ウィリアム・ハルヘルホス 〜 愛とお金どっちが大事? の質問、両方ないのは不幸確定ですか? 〜
「ねえ、愛とお金でしたらどちらが大事だと思いまして?」
自宅に大勢の客を招き、酒と料理を振る舞い、知的な会話を楽しんでいた時だった。あるご婦人に、話の流れからそんな問いかけを受け、ウィリアム・ハラヘルホスは苦笑を漏らした。
どちらも有り余るほどに持っている。しかし、お金があるから愛があるのであり、愛に包まれているからお金があるのだと思った。
それでこんな返答をした。
「どちらが大事などと決めることはできません。今宵のように自分を愛して集まってくれる友人たちにこうして豪華なもてなしができるのは、私にお金があるからでしょう。そして私のようなへんな名前の者でも皆さんから愛していただけるのは、それもお金があるお陰です。愛とお金は繋がっているのです。切り離すことのできないものですよ」
「うふ。確かに変わったお名前ですわよね、ハラヘルホスさん」
ご婦人は、彼を愛する目で見上げながら、うっとりと言った。
「まるでこの国の方ではないみたい」
「先祖が東洋系だったらしいのです。『お腹が減って、行儀悪く食べ物を飲み干すように貪る』みたいな意味があるそうですよ」
「まぁ! ウフフ……。上流階級の貴方にはとても似つかわしくない、冗談のようなお名前ですのね。可笑しいわ。ウフフ、ウフフフ」
ウィリアムの豪邸の広い居間には17人もの客が集い、ふるまわれた酒や料理を手に、知的な会話を楽しんでいた。皆、貴族ではないが、教養のある富裕層だ。ある者はソファーの上で酔い潰れ、またある者は流行のダンスを披露している。
ご婦人は二十歳を少し過ぎたぐらいの年齢に見えた。
彼女に別段興味はなかったが、社交辞令のようにウィリアムは聞く。
「ご婦人はどう思われますか? 愛とお金、どちらが大事?」
「もちろん愛ですわ。愛がなければお金などいくらあっても仕方がありません。愛は最も尊いものよ」
彼女は即答すると、ウィリアム・ハラヘルホスの目を熱烈に見つめた。
「ハラヘルホスさん、そろそろご結婚されたいのではなくって? わたくしなら一生、献身的な愛を捧げますわよ?」
その碧色の瞳の中に、自分の財産への愛が溢れていることは、容易に窺い知れた。
何より愛されることにはもう、倦みきっている。
ウィリアムは愛想笑いを浮かべると、彼女に告げた。
「失礼ですが、想い人がいるのです」
想い人などいなかった。
それどころか、ウィリアムは他人に興味がなかった。誰もが彼のことを愛してやまなかったが、彼は誰のことも愛してはいなかった。
元々商才があり、しかもある日突然、誰からも愛される術を身につけたウィリアムのことを、両親は自慢する。しかしウィリアムは内心ため息を吐くばかりだった。
町を一人歩きながら、彼は思った。
『人間は皆、馬鹿ばかりだ。容易く私の愛想の良さに騙され、私を愛し、金を流してくれる。私がうわべだけの人間だなどということに気づきもしないで……』
石畳の上を歩きながら、彼は人生に失望していた。
有り余るほどの金に恵まれ、愛を受けながら、そんなものにはもはや価値を感じていなかった。二十三歳にしてすべてに飽き飽きしていた。何事においても、ありすぎればかえって欠乏を感じてしまうものなのであろうか。
町には何台もの馬車が行き交っている。人も大勢いたが、賑やかな雰囲気は今日もなかった。黒や灰色の服に身を包んだ者が多く、道脇の地べたにくたびれたように座る者もちらほらといる。
国は隣国と戦争の最中であり、人々は貧しかった。
