であれば軍馬や武具、八条院様であれば絹の反物や香のたぐいが良いと思うがな。」


「分かりました、至急木曽よりそれを集めさせます。」


 後に倶利伽羅峠で平家の軍を打ち破ったあとに、入京したさい軍の統制が取れなかったのは義仲様が無位無官の無名のものであったからです。


 しかし、これは致命的なことでした。


 義仲様とともに入京した北陸や近畿の源氏が好き放題平安京で略奪した挙句、西国の平氏の討伐に向かう間に法皇や頼朝の軍に寝返った結果、兵を集めることもできず粟津の戦いで討たれることになったのです。


 ちなみに当時に同行していた源行家は八条院の六位蔵人でしたし、頼朝は官位を剥奪されているとはいえ従五位右兵衛権佐を官位を持っていたのです。


 結局この官位の関係もあり入京時に朝議の結果、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位になるわけですが、これに対して義仲様も行家も不満を持ったのは間違いありません。


 それを考えると官位があるかないかで朝廷や諸豪族の扱いは大きく変わるはずです。


 私は最上級の駿馬2頭と最上級の絹の反物を選び、父にそれを預けました。


「どうかよろしくお願いします」


「うむ、最善を尽くす、待っていてくれ。」


 父に朝貢品を預けるとあとは私は待つだけです。


 裳着もすんでおらず女である私にできることは残念ながらそう多くはありません。


 しばらくすると耳ざとい勾引人(かどわかしにん)、要するに奴隷商人がやってきて、下人をいらないかといってきたのでした。


 下人とは要するに金で売られたり、自らを売った人たちです。


 この時代税が払えなくなった子供が親から売りに出されたり、本人自身を売ったり、誘拐されたり、旅人がだまされたりなど、さまざまな方法で下人にされました。


 彼らはさまざまな雑事、家事全般、農耕、などに使われ、そして戦のときには主人とともに戦場に駆りだされました。


 そして田畑などの土地、家屋、牛馬などの家畜と同様に譲与、売買、質入れの対象とされました。


 ただし、下人は所有するものであってもそこまでひどい扱いはされませんでした。


 何せ高価で大切な財産ですから。


 ちなみに有名な『安寿と厨子王(山椒大夫)』の物語は、この時代です。


「農地の耕作、戦向けなら男ですが男は少し高くなります。

 その他家内の雑用であれば女で十分。

 無論夜用の見目のよいものであれば男女ともにお代は高く高くなりますが」


 その言葉を聴いて義仲様が聞いてきます


「こういってるがどうする?」


 私は少し考えた後


「人手は必要ですし、伝を得るという意味でもここは何名か引き受けたほうがよいかと思います」


 と答えました。


「いやいや、奥方は頭のよいお方ですな!」


(奥方、奥方だってえへへへー)


 その言葉に私は気分をよくすると


「で一人頭いくらぐらいなのですか?」


 と聞きました。


 商人は


「男が5貫文、女子供が3貫文、夜用の男女で7貫文といったところですな」


 砂金1両(約20グラム)は東国の民間ではほぼ使われなくなっている銅銭で、1貫文(銅銭1000枚)これをものに置き換えると白米4石(4000合)(玄米5石)=絹一反(約30センチかける約10メートル)といったところ。


