横田河原の後始末、小松家との同盟と北陸制圧
さて、横田河原の戦いで出羽国に逃れた城資長の息子城資盛を追い私達は南出羽(山形県)及び南陸奥の会津四郡に兵を進め、我々は城資盛を屈服させました。
会津四郡においては奥州藤原氏との話し合いにより会津は藤原氏の領域とし、出羽南部は木曽の配下となった城氏がそのまま諸豪族を収めることとなりました。
奥州藤原氏とはそのまま同盟交渉が行われ出羽北部(秋田県)と陸奥(青森県、岩手県、宮城県、福島県)を藤原氏の支配下と認め日本海側の湊を用いた海運路、北陸道、東山道、東海道など陸運路の利用をお互いに認めることによって交渉は成立しました。
太平洋側の海運路に関しては奥州藤原氏はあまり利用を考えていないようでした。
伊勢湾以西の太平洋や瀬戸内海にかけては平氏の支配下に有ったのであまり使えないというのも有ったですしょうし、遠州付近は海の難所でも有ったので藤原氏としてもあまり利用価値がなかったのでしょう。
後の三津七湊の内の七湊すなわち
三国湊 - 越前国坂井郡(福井県坂井市)、九頭竜川河口
本吉湊 - 加賀国石川郡・能美郡(石川県白山市)、手取川河口
輪島湊 - 能登国鳳至郡(石川県輪島市)、河原田川河口
岩瀬湊 - 越中国上新川郡(富山県富山市)、神通川河口
今町湊 - 越後国中頸城郡(新潟県上越市)、関川河口
土崎湊 - 出羽国秋田郡(秋田県秋田市)、雄物川河口
十三湊 - 陸奥国(津軽、青森県五所川原市)、岩木川河口
これらを利用できるようになったことにより我々は日本海での交易や輸送は一層捗るようになったのです。
蝦夷地との貿易も本格的に開始され、アイヌからは干した鮭や鱈などの魚やホタテなどの貝、昆布などの海藻、熊やアザラシなどの断熱性に優れた毛皮、こちらからは鉄鍋などの鉄器や漆器、米、酒などの食料などとを交換したのです。
更に、佐渡の鉱山を手に入れたことによりそこより採掘される金銀は木曽の新たな財源となったのでしたが、その他にも越後、甲斐、常陸、武蔵西部、下野、上野、遠江、駿河などの鉱山を開発し金・銀・銅・水銀・亜鉛・蛍石・錫・鉛・石灰・石炭などを掘り出し財源を強化したのです。
一方越後の国では草水の採掘のための油井が掘られ、原油の採掘も進められていました。
取れた原油は分留され燃えないアスファルトとその他の灯油・ナフサ・軽油・重油などとにわけられ、アスファルトは船の接着剤兼防腐剤として頻繁に利用されたのです。
一方燃える油の方は硫黄化合物を脱硫する技術がない現在ではあまり利用する機会がなかったのですがく、灯油は、灯油にひたした灯芯に火をともす「灯台」に用いられました。
灯台は、「火皿」と呼ばれる器に油を注いで、「灯芯」をひたし、灯芯が油を吸って、油が気化するところへ火をつけて照明器具として用いたのです。
灯芯の素材はイグサ科のイ(和名・灯心草)の髄を取り出したものを芯として使っています。
灯台自体は飛鳥時代にはすでに使われており、「牛糞灯台」と呼ばれる支える台が牛の糞に似ていることから名付けられた灯台は位の高い平安貴族が使っていました。
もうひとつの照明としてはろうそくも奈良時代に日本に伝来していましたが、ろうそくは油のあかりよりも高価貴重な物なので寺社など以外では用いられていません。
一方、私は義仲様の許可を得て越前の重盛の元を訪れていました。
「お久しぶりでございます、重盛殿、惟盛殿」
越前の重盛の屋敷には当主である重盛やその子供である維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実、重実、家人である平貞能、伊藤忠清、富士川の敗戦のあと維盛に従った忠度、知度などがいました。
それに加え白髪の老人もいました、おそらく義仲様を木曽に運ぶのに関わった斎藤実盛でありましょうか。
重盛は以前に有ったときよりも元気に見えます。
「うむ、久しぶりだな巴よ。
まさか木曽がここまで勢力を伸ばすとは思っても見なかったがね」
「平氏の専横を心苦しく思っていたものがそれだけ多かったということでございましょう」
私の言葉に重盛は苦笑いしました。
「まあ、今更ながらそうだったと認めざるをえないな」
私は真剣な表情で言葉を続けました。
「今や平家は宗盛を宗主としておりますが、私達木曽は重盛殿の小松家を本家として支えたいと考えております。
ついては維盛殿の娘であります夜叉御前を義仲様の嫡男である義高様に正妻として迎えさせていただければと思うのですがいかがでしょうか?」
重盛はしばし考えたようです。
「ふむ、巴殿は我らが小松家は宗盛率いる平家本家と争うとみたか?」
私は頷きました。
「嫡男とみなされていた重盛殿が宗盛殿の下となれば彼は煙たがって小松家のものを優先して最前線に送り込みましょう。
富士川のときの維盛殿のように」
私の話を聞いて維盛はムスッとしています。
重盛は言葉を続けました
「そうであろうな、我が一門は、宗盛により使い潰されることになろう。
しかし、もし我々が宗盛たちとあらそうとして、あくまでも我が小松家は木曽と対等な同盟者と言うことであるか?」
私は頷きます。
「はい、小松家に木曽に下れと申し上げているのではございません。
あくまでも縁を結び同盟者として支援させて頂くのでございます」
重盛は頷きました。
「うむ、分かったその方の提案を飲もう。
婚姻の儀は祝日を持って執り行うとしよう。
今後は親類としてよろしく頼むぞ」
私は頭を下げました。
「は、ありがとうございます。
我が父兼遠や義仲様も喜ばれるでありましょう」
その言葉を聞いて白髪の老武者が進み出てきました。
「重盛殿、その際の付添にはこの斎藤実盛におまかせいただきたく思います」
重盛は実盛の言葉にうなずきました。
「ふむ、そなたは幼き頃の義仲を助けたことがあったのだな。
うむ、わかった、信濃への付き添いはそなたの一党で行うが良い」
実盛は重盛に平伏しました。
「はっ、ありがとうございます」
そして平家小松家の姫、夜叉御前は6月吉日を持って信濃へ嫁いでこられたのでした。
私たちはさらに越中、加賀、能登、越前、そして若狭の豪族たちに所領安堵の四箇条を説いて周り、従ったものには所領安堵を行い、従わなかったものは討って、その合戦において功績が有ったものにその所領を与えました。
これにより北陸の豪族も関東甲信越などのように、正式に木曽の配下に加わったのです。
「北陸の豪族や機内の源氏が上洛後に勝手に動き統率が取れなかったのが義仲様の評価を下げた原因の一つでしたからね。
なるべく原因は取り除いていきましょう」
史実では木曽は旗揚げが遅すぎたので、関東に精力を伸ばせず、頼朝の軍勢により信濃を荒らされ、北陸を完全に平定する間もなく上洛を急ぎすぎました。
その結果木曽の軍は中国地方東部まで勢力を伸ばしたにも関わらず、滅亡したのです。
そのような未来にならぬように慎重に行動を進めてまいりましょう。