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嘔吐のsたlぎあ

作者: はじ



 指先に少しだけ力をこめながら、公園の出入り口の近く、そこにある立水洗の手裏剣型のカランを反時計回りにひねる。すると、象の鼻のような蛇口から褐色じみた水が流れ出てくる。その色が透明になるまでしばらく時間を置いてから、ぼくは泥団子を捏ねて汚れた手を洗う。

 透明な水を出す蛇口の色は銀色とはまた違う、いうなれば鏡色ともいえる不思議な色合い。周りに付着している塩のようなクレンザーの跡が曇った鏡のようにその不思議さを助長させているような気がする。

 そう思いながら指の間、手の平、爪の隙間を入念に洗ってから一旦水を止め、怒った象のように蛇口を上向きにして再度カランを回す。

 蛇口から放たれる水の束。

 それは虹のような曲線を描いて地面へと繋がっていく。

 放水を受ける地面はえくぼのように窪んでいき、そこからあふれた水が広がって土色の水たまりをつくり出す。びちゃびちゃと音を立てながら細かな飛沫が上がり、剥き出しの膝小僧を冷やす。その冷気の心地よさに目を細めると、辺りに散る水滴を渡るようにして、小さな七色がいくつか架かって見えた。

 ぼくは、その水の珠を繋ぐ幾重もの架け橋を見ながら、世界が平和になればいいのに、とか、途方もないものを漠然と思ってみる。

 でもそれは、地球のどこかの乾燥地帯の貧困や、教理の解釈をめぐって銃弾の雨が降る世界の問題が綺麗さっぱり解消されることを願ったのではなくて、どこか遠くの争いの種によって、ぼくの平和が乱されてしまうことが嫌だから、そう思っただけだと思う。

 中腰になったぼくは、吸い付くような勢いで蛇口から絶えることなくあふれ出てくる水をがぶがぶ飲む。がぶがぶ。舌の上を薄っすら鉄の味がする温い水が流れ、砂漠のようだった口内を潤しながら喉を通り過ぎていく。渇きが癒えてもぼくは水に食らいつくのを止めない。立水栓からとめどなく出てくる水を一滴でも多く体内に取り込もうと、とにかく喉を動かし続け、続け、続けて内側から押されるような張りをお腹に感じてから、ようやく水から口を離す。

 口のなかには少しだけ鉄の味が残っているけど不愉快なほどじゃない。どちらかというと好ましいくらいの後味。でも、後わずかでも鉄分の濃度が高かったら、ぼくは目一杯まで溜めた胃のなかの水をすべて吐き出しただろう。どうしてこんな不味いものを満腹になるまで飲んだのだろうと、涙ながらに後悔しながら滝のように吐瀉し、足元に広がった土色の水たまりを大きくしただろう。

 なんとなく思い描いてみたその空想と同じように、口のなかに残っていた絶妙な鉄味も唾液と混じってやがて薄れ消えていく。ぼくは曲げていた腰を伸ばして直立し、手の甲で口をぐいっと拭う。ぐいっ。唇のふちに滴っていた水は引き伸ばされながら手の甲に移動し、そこに生えている繊細な産毛に分散されてしばらくまとわりついていたけど、いつの間にか蒸発して消えていた。それはまるで幼い日の思い出のようだと思った。

 ぼくは溜まった水を確かめるようにして服の上からお腹を一度擦る。いつもよりも膨らんでいるように思えるこの肌の下にある満腹感を転がすようにして二度擦り、先ほどからずっと立水栓のそばで蚊のように唸っている自動販売機を見やる。

 果物のジュースや炭酸飲料など一〇数種類のラインナップが面を揃えて陳列されている。そのなかに素知らぬ顔で紛れているミネラルウォーターを見付け、ただの水ならどこでも飲めるというのに、わざわざお金を払ってまで飲む人がいるのだろうかと疑問に思い、思っていると、爪先に気味の悪い冷気を感じてゆっくりと足元を見下ろした。

 黒い運動靴の先端が土色の水たまりに浸り、夜明け前の暗闇のように色を深くしていた。

 一歩退いて水たまりから靴を救出したぼくは、水不足の国に住む子どもは、ぼくの靴が浸っていたこの泥水を嬉し泣きしながら啜るのだろうか、骨ばった両方の手の平で水を組み上げて太陽のように笑いながら薄汚い水に口を付けるのだろうか、と、どこかの乾燥地帯へと想いを回らせ、回らせて、ぼくが彼らのようにこの泥水を飲む想像をして、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いそうになる。もしそんな惨めなことをするくらいなら、ぼくはミイラのように乾燥して死ぬことを選ぶだろう。

 泥団子のように形作られたこの決意は、ぼくの成長とともに強固な石柱と化すのだろうか? 土色の水たまりに映る濁った青空を見ながら、まだ目覚めていない頭脳の部分でそう告げたぼくがいる。そのぼくは、長い時間をかけて頭蓋骨の隙間から抜け出してぼくから遊離し、蜃気楼のような不確かな形状となって自動販売機の前に現れる。