うつろな目をして座り込む老人の前を通り過ぎながら、ウィリアムは思う。
『愛も金も──どちらもないのは不幸なことだ。しかし、どちらも有り余るほどに持っている私は、果たして幸福であろうか?』
歩きながら、考え続けた。
『満たされない……。こんなことなら、違う魔法をかけてもらえばよかった』
その時であった。すぐ近くから男の大声が、「危ない!」と叫ぶのを聞いた。
自分に言われたのかと思い、彼は死を恐れた。身を固くし、飛び退きかけた。
しかしすぐに安心し、傍観した。叫んだのは一台の馬車の、御者であった。
十歳にも満たない男の子が、馬車の前にうっかり飛び出したらしいのであった。
ウィリアムは手を伸ばしかけたが、引っ込めた。咄嗟に駆け出せば救える位置にはいた。しかし、見ず知らずの少年のために自分の身を危険にさらす気にはなれなかった。
彼は何もしなかった。ただ心の内で呟いた。
『人間の命などつまらない……意味のないものだ』
冷めた目で少年の最期を見届けようとするウィリアムの向こうから、必死の形相の女性が駆けてきた。
時間がとてもゆっくりしたものに思えた。女性の黒い巻き髪が赤く燃えているように見えた。質素な小豆色のチュニックを着ているので動きが疾かった。
「うああああっ!」
気合いを放つ声をあげながら、女性は子どもをその胸に守ると、ゴロゴロばたばたとウィリアムの横で前転して止まった。馬車は止まらず、そのまま走り去った。
上流階級の者なら長いドレスを着ている。チュニックを着るのは彼女が労働階級であることを示している。ウィリアムが成り上がりの平民でなく貴族なら、声もかけずに汚いものでも見るように立ち去るところであった。
「だ、大丈夫ですか?」
ウィリアムが声をかけると、女性は笑顔を浮かべて少年の顔を覗き込んだ。
「大丈夫、坊や?」
逞しい、生命の輝くような声で女性がそう言った。
「危なかったね! 助けられてよかった……」
「あ、ありがとう……」
少年は震える声でお礼を言うと、死を免れた安堵からかズボンの前を小便で濡らしてしまい、それが恥ずかしかったのか、すぐに駆け出していった。
「お怪我はありませんか」
心配してウィリアムが聞くと、地面にひっついたような格好で、女性がキッと睨みつけてきた。そして責める口調で言う。
「あんた、一番近くにいたでしょう? 助けようともしなかったね?」
そう言われて、ウィリアムは何も言い返せなかった。
「……悪いけど手を貸してくれる?」
「えっ?」
女性の言葉の意味がわからず、ウィリアムは聞き返した。
「腰が抜けちゃって立てないのよ! 手を貸して」
思わずウィリアムは吹き出してしまうところであった。
とても強そうな、生命力に満ちているような目の前の女性が、とても弱そうに、急にかわいらしく見えてきた。その体格がとても華奢なことにも今さら気がついた。黒い髪も黒い瞳も、身なりもすべて地味ながら、彼女のすべてに興味が湧くのを止められなかった。
そんな感情を、ウィリアムは産まれてこのかた持ったことがなかったような気がした。
一目で心を奪われるなど、そもそも他人に興味を持ってしまうなど、彼には産まれて初めて知る感情のように思えた。
「私はウィリアム・ハラヘルホスと申します」
女性を助け起こしながら、聞いた。
「貴女のお名前は?」
「ハルヘル……? 変わった名前ね」
女性はプッと吹き出すと、彼の腕に掴まって立ち上がりながら、名乗った。
「レダよ。私はパン屋のレダ」
ウィリアムは手を挙げて辻馬車を停めると、レダをエスコートして先に乗せた。
「お家へお送りしましょう。一番近くにいながら少年を助けられず、貴女を危ない目に遭わせてしまったお詫びです」
