第7話 老司祭の懺悔
私は弱い男です――クラッセンはそんな呟きから口火を切った。視線を黒ずんだ床に向ける姿から、懺悔にも似た気配が漂う。
「私は若かりし頃、王都の大聖堂に務める修道士でした。その頃は教義よりも、権威を重んじる鼻持ちならない性分で。評判も良くありませんでした」
クラッセンの口調は落ち着いており、昔話の読み聞かせを思い出した。実際、古い話だった。
「当時の中央では政治力が重視され、何をするにしても上層部の顔色を窺う必要がありました。そのため私は接待のためにと、美食に美酒、そして美女を集めるために奔走したものです。それはあくまでも名分でしか無かった、結局は自分も快楽に溺れたいがための言い訳でした。聖職者からかけ離れた日々を送っていたのです」
「今とは全然、似ても似つかないな……」
「そんな毎日を重ねること20年。ちょうど今のあなたくらいの齢のころ、私は酒の毒にやられました。手先が震えて止まらなくなり、幻まで見るように――」
クラッセンは自身の両手を見つめた。老いてはいるが、患っているようではない。
「震えはともかく、幻が恐ろしくて仕方ありませんでした。追い落としたライバルたちが、生業を奪ってしまった相手が、夜な夜な枕元に現れるのです。酒を飲めば治まるので、とにかく飲み続けました。とはいえ、聖職者が昼間から酔態を晒せば咎められます。中央教会から左遷を申し渡されたのです。司教の座に手が届く直前でした」
王都ハクスグランは、ロックヒル村から遥か彼方だ。いくつもの山を越え、大河を渡った先にある。まっすぐ進んだとして何カ月かかるのか、アーセルには予想もつかなかった。
「王都を去る時に、かつての師が教えてくれました。『酒を絶ち、か弱きものを守れ』と。さすれば幻など2度と現れはしないとも。私は半信半疑でしたが、言われるがまま教えに従いました。流れ着いたロックヒル、新たな業務は孤児院の経営です。そこには歓待すべき重役などおりません。酒席を設ける理由が消えたのは幸いでした」
ここまで語ると、クラッセンは大きく息を吐いた。「ここからです」と言って、シワだらけの顔を引き締めた。
「孤児院の経営は、そつなくこなしていました。身寄りのない子供を預かり、里親を探して送る。あるいは成人になるまで育て上げる。慣れないうちは目が回るような忙しさで、幻を見る余裕もありませんでした。夜は泥のように眠るので」
「今もなんだかんだ忙しそうだがな」
「孤児院を任されて3年ほど過ぎたころ。ある嵐の晩に突如として来訪者が現れました。私は強盗を疑ったのですが、気になって覗き込んだ所、子連れの男が助けを求めていたのです。身なりから察するに、騎士と思われる御仁です」
「騎士ねぇ。珍客だな」
「私が扉を開くと、彼は開口一番に言いました。『この子を頼む』と。そして崩れ落ちるように倒れ、天に召されました。静かに眠ったままの子供を私に託して」
「なぁ、まさかとは思うが――」
「その幼子とはあなたです、アーセル。身元不明の騎士に連れられて、この村へとやって来たのです」
アーセルにとって思い出すこともない過去だ。その記憶はあまりにも遠すぎる。彼は一度として脳裏に浮かべることもなく、ここまで平穏に暮らしてきた。
自分が何者かわからなくなり、とたんに心細くなる。目眩も感じられて、世界がゆっくりと歪む錯覚すらあった。謎の騎士の逃走劇――胸の奥で呟いてみたが、引っかかるものは何もなかった。
「この魔術書は、その騎士と思しき御仁の遺品です」
クラッセンは、膝の上に置いた魔術書を、そっと撫でた。
「血痕が付着しているでしょう。おそらく騎士のものです。なにせ彼は傷だらけでしたから。激しい死闘の末に、辛うじて落ち延びたのでしょう」
アーセルの疑問の半分は解けた。クラッセンという好々爺と血塗られた魔術書が、どうにもそぐわないと思っていた。だが経緯を知れば納得がいく。養父の無実は、自身で自覚した以上に喜ばしかった。
「どうして魔術書を隠してたんだ? 意味深じゃねぇか」
「それも私の弱さがゆえです」
クラッセンが眉間のシワを深くした。
