第二話 埃の洗礼と、トメさんの魔法
ギギギィ……ッ。
悲鳴のような音を立てて開いた玄関の引き戸から、数年分の重く湿った埃の匂いが溢れ出した。
「……っ、すごい」
美咲は思わず、持っていた鍵を握りしめたまま、口元を袖で覆った。
薄暗い土間に差し込む午後の光。
その筋の中で、無数の埃の粒子が、まるで深海のプランクトンのように緩慢なダンスを踊っているように見えた。
銀行口座にある数百万円の軍資金があれば、それなりの丁寧な暮らしへのチケットを手に入れたつもりでいた。
だが、目の前にあるのは……そんな都会的な甘い私の幻想を嘲笑うかのように、『拒絶』する風景だった。
土間に置かれたまま、土と錆が一体化した鍬。破れた障子の隙間から漏れ、灰色に濁った光。長い間、人の体温を忘れてしまった家の中は、外の陽気とは裏腹に、寒々しさに満ちている。
「……とにかく、まずは風を通さないと。埃っぽい、この匂い」
美咲は、都会のオフィスで履き古したパンプスを脱ぎ捨て、埃の積もった廊下を裸足で進んだ。木の感触が、足裏に固く冷たさが伝わる。
縁側の雨戸を力任せに開けようとしたが、山沿いの湿気で建付けが歪んだ戸は、巨大な岩のようにピクリとも動かない。
「……動いてよ、お願い」
奥歯を噛み締め、全身の体重をかけて引いてみる。だが、古い木材が噛み合う鈍い音が響くだけで、外の光は一向に広がらない。
……しん、としている。
叫んでも、誰もいない。
助けを呼んでも、
ビル風に消されることさえない。
ただ、自分の荒い呼吸と、
古びた家が軋む音だけが
世界を支配している……。
都会のマンションなら、管理会社に連絡するか、不便があればすぐにスマホで解決策を検索できた。けれどここでは、この動かない一枚の板にさえ、自分の無力さを突きつけられる。
気づけば、視界がじわりと滲んでいた。
私は一体、何を期待して、何を夢見てここに来たんだろう……。
極度の緊張と埃のせいで、喉が焼けるように渇いていた。
台所の蛇口を握り、力を込めて回す。しかし、配管の奥で『コトコト……』という乾いた音が響くだけで、水の一滴さえ落ちてはこなかった。
「……嘘でしょ、水まで……」
絶望が、氷水のように背筋を伝い落ちる。
その時だった……。
「おーい、大丈夫かー。それとも、あまりの汚さに腰抜かしたか?」
背後から、のんびりと呼びかける声が届いた。
振り返ると、そこには頭に白い手拭いを姉さん被りにし、使い古された風呂敷包みを大事そうに抱えた、小柄な老婦人が立っていた。
背筋こそ丸まっているが、その瞳は好奇心と、長年この厳しい土地で生きてきた者特有の活力でキラキラと輝いている。
「……あ、あの、どちら様……」
「隣のトメだ。源さんが、えらい小綺麗な娘っ子が入ってった、って騒いでたからよ。案じて見に来てやったんだ」
トメさん(80歳)は、美咲の震える手足と、開かない雨戸を見て、カカカと喉を鳴らして楽しそうに笑った。
「ほれ、これ食え。掃除の前に腹を膨らませねえと、この家の寒さに負けて、風邪引いちまうぞ」
トメさんが風呂敷から取り出したのは、まだ微かな温もりが残る、竹の皮に包まれたおむすびだった。
都会のコンビニで見かける正三角形のそれとは違う。トメさんの掌の形がそのまま写ったような、少し不格好で、ずっしりと重い握り飯だ。
「ありがとうございます。でも、今、そんな食欲が……」
「いいから、一口食ってみろ。うちの裏の畑で今朝採った……蕎麦の芽の薬味を入れてあるんだ。疲れには、こいつが一番効く」
美咲は促されるまま、埃を拭った手でおにぎりを口に運んだ。
その瞬間、脳内のスイッチが、パチンと切り替わった。
ふっくらと炊かれた米のほのかな甘み。そして、鼻を抜ける野性味溢れる香りと、ピリッとした山椒のような辛味。
液晶モニターの中で、いくら彩度を上げても表現できなかった……鮮烈な『味の色』が、自分の体の中に直接流れ込んでくる感じだ。