レダは住所を告げると、ふーーーと長い息を吐いて席に身を埋め、ウィリアムに言った。
「あんた、お金持ちなのね。貴族?」
「平民ですよ」
「辻馬車なんて初めて乗った」
呟くようにそう言うと、馬車の上から町を眺め、レダが黙った。
ウィリアムもその横顔を眺め、しばらく二人とも黙っていた。
「平民ですが……」
ウィリアムが口を開いた。
「事業をやっています。国に援助金を納められる身分ですので、徴兵もされず、労働階級ではなく上流階級として遇されています」
「何それ自慢?」
レダが白けた口調で言う。
「良いご身分なのね。羨ましいこと」
馬車はすぐに彼女の家に着いた。
粗末な石造りの家で、しかし香ばしいパンの香りが漂っていた。
「お姉ちゃんが馬車で帰ってきた!」
レダの弟らしき男の子たちが三人、大騒ぎで出迎えた。
「すげぇ! いいおべべ着たお金持ちと一緒だ!」
「姉ちゃん、そのひとと結婚するの!?」
「ばーか。立てなくなったから送ってもらっただけよ」
ウィリアムに手を貸してもらいながら、なんとか馬車を降りると、レダは振り向き、礼を言った。
「ありがとう、ハルヘル……プさん。自分で歩いては帰れないとこだった」
このまま別れるのが名残惜しくて、ウィリアムは言った。
「パンを買わせてください」
「何? お腹減ってるの? いいよ、送ってもらったお礼。好きなのあげるわ」
「そういうわけにはいかない」
懐から四千Gの札束を取り出すと、ウィリアムは見せびらかすようにそれを差し出す。
「人はお金がなければ生きてはいけない。これで買えるだけパンをください」
「店じゅうのパンを売ってもお釣りがいるわ」
札束を見ても平然としながら、レダが家の中へ入っていき、固そうなパンをひとつ持って出てきた。
「ごめんね。包む紙がないの。懐にでも入れて持って帰ってね」
おおきな石みたいなそのパンを押しつけるレダの後ろから、ヨロヨロと老人が出てきて、言った。
「おぉ……レダよ。上客じゃな! 受け取りなさい! その札束、身体を売ってでも受け取りなさい!」
「おじいちゃんは大人しく寝とこうね」
ウィリアムにパンを無理やり受け取らせると、レダはにっこり笑顔を見せ、言った。
「施しはいらないよ。お金なんてなくても私は幸せなんだから。家族のことが大好きなんだから」
ウィリアムの豪邸は海辺に建っていた。
広い窓から茫洋とした海を眺めながら、彼は不思議でならなかった。なぜ、あのパン屋の娘のことが、これほどにも頭から離れないのか。それよりもなぜ、レダは──
「なぜ……彼女は私を愛してくれなかったのだ」
ウィリアムは一人、呟いた。
彼の頭の中には深い森が広がっていた。自分から進んで迷い込んだその森で、彼は一人の老婆と出会った。五年前のことだ。
老婆は魔女だった。
容姿にも恵まれず、へんな名前のせいでいじめを受けていたウィリアムは、森へ自殺しに行ったのだった。誰からも愛されたことがなかったので。
「おまえに魔法をかけてあげよう」
魔女の言葉が甦る。
「おまえを誰からも愛される人物にしてあげる」
意地悪そうに上がった魔女の口角を思い出す。
「その代わり、おまえから『人を愛する心』をもらうよ? いいかい?」
愛する心は売り払ったはずだった。
その代わりに誰からも愛される能力を手に入れた。
元々備わっていたらしい商才に、相手から気に入られる才能を加え、五年の間にのし上がった。
それなのに、なぜレダは自分を愛する笑顔を見せなかった?
そして、人を愛する心を失くした自分が、なぜレダに一目で心奪われた?
