第一話 山間の村
山間の、胃が揺さぶられるような急カーブが続く川沿いの道路を、古びた乗合バスがひた走る。
バスは対向車が来ないことを確認するたび、巨体を大きく揺らしながら、切り立った崖と山肌の間の狭いアスファルトを縫うように進んでいく。
少し開けられた窓の中に、乗客らしい人影は見当たらない。まるでバスそのものが、人間に見捨てられた山々を相手にドライブを楽しんでいるかのようだった。
そんな悠々としたバスに置いてきぼりにされないよう……私の軽自動車が必死に、離されてしまった距離から追いかける。
「すっごい山道……。バスの運転手さん、よくこんな道で毎日……」
握りしめたハンドルの重さと、時折タイヤが跳ねる衝撃に、大自然の風景を愛でる余裕など一ミリもない。
都会のビル群よりずっと巨大な山の質量に、自分が押し潰されそうな錯覚さえ覚える。
三十分前までは美しいと思っていた深緑も、今は行く手を阻む巨大な壁にしか見えなかった。
けれど、何度目かの急カーブを抜けた瞬間、視界がぱっと開けた。
そこには、切り立った山々に優しく抱かれるようにして、すり鉢状の小さな集落が広がっていた。
「……着いた」
路肩に車を止め、ようやくハンドルから手を離す。強張っていた指先が、自分の意思とは無関係に微かに震えていた。
エンジンを切ると、都会では決して味わえない、静寂と風の音。
耳の奥にこびりついていた地下鉄の轟音や深夜の通知音が、一気に洗い流されていく。
窓を全開にすると、冷涼な空気と共に、どこか懐かしい……乾いた草を焼く匂いと、湿った土の香りが鼻をくすぐった。
視線の先には、山の斜面に張り付くように広がる、不揃いな段々畑。
そこには、一面に広がる白い波が、午後の光を受けて風に揺れていた。
無数の小さな……蕎麦の花だ。
雑誌の四角い枠の中に収まっていた、コントラストの整った動かない白ではない。
土にまみれ、不揃いで、だけど逞しく生い茂る、生き生きとした野生の白だった。
「あれが、蕎麦の花……」
その、地面にしがみつくような姿に目を奪われていた時だった。
白い波の向こうから、折れ曲がった一本の木の棒のようなものが、ゆっくりと立ち上がる。
……人だった。
日に焼けて赤黒くなった肌に、深い溝のような皺を刻んだ老人。
手にした鍬を杖代わりにして、こちらをじっと射抜くように見つめている。
その厳しい眼光は、歓迎とは程遠い、侵入者を拒むものだった。
「おーい、そこ! 邪魔だぞ!」
しゃがれているが、驚くほどよく通る声。
それが、美咲と源さん……そしてこの村との、宣戦布告に近い、最初の出会いだった。
その老人、源さん(75歳)は、私の都会仕込みの小綺麗な服装と、パンパンに荷物を詰め込んだ軽自動車を交互に眺め、あからさまに鼻で笑った。
「ふん、また物好きが来たか。どうせ一週間もすれば、街の灯りが恋しくなって泣きながら帰るんだろうよ」
「……仕事で来たわけじゃありません。ここに住むつもりで来たんです」
「住む? どこにだ」
「あそこの、坂の上の……」
私が指差したのは、瓦が一部剥がれ、庭が背丈ほどの雑草に覆い尽くされた古民家だ。
数年前から空き家になり、村の誰からも見放されていたその場所を見て、源さんは眉間の皺をさらに深く刻んだ。
「あそこか……あんた物好きにもほどがある。今のうちに言っておくがな、この村にゃ、あんたみたいな若いもんが楽しめるようなもんは、何一つねえぞ」
その言葉は、私を突き放すようでいて、同時にどこか、自分たちの人生を嘲るような響きを含んでいた。
私は言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。
ふと視線を落とした、源さんの足元。
一面の白こそ美しいが、それを支える土壌は、どことなく痩せ細り、活力を失っているように見えた。
「あの……私、ご挨拶にと思って……」
引っ越しの挨拶回り用に用意した、小さな肥料の袋を差し出そうとした私を、源さんは冷たい目をしたまま断った。
「構うな。どうせわしが死ねば、この畑も藪に戻るだけだ。花なんて、腹の足しにもなりゃしねえしな」
源さんはそう吐き捨てると、再び深く腰を曲げ、私に背を向けた。
アスファルトとは違って、柔らかな土の感触が、パンプスの底から伝わってくる。
震える手で古民家の鍵を取り出し、強く握りしめた。
……私の軍資金が底を突くのが先か。それとも、あの頑固な老人の心を動かし、この枯れかけた村の色を、デザインの力で塗り替えるのが先か……。
美咲……三十四歳。私の人生のリデザインが、今、ここから始まる。




