Ⅰ
黒い闇が徐々に空を浸食していく。その様子を僕は旅館の前に立って見つめていた。
僕と秋は旅館にたどり着いた。もし秋が気絶していたら、今頃魔物の餌食となっていただろう。それほどに魔物の攻撃は執拗だった。
僕らが旅館の敷地内に入ると、結菜ちゃんが走って迎えに来た。
「二人とも無事で良かったぁ」
今にも泣き出しそうな声で彼女は話す。僕は努めて明るく答える。
「何とか帰ってこれたよ。無事って言えるかは分からないけど」
旅館の玄関先には、何人か僕たちと探索に出ていた人がいた。どうやら、あの状況から逃げ出せたらしい。僕は少なからず安堵する。
それから程なくして、僕たちに気づいた女中さん達が僕たちの所へ駆け寄ってきた。疲労困憊の秋を彼女達に預ける。彼女達は僕にも休むように言ってくれたが断った。今は眠れる気分じゃない。
「あの悠さんは……」
結菜ちゃんが恐る恐る聞いてきた。
「悠は僕らを逃がすために、残ったんだ。だから、帰ってくるとしたら僕たちより遅くなる」
「そう……ですか」
不安いっぱいの顔で彼女は俯く。
「大丈夫さ。悠は帰ってくる。悠はこんなことで死にはしないよ」
そんな何の根拠も無い言葉に、結菜ちゃんは深く頷く。
「私もそう信じます」
「じゃあ、旅館に入ろう。僕はお腹が空いたよ」
そこで結菜ちゃんの顔がぱっと明るくなる。
「今日は私もご飯を手伝ったんです! 頑張りました! 是非、快斗さんに食べていただきたいです!」
彼女は僕に笑顔を向ける。
この瞬間が二日前まで当たり前だった日常の一ページなら、どれだけ幸せだったろう。今は、心の底から笑う事など、到底できそうもなかった。
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ご飯を口に入れる。だが、食欲はわかなかった。しかし、食べなければ体力が衰える。そう思い必死にかきいれた。
結菜ちゃんは終始、僕に話しかけてくれた。彼女なりに僕を元気づけようとしてくれていたのだろう。だけど、申し訳ないが愛想笑いしかできなかった。
考えてみれば、彼女にひどい事言ったきりだった事を思い出す。彼女は僕の突き放した態度すら無かったかのように振る舞っていた。何もかもが申し訳なくなってくる。
僕は彼女に謝った。でも彼女は「何のことです?」と首を傾げるだけだった。
食事を終えると、時刻は夜の八時を過ぎていた。旅館に帰ってきたのは僕と秋を含め六人だけだった。出発したときに比べ半数の人数だった。
彼らに鮫島さんの事を聞くと、みんな自分たちが逃げることで精一杯でよく分からなかったという。唯一、誰かが担いで逃げていたのを見たと証言している人がいた。その人が逃げ切ってくれていると信じたい。
「お前が気にする必要はないわい」
秋のおじいちゃんが言った。
「鮫島の倅が判断を下したんじゃ。坊主が責任を感じる事は全くない」
おじいちゃんは元気そうに言う。すっかり体調が回復したらしい。おじいちゃんの様子を見て秋は少しだけ元気を取り戻していた。
「社にはおばあちゃん達がいたわ」
秋が確認した限りでは、四人が中に閉じこめられていたらしい。彼女たちは幻天狗のせいで、外に出ようにも出れない状況だったそうだ。幸い社の中は安全地帯に設定されているらしく、中にいる限りは魔物に襲われる事はないそうだ。だが、食料がない状況は問題だと、おじいちゃんは外へ飛び出したそうだ。
「よく幻天狗から逃げれましたね」
僕は言った。
「社の中にこんな物があってのぉ」
そう言って、取り出したのは小さい人形だった。触れると『まやかしの人形』と名前が出た。
「これを装備していれば、あの天狗に見つからずに済むらしいんじゃ。しっかし、他の魔物には何の効果もなくてのぉ。おかげで死にかけたわい」
おじいさんは死ぬかもしれない体験を、ほがらかに笑い飛ばした。
そこで結菜ちゃんが会話に入る。
「それは何個か無かったんですか?」
「それが一個しかなくてなぁ。あったら、娘っこ達にも持たせてて、一緒に外へ逃げとるよ」
確かにこのアイテムが複数あれば、彼女たちは当然逃げていただろう。しかも、話によればこの人形は消費系のアイテムで、使ってから一時間しか効力がないという。
それから、おじいさんの明るさに当てられて、始めは楽しく会話をしていたが、しばらくすると自然と室内は静かになった。
おじいちゃんや結菜ちゃんはそれでも場を盛り上げようと話しかける。だが、話題は長続きしない。僕や秋は生返事で返すだけだった。室内の空気は重かった。
そんな中、僕はずっと考えていた。今日の悲劇は何故起こってしまったのかと。
繰り返し考えていると一つの答えが出てくる。慢心。それが大きな原因だろう。