「……おいしい」
思わず、二口目を頬張った。
都会のデスクで、メールを返しながら機械的に飲み込んでいた食事とは、根底から何かが違う。不規則で、力強くて、どこか土の温もりがする『生命』の味だ。
「ははは! いい食いっぷりだ。よし、合格。あんた、根性はありそうだね」
トメさんは満足げに頷くと、腰に差していた手ぬぐいで美咲の鼻先についた米粒を、乱暴だが、母親のような温かさで拭った。
「水はな、裏の元栓が閉まってるだけだ。源さんのやつ、教えもしねえで意地悪しおって。……おーい、源さーん! 道具持ってきて、この戸を引いてやりな!」
トメさんの張り裂けんばかりの叫び声に呼応するように、遠くで「うるせえ! 忙しいんだ!」と源さんの怒鳴り声が返ってきた。
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「ほれ、水は出るようになった。だがな、電気は明日の午前中まで通らねえぞ。工事の奴らが山の下で手間取ってるらしい」
源さんは、使い古したペンチを腰袋に放り込み、忌々しそうに吐き捨てた。
「電気も……ですか」
美咲は、急速に落ちていく夕陽を、縁側から呆然と眺めた。
山あいの日は短い。刻一刻と、濃紫色の影が集落を飲み込もうとしている。この広くて、埃っぽくて、まだ自分の居場所だとは思えない屋敷で、灯りもなしに一晩を過ごす。その事実が、心を冷たい指でなでるように不安にさせた。
「……まあ、仕方ないですよね。懐中電灯もありますし、今日はここら辺りで寝ます」
強がって見せたが、声が微かに震えているのをトメさんは見逃さなかった。
「馬鹿を言いな。こんな冷え切った家で、独りぼっちで……布団もなしに寝てみろ。明日の朝にはカチコチの干物になっちまうよ」
トメさんはそう笑い飛ばすと、美咲の細い手首を、驚くほど力強く掴んで引っ張った。
「今日はうちにこい。源さんの小言を聞くより、うちで温かい汁物でも啜るほうが、よっぽど人間らしいよ」
「えっ、でも、そんな……申し訳ないです」
「いいからって! 独り者の婆さんのワガママにつきあっておくれよ。ほれ、行くよ」
有無を言わせぬトメさんの勢いに押され、美咲は必要最低限の荷物だけを軽自動車から引っ張り出すと、隣の家へと招かれた。
トメさんの家は、美咲が借りた家と同じように古民家だが、そこには確かな人の営みがあった。
台所からは出汁のいい匂いが漂い、居間には時代を感じさせる大きな電球が、温かなオレンジ色の光を放っている。
都会の蛍光灯の下では決して感じられなかった温もり……。
「はいよ、蕎麦がきの汁物だ。これ食って、温まりな」
差し出された椀からは、湯気と共に香ばしい蕎麦の香りが立ち上った。
美咲は畳に正座し、ゆっくりと汁を啜る。心に染み渡るような優しい味と温かさだった。
「……トメさん……」
「なんだい」
「私……本当に、あそこでやっていけるでしょうか。さっき、真っ暗になりそうな家を見て、少しだけ……後悔しちゃったんです。私、デザイナーなんて格好いいこと言ってたけど、結局、何にもできないんだなって……」
ポツリと漏らした本音に、トメさんは煮魚の身をほぐしながら、事もなげに言った。
「何言ってんだい。誰だって初めは異邦人なんだよ。あんたが言ってる『デザイン』ってのが何なのか、私にはさっぱりわからんけどね。でも、あんたのパンプスが泥だらけになった。それは、この村での一歩目をちゃんと歩いた証拠だよ」
トメさんの言葉は、不思議と、美咲の不安を包み込み、強く支えてくれている気がした。
その夜、トメさんが用意してくれた分厚い真綿の布団の中で、美咲は窓の外を眺めていた。
都会では見たこともないような、星の数々……静寂は、もう怖くなくなっていた。
明日は、あの埃まみれの『城』を、どうやって自分の色に染めていこうか……。
美咲は、蕎麦の芽の味を思い出しながら、深い眠りへと落ちていった。