 顔は蝋で覆われたかのように血の気がなく、そこにある二つの眼球は剥製の眼窩に収められたビー玉と同じように無感情、口周りの皮膚に薄っすらと生した胡麻のようなヒゲは、乾燥地の土壌からかろうじて芽を出した枯草のように萎びている。

 その枯草の原っぱに酒気を帯びた吐息が掛かる。それは無理を押して飲んだ、味も分からず飲み干した日本酒の無念の残り香、つまみにしたフライドポテトや唐揚げの油臭さ、刺身の生臭さもそこはかとなく漂っている。

 まとわり付く臭気を払うように祝砲とは言い難いゲップが飛び出す。体調は頗る、血液に鉛を注入されたかのように、悪い。あの地震のときのように地面が揺れて見え、見えている。気分が悪い。悪いのはぼくではなく気分だ。サナギのなかで圧死した苦虫の体液のような味が口内に広がり眉をしかめる。この干ばつの大地ともいえる眉間のしわを和らげるには、湧き水と同じくらい純粋な潤いが必要だ。

 ぼくはポケットをまさぐって小銭を探し出し、それを自動販売機に押し込むようにして入れる。しばらく悩んだ末、押しボタンに点灯した赤丸を親指の腹で塞ぐようにして、ミネラルウォーターを買う。

 強引にひり出された子馬のように落下してきたペットボトルを手に取り、キャップを取って口のなかに流し込む。混じり気を感じさせない、これこそが水だと主張せんばかりの液体が口内の不快感を払拭し、酩酊もろとも喉奥へと洗い流していく。

 それでもぼくは、歯茎に挟まっていた繊維質な切れ端が綺麗に洗い流されてもぼくは水を飲み続け、飲み干した途端、溜めこんだその分量だけ排出したくなる。


 なにもかも吐き出して、

  楽になりたくなって、

 ぼくはその場にうずくまりながら、

  なにもかも吐き出そうとする。


 独立した生き物のように伸縮する胃袋から熱の塊が遡ってくる。それは火傷のような痛みを伴いながら食道を上り、喉元で酸味と諦観に分かれる。前者は鼻腔へ、後者は口腔へと流れていき、それぞれの道をたどりながら体外へと向かっていく。

 薄黄色の液体と揚げ物の残骸、デザートに食べた白玉らしき物体が混じり合って地面に落下する。常夜灯のうら寂しい光に照らしだされたその物体が、つい先ほどまで自分の体内にあったものとはとても思えない。鼻の奥が炎症を起こしたかのようにじくじく痛み、息をするのも気だるくなり、ぼくはまるで一本の導管になったかのように成り行き任せに嘔吐する。

 泥の塊のような吐瀉物が続々と出てくる。その度に身体が楽になるような気がすると同時に、なにか大事なものを手放しているかのような虚脱感が全身に重く伸し掛かる。それは魂とか心とか、そんな胡散臭い言葉でなぞることのできるものではないように思えたが、それがなにか分からなくて、その答えを自らの体内から掻き出すようにしてぼくは、


 吐く。

  吐く。

   吐く。


 堆積した嘔吐物に投げかけられた常夜灯の明かりは、そのなかにある不純さを、さらに奥にある身勝手さを暴き立てるようにして見せ付けてくる。その効力は絶大で、ぼくはさらに吐き気を催され、


 吐く。

  吐く。

   吐いて、

    ちょっと、

        泣く。


 まるで採血のあとのように自分が空っぽになっていることが、なんとなく分かる。もしそれが偽りのないことならば、このぐちゃぐちゃになった食べ物の塊がぼくなのだろうか、と思ってみる余裕ぐらいは出てきている。

 しかし、胃袋はまだ物足りないようで次々と熱いものを吐出する。内側からぼくを殺そうと企んでいる病魔のように、体内に火を放ちながら異臭とともに現れ、地面に垂れては夜の寒さに触れて少し身体を震わせている。その姿はまるで産み落とされたばかりのひ弱な子どものようで、ぼくはなんとかしてそれに手を貸してやりたいと思うだけ思ってみたりする。

 自らの嘔吐物に対してそんな感情を抱く。その思いが実ったのか、深夜の公園では、ぼくの吐瀉物の落下音とえずきが夜行性の動物のように活発に這いずり回っている。でもぼくは、音だけを発し決して目に見えないその気配に怯え、見て見ぬふりをするように嘔吐する。出産中の母親の気分もこんなものだったのだろうかと不意に思いながら。耐え難い痛みを寄越す他人を生み出す行為も、このような恐怖を抱くものなのだろうか? そう、思いながら。

