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蕎麦の花  作者: 星乃夢
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序文



 デスクの隅には、先週届いたハガキが片付けられないまま重なっている。

 

 一番上は、親友の子供が満面の笑みを浮かべている一歳の誕生日報告。

 二枚目は、元同僚のきらびやかな結婚式の案内。

 そして、別の友人の住所変更を知らせるハガキからは『離婚した。もう笑うしかない、また遊ぼう』という、重いのか軽いのか判別のつかない、投げやりなメッセージ。


  

 私……三十四歳。

 周囲の人生は、まるで川の流れのように穏やかだったり激流となって、確かな手応えを感じながら変化しているのだろう。

 ……誰かと結ばれ、

 ……誰かを育み、

 ……時には決別して、

 みんな、自分だけの歴史を刻んでいるのだ。

 それに比べて、自分はどうだろう……。


 

 青白いモニターに映っているのは、クライアントの安直な意向で、彩度だけを極限まで上げられた真っ赤な広告バナー。

 視認性だけを追求し、三日後のセールが終われば、誰の記憶に残ることもなくゴミ箱へ捨てられるデジタルな消耗品。

 私の指先から生み出されるものは、誰の心にも残らない。ただ、消費されるためだけのモノに過ぎないのだ。

 

(誰かの人生に、もっと深く届くような……私のデザインを刻むことはできないのか)

 

 そんな、出口のない焦燥に焼かれていた時だった。

 乱雑な資料の山から、一冊の古い雑誌が顔を覗かせた……。


 

 数ヶ月前、何かの配色資料にするつもりで買ったまま、ページもめくっていなかった地方創生特集。その見開きに、一面の白があった。

 荒れた斜面で懸命に咲き誇る、小さな無数の白い花。

 写真の隅には、過疎化に悩む村の現状と、守り手がいなくなりつつある在来種の蕎麦の記事が、淡々と綴られていた。

 

『最後の一人になるまで、私はこの花を咲かせ続ける』

 

 そう語る老人の、写真の中の瞳。

 ひどく寂しげだが、冬の朝の空気のように澄んでいて、真っ直ぐな目をしていた。

 

 その瞬間、心臓の奥がトクン、と小さく跳ねた。

 (この白が、消えるなんて……)

 ……誰にも見向きされず、静かに消えていこうとしている。この場所に、行きたい。私のデザインで、もう一度光を当てたい……。


  

 気がつけば、私は退職願のフォーマットを立ち上げていた。

 銀行口座にある数百万円は、この十年、死に物狂いで画面に向き合った戦果だ。睡眠とプライベートを削り取って積み上げてきた、唯一の誇りでもあった。

 

「……よし」

 

 マウスを握り続けて硬くなった右手の指を、強く握りしめる。

 

 モニターの電源を落とすと、夜明け前の静寂が部屋を満たした。


 

 窓の向こう、都会の空はまだ白んでさえいない。

 色のない都会を脱ぎ捨てて、私はあの白い花が待つ場所へ行く。

 たとえそこが、どれほど不自由で、寂れた場所だとしても……。



 

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