ウィリアムはパンを齧った。石灰みたいな味気ないその味が、妙に美味に感じた。
ウィリアムの知るパン屋とは、さまざまなパンが棚に並べられ、店の中にも外にも色とりどりの装飾を施された、お洒落な空間であるはずだった。
しかしそのパン屋はまるで陶器か何かの工房のようだっだ。店の中は埃っぽく、がらんとしていて、焼き上がったパンは石の台の上に粉と一緒に無造作に置かれている。
「あら」
奥から顔を見せて、レダが呆れたように言った。
「また来たの? ハラヘルプさん。まさかうちのパンが美味しかった?」
「美味しかったんです」
ウィリアムは人心を落とすいつもの微笑みを浮かべた。
「あの味が忘れられなくて」
「物好きね。あんたぐらいお金があったら、もっと柔らかくて味のついたパンがいくらでも食べられるでしょうに」と、レダは彼に興味もなさそうに返す。
「あ! ウィリアムさんだ!」
続いて奥から三人の弟たちが出てきた。
「ウィリアムさん、姉ちゃんと結婚してよ!」
「おれ、ウィリアムさんのことが大好き!」
遅れて老人が顔を覗かせ、満面の笑みを浮かべて言う。
「おぉ、ウィリアムさん。わし、あんたのお金が大好き」
「ベーコンを挟んだパンはありますか」
ウィリアムが聞くと、レダは適当にあしらうように答える。
「そんな金持ちが好きそうなものはないよ。ここにあるのは草の入ったスープに浸して食べるためのパンだけさ」
「ねぇ、ハラヘッタさん。遊んでよ」
三人の弟たちは魔法にかかっていた。
「『お兄ちゃん』って呼んでいい?」
「ぼく、ハラヘッタさんが本当にお兄ちゃんになってくれたら嬉しいな」
「今日は代金を受け取ってくれますよね?」
ウィリアムが金貨を取り出すと、レダがまたそっけなく答える。
「もちろんよ。今日は何のお礼もないもの。でも銅貨で払って。金貨のお釣りなんて、店じゅうのお金をかき集めても出せないわ」
「じゃあ……」
ウィリアムはここぞとばかりに、切り出した。
「今度一緒にオペラを観に行きませんか。それを代金のかわりとしていただければ……」
「デートのお誘いだ!」
三人の弟たちが喜んだ。
「行っちゃえ、姉ちゃん!」
「その日の夜は帰ってくるなよ!」
しかしレダは、また興味のかけらもなさそうな口調で返すのだった。
「オペラだかオケラだかなんだかわからないけど、そんなのお金の代わりになんてなりゃしないよ。金がないなら……じゃなくて小さいお金がないならパンは売れないよ。欲しけりゃどっかで崩してくるんだね」
「レダさん」
ウィリアムは押した。
「はっきり言いましょう。私は貴女に一目惚れしたのです。どうか、私と一緒にオペラを観に行ってくれませんか」
おじいちゃんが大喜びした。
「おほーっ! こりゃいい! レダよ、家族のことを思うなら、ハラヘルムさんと結婚して、わしらを楽させてくれ!」
しかしレダは睨みつけるようにウィリアムを一瞥すると、言い放った。
「ごめんなさい。馬車に轢かれかかってる子どもを助けようともしない、人間の心のないひとは嫌いなの」
ウィリアムの心にズキンと痛む傷のようなものが生まれた。
あの時、一瞬、手を伸ばしかけたと言い訳したかった。
しかし結局、自分は何もしなかったのだ。あの少年を見殺しにしようとしたのは事実だった。
パンも買えず、何も言えずに、ウィリアムは自分の家へ帰るしかなかった。
夜、いつものように自宅をサロンとして開放すると、次々と客がやって来た。
いつものように、客人たちは皆、ウィリアムのことを愛していた。いつものように、ウィリアムは内心で客人たちのことを小馬鹿にしていた。
しかしその夜はいつものように愛想笑いを顔に貼りつけることができなかった。
頭はレダのことばかりを考えてしまう。
『なぜだ……』
部屋の隅でワインを片手に、彼はずっと考えていた。
『私は愛される魔法をかけてもらった代わりに、あの魔女に売り払ったはずだ、他人を愛する心を──。それがどうして、あのパン屋の娘のことがこれほどまでに気になる?』
「どうなさいましたの、ハラヘルホスさん?」