 そんなことをぐるぐると考えている間に、胃袋は大分落ち着きを取り戻す。

 ぼくは斬首を待つ罪人のように俯けていた顔を上げ、夜の暗さがのさばる公園に目を凝らす。ぼくの嘔吐が終わった今、そこには果てがないほどの静けさが帳となって薄霧のように漲っている。

 そして、視界の悪いそのなかに棒立ちの人影のようなものを見つけたぼくは、今までの醜態をずっと見られていたのかと思って恥ずかしくなる。何とかして弁明を試みようと混迷した意識で人影のもとへと向ったが、歩み寄って間近で見たその人影は、人影なんかじゃなくて、地面から突き出た立水洗だった。

 見間違いにも限度があると苦笑を浮かべ、はじめからこの立水栓に用があったかのように震える手でカランを反時計回りにひねる。そうすることでまるで時間が巻き戻ったかのように、幼い日の出来事が蘇る。

 あの日つくっていた泥団子。粒子の細かい砂場の砂と木陰の湿った土でつくった疑似食物。誰のためというわけではない。しいて言うならば誰でもない誰かの、ぼくが知ることのできない人のための泥団子。ぼくはそれを口にすることはないけれど、本当はそれを上げたかったのだ。テレビの先にいる水も満足に飲めない誰かさんに、ぼくはそれを上げたかったのだ。

 唐突に蘇った懐かしい思い出。その瞬間の延長線に現在があることを示すかのように、蛇口から飛び出した水は虹の束になって地面へと繋がっていく。

 ぼくが止めない限り、いつまでもいつまでも、少しだけ鉄の味がするこの水はあふれ続ける。もしこのまま放置しておけば、ちょっとした池になるかもしれない。池になり湖になり海になり、大海原になるかもしれない。

 そしてその大海は、ぼくが吐き出した泥団子とともに地球のどこかにある乾燥地帯へとたどり着き、そこにいる骸骨のような子どものもとまで届く。子どもは喜んでそれを飲み、一緒に運ばれてきたかつてのぼくが捏ね上げた嘔吐物を食べる。大人たちも同様に、ぼくが差し出したどろどろの物体を喜んで口にする。数日振りに得た潤いと栄養によって息を吹き返した彼らは、長年の抑圧をその一瞬で解き放つかのように水面を跳ね回り、鉄のように黒い魚影となって果てのない大海を自由に遊泳する。どこも目指さず、どこも目指さずに海を渡っていく黒い群れは、通りかかった漁船によって一網打尽にされる。一まとめにされた魚たちは氷水に浸されて港に運ばれ、黄色い人たちに囲まれながら値踏みされてトラックに乗せられる。元住んでいた地域とは真反対の凍える世界で緩やかに死にゆく彼らが思うものは、柳刃包丁で1センチの厚さに切り分けられ、長皿に並べられて、注文した客の前に運ばれていく。その切り身を食べて口内でアルコールと混ぜ合わせ、ほろ酔いになりながらどうしようもない理想とそれと相対する分別への嫌悪を吐き出すように口にするぼくは、自らの言葉に陶酔し、それだけが真実であり正解であると疑わずに酒を飲む、飲み、飲んで、飲んだ。

 昨晩の飲み会のことを思い返しているうちに夜空の月に星たちが寄り集まって太陽に成り変わりはじめ、早起きのスズメが本日の喉の調子を確かめるように小さく発声し出す。夜に冷やされた大気を震わせるその声によって覚醒を促されたかのように辺りがほの明るくなっていき、濃い夜陰に紛れて見えなかったブランコやジャングルジム、シーソー、砂場が、影から浮き出すようにして公園の敷地に現れる。

 時の経過とともに少しずつ存在感を高めていく遊具のことを今更のように認めるぼくは、夜には昼間にあるすべてのものを曖昧な幻想に変えてしてしまう力があるのではないかと思う。そしてもしそうならば、夜に生じたすべての物事は、虚飾で虚栄で虚偽な、嘘っぱちなんじゃないかって。

 そう思いこみたいぼくの横で立水栓は水を流し続けている。まるで先ほどまでのぼくの醜態を模倣するかのように、どぼどぼと水を吐き出し続けている。

 蛇口から出てくる水を見ていたぼくは、もう吐き出すものなんてなにもないはずなのに軽い吐き気を覚え、それを押し戻すために蛇口に口を近付けて貪るようにして水を飲む。

 僅かな鉄の味が焼け付いた体内を刃のように切り裂いて、酔いに唆されて下らない理想を口に出してしまった自らに果てのない、果てしない嫌悪感と後悔を抱かせる。

 胸に根付いた重い感情から目を背けるように、ぼくは無我夢中になって水を飲み続ける。時が経てばまたすべて吐き出してしまうことを知りながら、なにもかも飲み込もうとしている。




 調子に乗ってお酒を飲みすぎて嘔吐したときのやる瀬なさとか後悔とか、そんなことを思い出しながら書きました。


 感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。

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