僕は心のどこかで、自分達は死なないと思っていた。それは鮫島さんという強力なプレイヤーがいたことに加え、全員が『ZO』経験者だったことが理由かもしれない。きっと、安心していたのは僕だけでは無かっただろう。みんながそう思っていたのかもしれない。
結果、緊張感が欠落した。油断しきっていた。そしてそれを『RWO』につけ込まれた。この醜悪なゲームはどこまでも理不尽だと、危険極まりないと、強く理解しておく必要があった。
結局、僕は誰も救えずにいる。誰一人として助けられずにいる。僕はまだ、卑怯なままだ。
「明日の朝までにみんなが帰ってこなかったら」
僕は沈黙を破るように呟いた。
みんな一斉に僕を見る。
「僕は彼らを助けに行く」
その言葉が部屋中に響く。
「そうですね! 助けに行きましょう!」
と結菜ちゃん。
「おう、さすが坊主。男だのぉ!」
とおじいちゃん。
だが秋だけは俯いたまま、何も反応を返さない。
「きっと、夜だから下手に動かないで、どっかに隠れてるんです!」
「そうだのぉ。倅は賢いやつじゃ。きっとみんなをまとめて、どこかで待機してるはずじゃ」
「そうですね! 鮫島さんは強いですから! 明日はみんなで迎えに行きましょう! きっと悠さんも合流してます!」
「そうと決まれば、わしも頑張るぞい。まだまだ若い奴らには負けてられん!」
おじいさんと結菜ちゃんは終始明るく話す。悠達が死んだと、それを認めないために必死に明るく振る舞っているように感じた。
そしてその時、秋が立ち上がった。
「あんたら、どんだけ脳天気なの!」
大声で秋が叫んだ。結菜ちゃんがびくっと体を震わせる。
「秋さん?」
すると、秋は鋭い眼孔で結菜ちゃんを睨んだ。その目には涙が溜まっていた。
「あんたらは分かんないのよ。あの場に居なかったから。あんな規格外の化け物と戦って、逃げれる訳がない。もし逃げれても暗闇の中で、そこらの魔物に襲われたら一溜まりもないの!」
「でも……秋さんと悠さんは夜通し、快斗さんを探していたんですよね? それなら」
そこで、結菜ちゃんの言葉を遮るように秋が叫ぶ。
「そうよ! 村の人が魔物に追われているのを無視して、自分たちの安全だけ考えてね! 他人を囮にして、私たちは逃げ続けたの!」
あらん限りの感情が言葉とともに吐き出される。
「他人を犠牲にしないと、逃げ出せない。それが今の現実なの! そんな危険な状況で悠が生きてる訳ない! もうここにたどり着いてない人は、みんなどこかで死んでる!」
彼女はそこでわっと泣き始める。部屋中に彼女の声だけが響く。だが、僕はそれを切り裂くように言葉を紡ぐ。
「僕はそれでも行くよ」
「あんた、何言ってるの?」
怒りをはらんだ言葉を、秋は僕に言い放った。それに怯むことなく僕は続ける。
「鮫島さんや悠が生きてる保証はない。彼らを救うことは絶望的なのは分かっている。それでも、おばあさん達が捕らわれてる以上、あそこに行かない選択肢は僕にない」
「あの化け物はどう対処するつもり?」
「それは僕にも分からない。今からそれを考える」
「あんたね!」
秋はその言葉とともに僕に掴みかかった。
「やめて下さい!」
「落ち着くんじゃ!」
結菜ちゃんとおじいさんが秋を引き離そうとする。
「何にもできない癖に! 行ったら無駄死にするだけよ!」
「それでもいい。このまま彼らを救えないなら、助けに行って死んだ方がましだ」
「馬鹿なんじゃない!」
そこで、秋が僕を思い切りひっぱたいた。僕の頬が赤く腫れる。
「あんたはね! 自分が潔癖でないと気が済まないだけなの! 誰かを救えない自分がどうしようもなく許せないだけで、他人の事を大切にしてる訳じゃないの! あんた自分が死んだらいったいどれだけの人が悲しむと思う? どれだけ困ると思ってる?」
彼女の言葉が僕の心深くに突き刺さる。僕が死んだ後の事。それは今まで、まるで考えもしなかった。僕の呆然とした表情を見て、彼女は涙に荒れた顔で蔑むように見る。
「思った通り。あんたは結局、他人の事を考えてないのよ。自分が汚れてしまう事に抵抗があるだけなの! そうじゃなかったら、自分が居なくなった時の事まで考えが及ぶはずよ!」
秋はそこで、僕の服を掴む力を緩めた。結菜ちゃんとおじいさんに抱えられるように、僕から引き離される。
「あんたが居なくなったら……」
消え入るように彼女が呟く。それから自分の腕をきつく抱いて、激しく涙を流しながら口を開く。
「あたし、耐えられない。もう、誰かが居なくなるなんて耐えられないの。お願いだから、ここから出ていくなんて言わないで……」
その言葉を最後に秋は泣き崩れ、それから結菜ちゃんに連れられ自室に帰って行った。
それからしばらく彼女の言葉に打ちのめされ、僕はそこから動くことができなかった。