いつかのご婦人がやって来て、心配そうに声をかけた。
「お元気がありませんわ。何かお悩み事でも……?」
話しかけられるといつものように、ウィリアムの顔に愛想笑いが浮かんだ。
「なんでもありませんよ。ただ、これから皆さんをどんな趣向で楽しませようかと考えていたところです」
ご婦人の顔に好意の花が咲いた。ウィリアムはそれに嫌悪を覚えた。
愛想笑いを浮かべながらウィリアムは、どうしても確かめなければいけないと心で呟いていた。
またあのパン屋へ赴いて、この謎を解き明かさなければならないと思っていた。レダに会いたい気持ちを謎解きの必要性とすり替えるように。
「おはよう、小鳥さん」
店先の掃除をしながら、レダは地面で虫をついばむ小鳥たちに話しかける。
「あなたたち、そんな汚いものを食べるのね。いいわ、愛してあげる、あなたたちがかわいいから」
にっこりと笑うその顔が、ウィリアムには輝いて見えた。
「あー! お姉ちゃんがまた世界に話しかけてる!」
三人の弟たちが店の中から駆け出してきた。
「きもちわるいよ、お姉ちゃん!」
「きもちわるいのがお姉ちゃんだよな!」
さんざんな言われ方をしながら、レダはあかるく笑った。
「あんたたち、もうすぐ朝ごはんだよ。顔は洗った?」
「また草のスープとパン?」
「たまにはお肉とか食べたいなぁ」
「でもまぁ、いっか。お姉ちゃんの料理はおいしいからな」
おじいちゃんはどうやら中で寝ているようだ。そういえば足腰が弱そうだった。
ウィリアムは物陰から姿を見せると、「やぁ」と、レダたちに声をかけた。
「あっ、お兄ちゃんだ!」
弟たちが喜びの声をあげる。
「お姉ちゃんと結婚しに来てくれたの?」
「嬉しい!」
「今日は小さいお金を持ってきてくれたんですか?」
少し嫌がるような顔をしながらレダが聞く。
「いや、今日はパンを買いに来たのではありません」
ウィリアムはそう言うと、手に持った紙の包みを見せた。
「ベーコンを持ってきたんです。どうかこれを使ったパンを作ってほしい」
「ベーコン!」
弟たちがまた騒ぎだす。
「肉だ!」
「ありがとう、お兄ちゃん、いただきます!」
「もちろん皆さんで食べていただいても構いません。私のためにベーコン入りのパンをひとつ焼いてもらえれば、残りはお好きなように」
「いりません」
レダがまた睨むような目を向ける。
「言ったでしょう? 施しはいらないと」
「施しではありません」
ウィリアムは誰もに愛されるその微笑みを浮かべて、言った。
「私は貴女を愛してしまったのです」
言いながら、自分の言葉に違和感を覚えた。
「これも言ったはずです」
レダは突きつけるように言った。
「ごめんなさい。あなたのことが嫌いなわけではないの。ただ、人を愛する気持ちのない、人間の心のないひとが嫌いなの」
先日、あのご婦人から受けた問いが、ふいにウィリアムの脳裏に甦った。
「『愛とお金だったらどちらが大事か?』という質問をこの間ある方からされました。するとレダさんはこの質問には『愛だ』と答えるひとなのですね?」
「もちろんお金も大事よ。でも、暮らしていけるだけあればいい。愛さえあれば、世界はあかるいんだもの」
「それは家族への愛?」
「世界への愛よ」
レダは急に眉を吊り上げると、まるでウィリアムのことを非難するようにまくし立てた。
「私の両親はね、戦争のために家族と切離された! 父は戦地へ駆り出され、もう戻って来ないかもしれないの! 戦争って何のためにするの? お金のためじゃないの? そしてあんたは言ったわよね? 国に援助金を払ってるって! それって戦争の援助をしてるってことよね?」
「……そうですね」
それの何がいけないと言われているのか、ウィリアムには理解できなかった。
「あんたに世界への愛はないの? そんなひとからの施しなんて死んでも受けないわ!」
結局ベーコンは受け取ってもらえず、パンも買わずに豪邸へ戻り、ウィリアムは考えた。
レダはなぜ自分を嫌うのか? それどころかなぜ怒ってしまったのか?