「魔術とは凶事です。世界の理をねじまげ、大いなる破壊をもたらす。そんな力をあなたが手に入れようなら、きっと悲惨な最期を迎えてしまう――件の騎士のように。そう思えたので、魔術書の存在を隠したのです」
「じゃあいっそ捨てておけば」
「そうすべきと思いました。しかし、あの騎士の最期を思えば、できませんでした。今わの際、迫りくる死の恐怖に信念は揺らぐことなく、幼子を託す姿――」クラッセンの瞳が虚空を見つめて、潤んだ。「あの光景が脳裏に過ぎると、不思議と手放せなくなったのです」
クラッセンが深い深い息を吐いた。腹の奥から何かを追い出そうとしているようにも見える。
「結果、私は隠し通すことに決めました。預かるキッカケとなった夜の事件も、遺品の書物も。それだけでなく、あなたの力を封じることで魔術から遠ざけました」
「封印って、おまじないのこと?」
アーセルに心当たりはある。当時、クラッセンは夜な夜なアーセルにまじないを施した。穏やかな詠唱のあと、アーセルの額に触れる――じんわりと温かくなって心地よい感触――それを繰り返すうちに精霊騒ぎも落ち着いたのだ。
面倒がなくなって喜んだアーセルだが、魔術師としての未来を閉ざされた転換点でもあったのだ。
「言いたいことはおおよそ分かったよ、じいさん」
「あなたには平穏に暮らしてほしかった。そして魔術の力を奪った手前、いつまでも養う覚悟でした。しかし――」クラッセンの穏やかな瞳がアーセルを見つめる。その瞳には諦観がよぎった。
「あなたはもう魔術に関わってしまわれた。そうですね?」
「じいさんの期待に沿えなかった」
「いえ、あくまでも私個人の願いです。私が術書を手放さなかったこと、あなたが誘われるようにしてそれを手に入れた事。いずれも女神ルミナスのお導きでしょう」
昔話はここまでだった。この後は今現在、そして未来へつながる話になる。
「これからどうされますか?」
「どう、とは?」
「あなたはもはや幼子ではありません。大きく成長し、そして強くなったのです。自身の力で運命を切り開けるほどに」
クラッセンが、アーセルの眼前に叡智の書を差し出した。
「孤児院にとどまりますか。それとも、別の生き方を選びますか」
落ち着き払った声、しかし決意の感じさせる重さ。クラッセンの覚悟がにじみ出ていた。
ここだ、今こそ運命の分かれ目だ――。そっと目を伏せたアーセルは、想いを巡らせた。養父の温かな視線を肌に感じつつ、そして、静かに返した。
「オレは自分が何者なのかを知りたい。本当の故郷や、両親を知らないうちには死ねないよ」
「そうですか。ならば――」
魔術書がアーセルの手元に戻された。同時にクラッセンの頬に一筋の涙がこぼれていく。養父が涙を流す姿を目にするのは、これが初めてだ。
「本当に大きくなりましたね。私の役目は今、終わりを迎えました気がします」
「やめろよ縁起でもない。マリーやジャクソンは、じいさんを親だと思ってんだぞ」
「はは……。無論、もうしばらくは奉公させていただきますよ。この身体が動くうちは」
まもなく、クラッセンは部屋から出ていった。「今はゆっくりとお休みなさい」と告げて。
その口ぶりは、どこか幼子に向けた響きがあり、懐かしさを覚える。だがその気分も長くは続かない。叡智の書からサラマンドが姿を現したからだ。
「お説教は終わりかい、アーセルちゃん?」
「居たのかよお前」
「そりゃもう、この本が寝床だしな」
サラマンドは本の表紙の上でふんぞりかえった。
「でもよ、面白くなってきたな。故郷を探しに一人旅だって? いいねいいね、好きだぜそういうの!」
「故郷探し? ありゃ嘘だ」
「は?」
「セフィラを探すに決まってんだろ。あの人はオレの運命で幸せの象徴で最愛の人なんだ。でもそんな理由をバカ正直に言ったら、じいさんもゴネそうだからな。納得しやすい台詞を用意してやったんだ」
「マジかよお前……女の尻を追いかける為ってこと!?」
「尻じゃねぇ、おっぱいだ」
「そこじゃねぇんだよポイントは!」
どれほどサラマンドが喚こうとも、アーセルは聞き耳を持たない。彼の右手は栄光を掴もうとするようにして、虚空に伸ばされていた。
その手のひらを、さも、お椀でも握りしめるかのような形に和らげて。




