Ⅰ
デジタルは味気ない。僕は常にそれを感じていた。
幼少期、本に囲まれて育ったためか、紙の質感や古本の独特の臭いが、本を表す要素だと思っていた。
だが、今や本にその要素は無い。本は中身の情報のみを抽出され、電子媒体へと置き換えられた。ページをめくる感触は液晶をタッチする感覚へと代わり、棚に並んでいた書籍はパソコンのディレクトリの中で整列するようになった。
時代の流れが本の重要とされる部分だけを残し、それ以外を取り去ってしまったのだ。
自分がアナログ過ぎると分かってはいるものの、どうしても寂しさを覚えずにはいられなかった。本は中身が全てでは無いと、声を大にして叫ばずにはいられなかった。
そんな、些細ではあるが無視できない不満を自分が抱いている事に気付いたあたりで、脳内に音声が再生された。
『快斗、ぼーっとしてっと。また、湯沢にいちゃもんつけられるぞ』
顔を上げると、未だ湯沢先生は睡眠を助長するような声で授業を続けていた。
僕は発信者の方に目を向ける。
友人の日下部悠が笑顔でこちらを見ていた。僕はすかさず思考を送る。
『ありがとう』
頭の中で浮かべた言葉は、そのまま悠に伝わる。
「日下部。ここ、解いて見ろ」
湯沢先生は電子黒版を叩きながら、悠を名指しした。
「えりゃっ」
奇声を発しながら、悠は反射的に立ち上がる。周囲が軽くざわめいた。
間が悪いとはこのことだろう。ちょうど僕とのやりとりをしていたため、悠は肝心な部分を聞いていない。
「ふざけてないで、早くしろ」
「えっと、すみません。もう一回、質問いいっすか?」
「お前……また聞いてなかったのか?」
その後は、予想通りの展開だった。悠はことごとく答えを外し、授業の終わりまで湯沢先生の説教を聞くはめになった。
僕は悠に『ごめん』と謝った。
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「あのハゲ、ぐちぐちしつこいんだよ」
学食で悠は大声で文句を発した。その声は周囲の喧騒にかき消され、僕ら以外には聞こえていないだろう。
そんないつも通りの愚痴に対し、隣に座る女子――十六夜秋はいつも通り指摘する。
「悠が少しでも授業の内容を理解してたら、湯沢先生もあそこまでしつこく言わなかったでしょ」
「おいおい、俺が悪いってのかい」
「そうは言ってないけど。もうちょっと、勉強しといた方がいいんじゃない?」
「俺は運動一筋なんだ。勉強なんか、してる、暇は、無い」
悠は断固拒否の意図を体全体で示す。悠のリアクションは相変わらず過剰だ。
「まったく……。ちょっと快斗も何か言ってやってよ。この分からず屋に」
静かに話の流れを見守っていたが、案の定、秋は僕に話を振ってきた。
僕は悠を擁護する。
「――今回は僕に非があるから、悠を攻めれないよ。それに、勉強より重要な事があるなら、今はそっち優先でいいんじゃないかな? 期末が近い訳でもないし」
「さすが快斗。心の友は言うことが違うぜ」
「もう。快斗はこいつを甘やかしすぎ。あとで絶対、困って泣きつくわよ」
「いやぁ、みなさんには感謝してますよ?」
悠は頭をかきながら、笑ってすませようとする。
「ったく。調子いいんだから」
秋は呆れたと言わんばかりに頬杖をつく。
そんな二人のやりとりを眺めながら、僕はしみじみ幸せを感じていた。
いつも通りの風景、いつも通りのやりとり。
何の変化もない、刺激も何もない日常だ。けれども、僕はそんな今を何よりも尊く思っていた。
気の知れた友人と同じ時間を過ごし、たわいもない事で笑いあえる日々。これほどの幸せがあるだろうか。こんな幸せがあって、それ以上に何を望むのだろうか。
そんな、些細な幸せを享受している最中、頬に軽い痛みを感じ我に返った。
気付くと二人が僕の方をじっと見ている。
「ふぇ、どおひたの?」
頬をつねられているせいか、正確に発音できない。
「快斗、また呆けてたわよ」
秋が僕の頬から手を放す。
「しかも、にやにやして。端から見たらあぶねぇ奴だぞ」
「あはは」
「笑ってとぼけてもダメ。その癖、早く直した方がいいよ」
「そんなに?」
「そんなに」
隣で悠も、深く頷いている。
そんなひどい顔をしていたのだろうか。いつもの事だが、指摘されると不安になる。
「分かった。頑張って直すよう心がけるよ」
「その言葉、何回聞いたことか」
「まったく」
その後、また取り留めのない話題で盛り上がりながら、三人は授業が始まるまで楽しい時間を過ごした。
いつものように、僕は心の中で、穏やかなこの時間に感謝した。