答えは演繹法で導き出すことができた。レダは世界を愛しているという。つまりは戦争が嫌いなのだ。その繋がりで、戦争を支援している金持ちである自分のことが嫌いなのだ。
そして人を愛する心を失ったはずの自分が、なぜレダにこれほど執心するのか、その理由もわかったような気がしていた。
一目惚れだと当人には告げた。しかしどう考えてもそうではなかった。
出会った時、レダの目は燃えていた。馬車に轢かれそうな少年を助ける意志に燃えていた。なぜ、他人を助けるためにあそこまで無我夢中になれるのか、ウィリアムにはわからなかった。それで興味をもったのだ──いや、違う。
羨ましかったのだ。
自分が失くしたものを強烈なほどに持っている、レダのことが。人間を、世界を愛することのできる、レダのことが。
自室の文机に向かい、ウィリアムは両手で顔をおさえた。
あの魔女に魔法をかけてもらってから、自分の人生は劇的なまでに変わった。しかしこれでよかったのだろうか。
毎日が虚しい。多くの人から愛されながら、愛される喜びをちっとも感じていない。そして誰のことも自分は愛していない。
元々は誰からも愛されていなかった。しかし、誰かを愛する心は少しぐらいは持っていた気がする。
今、もしも魔法が解かれたら、自分の興味は、羨ましがる気持ちは、愛に変わるのだろうか。
レダのことを、自分は愛するようになるのだろうか。
ウィリアムの身体を冷たい風のようなものが取り囲んだ。それは孤独、寂しさ──そんな名前で呼ぶべきもののように思えた。
「もう一度──魔女に会いに行こう」
寄せては返す波を窓から見下ろしながら、うわごとのように彼は呟いた。
「こんな虚しい生活はもう、嫌だ。魔法をかけかえてもらえるのなら、それを望もう」
「森へ行く必要はないよ」
部屋の暗い隅から魔女の声がした。
「ヒヒヒ……。こうなると思っていたよ。だからわたしのほうから来てやったよ」
振り向くと薄暗い中に魔女が立っていた。
泥と埃で汚れた黒いローブを纏い、黄色い歯を見せて笑う老婆を久しぶりに見て、ウィリアムは嫌悪した。とはいえそれはサロンに招くいつもの客人たちに対して覚える嫌悪と何も変わらなかった。
「魔女よ、人を愛することのできる人間に私をしてください」
「それはできないね」
魔女は意地悪く笑う。
「魔法を二重にかけるとお前さんを壊してしまう。わたしにできるのは魔法を解いて、元のお前さんに戻してやることだけさ」
元の自分に戻る──
容姿もぱっとせず、へんな名前の自分が今、皆から愛されているのは、魔法がかかっているからだ。その魔法が、解ける──
それでもいいと思えた。
愛も金もあるのに虚しさしかない今の生活を、やめたかった。人を愛する心を取り戻して、その目で見るレダがどう映るのか、知りたかった。
暖かい気持ちを昔は覚えたことがあった。取り戻したかった、あの気持ちを。
ウィリアムは魔女にお願いした。
「戻してください」
「ヒヒヒヒ……」
嬉しそうに魔女は笑った。
「代金がいるよ。代金はお前さんの財産すべてだ。いいかい?」
ウィリアムは悩むこともなく、うなずいた。彼は自分のことも愛していなかったのである。
何もかもを失ったウィリアム・ハラヘルホスが街を彷徨い歩く。
道往く人たちは彼に興味を示すこともなかった。
仕事も失った。あの海辺の豪邸でサロンを開くことも、もうない。自慢するところがなくなると、両親も彼を見放した。
