Ⅵ
地面を埋め尽く落ち葉を蹴り、歪んだ木々の合間を走り抜ける。視界の端に的のアイコンが明滅しているのを確認しつつ、僕たちはひたすら逃げる。だが、必死に駆けながら、僕は自分が逃げている事に対し拒否感を抱いていた。
今の行動があの状況下では最善だった。そうは思う。事実、幻天狗を僕たちが引きつけている以上は他の人間に被害は及ばない。
けれど、本当に何かできなかったのだろうか。そう疑ってしまう。
いや、そもそも真に彼らの事を思って行動しているとはいえない。少なからず保身のために行動している。僕は、あの窪地の中で身を潜めている時から何ら変わってなどいない。
『うまいこと、俺たちに狙いを付けてくれたみたいだ』
息を切らせつつ、悠が思考を伝えてくる。思考の伝達は口が塞がっていても、関係なく意志疎通ができる。戦闘中や運動時などでは、重宝する方法だ。
悠の言葉に対し秋が返す。
『このまま付いてきてくれると、いいけど』
『一度、ターゲットを定めたら、変わることはないはずだけどな。けど、幻天狗の設定されてる行動範囲より俺たちが外に出たら、奴は俺たちを追ってこないだろう』
昨日の事を思い出す。僕は複数の子鬼に付きまとわれ、走って逃げていた。しかし、森を出た先まで、子鬼は追って来なかった。
もし範囲外に出てしまえば幻天狗は標的を見失い社へと戻るだろう。それは避けたい。範囲がいったいどこなのか知る必要がある。
『ねえ』
唐突に秋が立ち止まった。僕と悠は振り返る。
『どうした?』
彼女は僕たちに訴える。
『ここであいつを迎え撃たない? そうすれば、もう少し時間稼ぎができると思うんだけど』
僕は彼女を直視して、言葉を返す。
『ダメ……なんだ。残念だけど今の僕たちじゃ勝ち目がない。返り討ちにされるだけだ』
その台詞に僕自身が驚く。自分の感情とは正反対の言葉が自然とこぼれていた。
よく分かっていた。あの化け物の恐ろしさも強さも。
相手が紅鬼だったら食い下がったかもしれない。子鬼の群だったら立ち向かったかもしれない。でも、あの天狗は別格だった。絶望的なまでに違う戦闘力。命を賭しても奴の足下におよびもしないと理性で理解してしまう。
そのあまりにも大きい隔たりがあったからこそ、僕は逃げた。逃げる以外の策を思いつけなかった。
僕に合わせて悠が発する。
『残念だが快斗の言うとおりだ。俺たちは何もできない。できるのは、逃げることだけだ』
『そうだよね……』
秋はか細い思考を発し、意気消沈したまま歩み始める。
『行こう』
『うん』
僕は秋が付いてきている事を確認して、走り始める。
『意外だったよ』
悠が僕だけに思考を伝えてきた。
『お前は一番に戻ると言い始めそうだからな』
『戻りたいよ。戻りたいさ。でも、戻っても何もできない。それは分かるから』
『そうだな。今は彼らが自分たちで逃げてくれる事を信じるしかない』
悠が確かな意志を僕に伝えたその時……
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!」
秋の悲鳴が響いた。
振り向くと、翼を広げ枯れ葉を舞い上げながら、黒い魔物が降り立った。
幻天狗のそばに秋が倒れている。奴は追撃をかけようと、剣が宙を舞う。
悠が弾かれたように飛び出る。金属同士が衝突し火花が散る。悠は秋と天狗の間に割り込むように身体を入れた。
僕はその隙に秋を抱き起こす。
HPが半分まで減っていた。一時的な痛みで痺れている。秋は僕の肩を貸りて何とか立ち上がった。
急ぎ、幻天狗から遠ざかる。快斗は僕たちが離れた事を確認した後、剣を引いて、天狗の力を後方にいなす。奴はバランスを崩し前のめりになる。悠はそのままサイドステップで天狗との距離をとり、身構える。
『快斗、秋を連れて逃げろ。俺がこいつを引きつける』
悠は僕に思考を伝える。
『このままじゃ、三人とも死ぬ。ばらばらに逃げたほうがいい』
『でも、それじゃあ悠は』
『俺の心配いらない! こいつの行動パターンは読めてきたところだ。逃げるだけならなんとかなる』
悠の眼孔が僕を射抜く。お前に秋を預けたと、そう言ってるような気がした。
そこで、力なく秋が訴える。
『ダメよ。そんなの。死んじゃうよ』
隣の秋を見る。意識はあるが一度に大きなダメージを受けたせいで、足下が覚束ない。秋が走れるまで回復するのを待っていては、幻天狗に殺されるかもしれない。
「何してる! 早く行け!」
悠が叫ぶ。
「分かった。絶対に生きて帰ってきてね」
「ああ。当たり前だ!」
悠は天狗に向かって駆けだした。
僕も秋に肩を貸し、悠に背を向け走り出す。
秋が少しばかり抵抗する。
『何で悠を置いてくの。引き返して』
僕に思考をぶつけてくる。だが、本人の身体は僕の力にもあらがえないほど弱っていた。僕は無理矢理、彼女を連れて逃げる。
今の僕に幻天狗を倒せる妙案も作戦も無い。悠に加勢して、幻天狗を倒せる技量も無い。だから、僕にできる選択はこれがベストだ。
それに、悠との付き合いは長い。だからこそ分かる。悠は素直な男だ。できない事は言わない。彼は僕たちのために犠牲になろうなんて、これっぽちも思っていない。
悠は絶対に帰ってくる。僕は彼を信用している。
「快斗……」
秋が僕を見て呟いた。
「どうしたの」
僕は荒い声で呟いた。
「なんでもない」
僕の様子を見た秋は、それから一度も引き返すとは言わなかった。
僕の表情は悔しさで歪んでいた。