 ちなみに一両がおおよそ10万円というところです。


 ちなみにこの時代には大判小判のような金で出来た貨幣はありません。


 要するに男が50万、女が30万、夜用で70万ですね。


 高いといえば高いので人がいないなら隣村を襲って奪えばいいじゃないかという気持ちになるのもわからないでもありません。


 しかし、無理にさらってきてあまり反抗的な人間が増えてもそのあとどうなるのか考えれば必ずしもいい案とは思えませんね。


 その前に信濃はほぼ皆身内や味方ですし、美濃は平家の知行国です。


「うーん、妥当なところですね…」


 因みに現在の信濃の石高が全部でおおよそ15万石です。


 義仲様が少し考えた後


「なら男10人、女子供5人でいいんじゃないか。

 別に夜伽の相手にゃ困ってない」


 そういうのです。


 それに対して私は


「できれば見目のよいものも5人買っていただけたほうがよいかと思います」


「ん、何でだ?」


「酒宴の席にはべらす、傀儡師として間諜に赴いてもらうなど、情報を得るのに外見のよいものは非常に役に立ちます。

 無論目立たない外見のものも役に立ちますが」


「そういうことか、巴が夜にはべらせるのかと思ったぞ」


 いやいやそれなんて逆ハーですか。


 私にもそんな趣味は無いですよ。


「まさか、私は義仲様一筋でございますよ」


 だいぶ心外ですが冗談だというような義仲様の笑い顔に私も笑ったのでした。


「代価は馬でいいか?」


「はい、それでよろしいかと」


「ほほう、信濃の馬であれば二貫五百文と扱わせていただきましょう」


 馬場より40頭の馬を引き連れてくると商人に馬を代価として渡し下人たちを屋敷の中に入れたのでした。


 木曽路は馬の名産地なので馬の数はそれほど困るものではありません。


 そして木曽の馬は質の高さでも知られています。


「そういえばあなたの名前は?」


 と私は人売り商人に聞いてみます。


「はい、私は若狭屋の広幡善治(ひろはたぜんじ)と申します」


 彼はそうにこやかに答えたのです。


 ん…広幡?


 なにかひっかるものがあるのですが思い出せません


「わかりました普段はどちらに?」


「もともとは堺に住んでおりましたが今は京の都の三条通に店を構えております」


 都の通りは人があふれておりますからな」


 京の都であればいくらでも下人を買うことができるということでしょうか。


 黒服とかカラスと呼ばれている芸能人やAVやキャバクラ、風俗のスカウトが、駅前をうろちょろしていた昔をちょっと思い出しました。


「ご用立てがあればぜひ私にお申し付けくださいませ。

 塩、海草、魚貝の干物、油、酒などの食用品 備前、安綱などの刀や具足、金銀銅水銀などの金属。

 その他針、櫛、櫛箱、鏡、念珠、紙、筆、硯、楽器、織物、陶器、鍋、釜、もちろん人であっても相応の対価さえいただければご用意して見せましょう」


 どこのマッコイ爺さんですか……。


 まあ、海の無い信濃で塩や海草を継続的に入手できるのはありがたいことですね。


「わかりました、できれば月に一度来ていただけると助かります。

 ぜひ、よろしくお願いいたします」


「では今後ともごひいきに」


 そういって彼は去っていきました。


 そして私は買い取った下人を見渡すと


「皆さん今日は食事を取って体を休めてください。

 お仕事は明日からです」


 そういって下人たちの住む別邸へ彼らを案内したのでした。


 そして父が働きかけてくれたおかげで義仲様は正七位下相当である、左馬允大允(さまのたいじょう)を拝命できたのでした。


 もちろん七位と六位や五位では差がありますが、少なくとも官位を得たのは大きいはずです。


 そしてその二ヶ月ほどあと義仲様の正室となる甲斐源氏 武田信義(たけだのぶよし)様の娘である安寿姫さまが嫁いでこられました。


 どうやら父は縁談をうまくまとめてくれたようですね。


 さてこの方がどちらのお屋敷に逗留することになったのかというと最終的には山吹のいる上田屋敷になったのです。


 ちなみのこの時代一夫多妻が当たり前でした。


 男性は妻を何人めとっても良しとされていたわけです。


 理由としては多くの女性を養うことができることこそが、古代より続いている平安の社会ではステータスとなっていたということ。


 妻が一人だけだとその妻が石女(うまずめ)、要するに不妊であった場合血筋が絶えてしまうこと。


 出産は母体に大きな負担がかかるため、母子が死亡することが少なくなかったことなどの理由によります。


 とはいえ、基本的に北の方と呼ばれる正妻は一人だけしか持つことは許されていませんでしたので、それ以外の女性は、側室いわゆる「めかけ」という立場でした。


 正妻の条件としてはまずは何より家柄が重視されました。


 能力や容姿は二の次でこの時代は血筋が何よりも重要視されていたのです。


 この時代の結婚適齢期は10歳から13歳くらいで15歳を過ぎて結婚できない場合はいき遅れとなってしまうのでした。


 貴族の娘でもない限りそれほど心配することでもないのではありますが。


 ちなみに私は実質的に義仲様の妾のようなものなのでいき遅れじゃないですよ?

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