赤ちゃん・電卓・お日様
今回は童話風にしてみました。ベタな展開ですが上手くまとまったかな……と。
よく晴れた寒い日のことでした。一人の母親が、赤ちゃんを抱いて畑のあぜ道を歩いていました。
「結局、今年も温かくならなかったわ……。私たちは神に見放されたのかしら」
畑の作物は汚れた灰色になって、そのほとんどが無残に枯れていました。
ここは、北の国。寒さの厳しいこの国で、育てることができる作物は限られていました。ここには米も麦もなく、人々は寒くても育つ草や芋を細々と食べて暮らすしかありませんでいした。
それでも、村人は一生懸命に作物を育て、ずっと長い間、この土地で暮らしていました。この村はこれ以上豊かになることはないだろうけれど、これ以上貧しくもならないだろう。
誰もが、そう思っていたのです。
ところが、去年の夏。普段なら少しは暖かくなるはずの夏が、ほとんどやってきませんでした。夏になれば昼も夜も太陽はでているのですが、その光はいつもの夏よりも弱々しく、ちっとも暖かくならなかったのです。秋になって、夏の温かさを得られなかった作物は、そのほとんどが枯れていました。その年の冬は、村が蓄えていた僅かばかりの食べ物を、全部食べつくしてしまいました。
今年こそは、温かくなってほしい。そんな村人たちの期待を裏切るように、今年の夏も、村は寒いままでした。
「ああ、今年こそ暖かくなってもらわないと困るのに。どうして? どうして太陽は、こんなにもか細い恵みしか、私たちに与えて下さらないの?」
母親は赤ちゃんを抱いたまま、太陽に向かって切なげに訴えました。
「この子が大きくなる頃には、村のみんなが飢え死にしているのかしら」
母親は、村の食べ物が尽きて一人また一人と飢え死にしていく様を想像し、首を振りました。
「そんなの嫌よ。私、まだ死にたくない。この子が立派になるのを見届けるまで、死ぬことはできないわ!」
母親は、自分たちの理不尽な運命に、涙を流して神様に訴えました。
「お願い神様、奇跡を起こして。その太陽をもっともっと、輝かせて! どうか暖かい光で村を照らして!」
その時。奇跡は起こりました。太陽が輝いている天高くから、ポトリと何かが母親の足元に落ちてきたのです。
母親は、訝しげな顔をして足元のものを拾いました。プラスチックでできた四角いそれは、幾つものボタンと小さな液晶の画面がついていました。
「これ、何……?」
母親が首を傾げたとき、ぽややんと音を立てて何かが現れました。
『私は天使、神様の使いです』
それは、絵に描いたような姿をした小さな天使でした。天使は、母親が手に持っているものを指して説明を始めました。
『それは、神様の電卓です。ボタンを押せば太陽の力を操ることができます』
「神様の、電卓……」
『ごらんなさい。今、上の画面に数字が書いてあるでしょう? これは太陽の力です。あなたがボタンを押して、数字を増やしたり減らしたりすれば、太陽の力はそれに応じて増えたり減ったりします」
母親は電卓というものを触ったことはありませんでしたが、算数は知っていました。だから、電卓の使い方も、なんとなくわかりました。
画面の数字は76、となっています。母親はためしに+1=と押してみました。画面の数字は77になりました。
「……何も起きないわ」
母親がそう呟いた時、太陽が少しだけ明るくなった気がしました。それまで寒かった風も、すこしだけ暖かくなった気がします。
「……すごい、これ、本当に太陽を操ることができるのね! すごい、すごいじゃない!」
『ヘルメスの楔、といいます。あなたは、これが欲しいですか?』
嬉しそうにはしゃぐ母親に、天使はにこやかな顔で訊きました。
「もちろんよ!」母親はすぐに答えました。「こんな素晴らしもの、もう絶対に手放さない」
『何が素晴らしいと、あなたは思いますか?』天使の質問に母親は「そんなの決まってるじゃない」と言いました。
「これ一つで、大勢の命が救えるのよ。これで不作はなくなって、飢えて苦しむ人もいなくなるわ」
『では、その中から一つだけ代償をいただきます』と天使は言いました。
「どういうこと?」母親が訊きます。「代償って何?」
『あなたは大勢の命を救う。だけど、一人ぶんだけ救える命が減ります』
「どういうこと? 命が減るって?」
『大丈夫、気にしないでください。あなたがその電卓を使わなければ、どのみち助からない命なのですから』
その後、電卓のおかげで、村は不作を免れました。翌年も、その翌年も、母親は電卓によって太陽を強くして、作物を育てました。
そのうち、母親はもっと太陽を強くして、これまで育てることができなかった麦や米を育てることができるようになりました。村はどんどん豊かになり、パンやお肉も食べることができるようになりました。
母親が神様の電卓を手に入れて、十数年が経ちました。息子はたくましく成長し、いよいよ成人の時を迎えました。
成人式は白夜の夜に行われました。母親は村のみんなを驚かせてやろうと、電卓を叩いて傾いた太陽の弱々しい光を、とても強くしました。太陽は真昼のように明るくなり、村人から喝采が湧きました。
と、その時。
ふと、太陽の明るさが元に戻りました。驚いた母親はもう一度電卓を叩きましたが、太陽の明るさは変わりません。あまりに強く叩きすぎたのでしょうか、そのうち電卓は真っ二つになって母親の足元に落ちました。
「どういうこと……?」
狼狽える母親と村人の前に、ふと小さな少年の影が現れました。
「……誰だ!?」
村人の問いに少年は静かに答えました。
「死神です。奇跡の終わりを告げに、やって参りました。それから――」
少年は、成人を迎えた母親の息子の前に静かに歩み寄りました。
「――代償の一人ぶんの命、いただきに参りました」
少年が『見えない何か』を振るいました。それと同時に、息子はぱたりと倒れ、それきり動かなくなりました。
「あなたたちは幸福です」
少年は、母親に向けて残酷に告げました。
「人一人の命で、これだけの幸福を手に入れることができたのだから」
言葉を失って立ち尽くす母親に背を向けて、少年は音もなく去りました。
贅沢に慣れてしまった村人全員が食べ物を食べつくして息絶えたのは、その翌年のことでした。
奇跡の代償を求められる、なんてあるあるですよね。