愛もお金もなくなった。
不幸は確定だと思えた。
それでも街は、いつもと違って見えた。
このまま宛もなく野垂れ死ぬのかと思うと、世界が尊く美しいものに見えてきた。戦争のため貧しく灰色にしか見えなかった街にも、さまざまな色があったことに気づいた。
小汚い身なりの子どもたちが笑顔で遊んでいるのを目にして、かわいいと思った。
野良猫が歩いているのを見て、そういえば自分は猫が好きだったと思い出した。
路傍のたんぽぽにも命の尊さを見いだし、不幸なはずの顔に微笑みが浮かんだ。
「あら」
前からした声に立ち止まった。
顔を上げると、端切れの入った袋を抱えてレダがいた。
「ハラヘルプさん……だよね? 何か雰囲気が違うけど」
ウィリアムは苦笑し、訂正した。
「ハラヘルホスです」
「ごめんなさい。変わった名前だから覚えられなくて──。ところで何かあった? なんだかやつれちゃって」
「すべてを失いました」
清々しく笑いながら、ウィリアムは答えた。
「金も、仕事も、地位も──。すべてを失くした私からは人も去っていきました」
「まさか──!」
レダは苦痛に歪むような顔をした。
「もしかして──私がああ言ったから? 国に援助金を送ってるあんたのことを鬼だとか人でなしだとか」
ウィリアムはまた苦笑した。
「そこまでは言われてませんよ」
人を愛する心を取り戻して見るレダは、ふつうの女性だった。美しいとはいえるが、サロンに集まるご婦人たちのように美麗ではなかった。しかし心の内から湧き出る暖かさがウィリアムを安堵させる。どうやら彼女の言う『世界への愛』が自分にも向けられるようになったことに──自分も彼女の愛する世界の一員になれたらしいことに喜びを感じた。
「うちへいらっしゃいな」
レダが目を優しくする。
「パンをあげる」
ウィリアムはくすっと笑い、答えた。
「施しですか?」
「他人に施せるようなご身分じゃないわ。貧しい者どうし、分け合うだけ。それに……」
申し訳なさそうにレダがうつむき、赤い前髪の隙間から、黒い瞳が上目遣いでウィリアムを見つめた。
「私のせいなんでしょう?」
「そうかもしれません。でも、そうともいえて、じつは貴女のせいじゃない。私が貴女の言葉に自分を見直したせいです」
「よくわからないけど……」
レダの微笑みに、初めてウィリアムへの好意が浮かんだ。
「あなた、雰囲気が変わったわ。人の心を取り戻したみたいに」
「そうですね」
ウィリアムもレダに親愛のまなざしを向ける。
「では、パンをごちそうになりに行きましょう。できれば私にもパンの焼き方を教えてもらえたら嬉しい」
生まれて初めて感じる喜びが、胸に確かにあった。
やはり自分はレダに一目惚れしていたのだとわかった。
彼女の店へ向かって並んで歩きながら、会話を交わす。
「ハラヘルホスさんだっけ? 変わった名前ね。どんな意味なの?」
「お腹が減って、行儀悪く食べ物を飲み干すように貪る、みたいな意味ですよ」
「それは当たり前よ」
レダがウィリアムの言葉にあかるく笑った。
「お腹が空いたらがっつくのは当たり前! 草のスープもあるからぜひ行儀悪く食べてね」
お金は失った。
今はまだ、レダに愛されているわけでもないだろう。
しかしウィリアム・ハラヘルホスは幸せだった。レダのことを愛している自分を感じると、そうとしか思えないのだった。




