第三話 朝の光と、泥だらけのリデザイン
カチッ、カチッ……。
規則正しい時計の音と、どこか遠くで鳴く鶏の声で目が覚めた。
時計の針は、午前五時半を指している。
都会にいた頃なら、ようやく深夜残業から解放されて泥のような眠りにつくか、あるいは不規則な生活の果てに絶望的な気分で目を覚ます時間だ。
けれど、真綿の布団から這い出した美咲の身体は、驚くほど軽かった。
「お早う。よく眠れたかい」
居間へ向かうと、トメさんは既に割烹着姿で立ち働いていた。土間にある古い竈からは、薪が爆ぜるパチパチという心地よい音と、炊き立ての米の香ばしい匂いが漂っている。
「お早うございます。……すみません、お借りしたままで」
「いいんだよ、気にしなさんな。朝飯食ったら、あんたの『城』の片付けに行かなきゃならんだろ?」
食卓に並んだのは、昨夜の汁物の残りと、大根の漬物、そして艶やかな白米。
美咲は、その質素ながらも優しい朝食の香りを全身で受け止めながら、トメさんに気になっていたことを尋ねた。
「トメさん、昨日のおむすびに入っていた『蕎麦の芽』……あれ、凄く美味しかったです。どうしてあんなに香りと旨味が強いんですか?」
トメさんは、湯気の立つ茶碗を置き、少しだけ誇らしげに目を細めた。
「この村の蕎麦はね、源さんが、親の代からずっと種を絶やさずに守ってきた『在来種』ってやつさ。今の品種よりずっと粒が小さくてね。育てるのは手間だけど、香りと味の濃さだけはどこにも負けない。……でもね、今じゃ誰も見向きもしないよ。形が悪いだの、手間がかかって、効率が悪いだの言われて……市場じゃ二の次、三の次さ」
その言葉に、美咲の胸の奥で、デザイナーとしての本能に火が灯った。
価値があるのに、知られていない。
守りたいものがあるのに、届け方がわからない。
それは、まさに自分が都会で格闘してきた……課題そのものではないか。
「……源さんが、あの畑を『藪に戻る』って言った理由が、少しわかった気がします」
「あんな偏屈、放っておきな。さあ、食った食った!」
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朝食を終えた美咲は、トメさんにお礼を言い、借りたばかりの古民家へと向かった。
朝の光の下で見るその家は、昨夜の絶望的な暗闇とは、まるで違って見えた。
剥がれた瓦は、逆に言えば交換すればいいだけの話だ。背丈ほどある雑草も、刈り取ってしまえば、そこには肥えた土が眠っているはず。
ポジティブ思考になった美咲は、スーツケースから持ってきた中で一番古びたデニムとTシャツに着替えた。髪を一つに束ね、昨日土で汚れたパンプスではなく、購入したての長靴に履き替える。
まずは庭の草むしりからだ。
鎌を手に取り、無我夢中で草を刈る。
指先に伝わる茎の抵抗感。立ち上る青臭い匂い。
しばらくすると、手のひらにはマメができ始め、額からは大粒の汗が滴り落ちた。
モニターの前でマウスを動かしているだけでは決して得られない……体力勝負の労働という感触だった。
ふと、視線を感じて顔を上げると、畑の向こうで源さんが立っている。
彼は鍬を手に、泥だらけになって這いつくばる美咲を、相変わらず厳しい目で見つめていた。
「……おい、物好き」
源さんはぶっきらぼうに歩み寄ると、美咲の足元に、ゴロリと何かを転がした。
それは、大きなペットボトルに入った冷たい水と、古い新聞紙に包まれた何かだった。
「熱中症で死なれたら、後味が悪いからな。……あと、それはトメが持っていけと言ったやつだ」
源さんはそれだけ言うと、美咲が礼を言う暇もなく、さっさと自分の畑へ戻っていった。
新聞紙を広げると、中には昨日食べたあの『蕎麦の芽の薬味』が、ぎっしりと詰まった小さな瓶が入っていた。
美咲は、冷たい水を一口飲み、空を仰いだ。
一面の青空。そして、揺れる白い蕎麦の花。
(私は……異邦人のままで、終わるつもりはない)
……デザインとは、ただ綺麗な絵を描くことではない。
そこに眠る価値を掘り起こし、新しい名前を与えて、必要としている人へ届けることだ……。
土にまみれた長靴を見つめ、美咲は確信した。この白を、私がリデザインする!
その日の夜。
掃除を終え、ようやく電気が通った古民家。美咲は剥き出しの電球の下、都会から持ってきたノートパソコンを開いた。
キーボードを叩く指は、昼間の草むしりで少し震えている。画面上でロゴのラフを描き、トメさんの薬味をどう見せるべきか、キャッチコピーを書き綴るうちに、美咲の瞳にはかつてのデザイナーとしての鋭い光が戻っていた。
(いける。これなら、絶対に欲しがる人がいるはずだ)
翌日。美咲はトメさんに連れられ、村の小さな集会場へと向かった。
月に一度の寄り合い。そこには源さんをはじめ、村の年寄りたちが十数人、眉間に皺を寄せて座っていた。
「……で、そのデザイナーさんが、何の用だね」
村長の重苦しい声。美咲は緊張で乾いた喉からかすれた声を絞り出し、昨夜作り上げたばかりの企画書を広げた。
「この村の在来種の蕎麦、そして蕎麦の芽の薬味。これを、セットにして……新しい蕎麦ブランドとして売り出したいんです。私がロゴを作り、ネットや都会のセレクトショップに……」
「……ぶらんど?……ろご……それと何だって」
老人たちは、戸惑ったように隣の人と顔を見合わせたり、小声で囁いている。
そこに、
「……笑わせるな」
まるで冷や水を浴びせるような声がした。
……源さんだった。
彼は、美咲の企画書に目を向けることさえしないで、吐き捨てるように続けた。
「ネットだか、ブランドだか、知らねえが。わしらはただ、先祖代々の種を繋いでるだけだ。見ず知らずの他人のあんたに、わしらの生活を『飾り物』の見世物にされてたまるか。土をいじったこともねえようなあんたに、わしらの何がわかるんだ」
周囲の老人たちからも、頷きながら同調するような呟きが次々と漏れる。
「そうだ。横文字ばかり並べられても、ちっとも土の匂いがしてこん。今さら余計なことをして、静かな暮らしをかき乱されたくない」
「若いもんの考えることは、甘ちょろいな。夢見てるのか……どうも地に足がついておらん」
デザイン……それは美咲にとっての武器であり、誇りだった。
けれどこの村では、その言葉自体が、うさん臭い余計なものとして、高い壁に跳ね返されてしまった。
美咲の最初の一歩は、
土地に根を下ろすどころか、
その土の深さに抵抗され、
弾き飛ばされたようだった……。




