第32話 美しい娘をさらう理由
背後で騎士団と青大蛇が激しい戦闘を繰り広げる中、アーセルたちは颯爽と逃げ出した。ソリと呼ぶには粗末すぎる木版だが、雪上を逃走するには十分だった。
「ヒャッハー! 勝手に潰し合えバカどもが!」
叡智の書も取り戻し、目論見通りに進んだとあってアーセルは上機嫌だ。そして彼の気持ちを代弁するかのように、加速度的に斜面を滑り落ちていく。まっさらな雪上を駆け抜けるのも爽快だった。
その背後から、リオンがそっと尋ねた。
「アーセルさん、ひとつ気になりましたが」
「どうしたリオン。ちゃんと掴まれよ、転んだら大変だからな」
「これ、どうやって止まるんです?」
「えっ……」
アーセルに、ブレーキという概念は持ち合わせていなかった。肌が痛いほどの速度に達しており、後悔するには遅すぎた。眼前の木々が、岩場が、目まぐるしく通り過ぎてゆく。怪我を覚悟で飛び降りるべきか悩む――その逡巡が運命を分けた。
「リオン、上り坂を待つぞ。そこでスピードが落ちたら飛び降りるんだ」
「アーセルさん、前! 前ッ!」
リオンの悲鳴をはじめのうちは理解できなかった。一面が白く塗りつぶされた世界だ。超高速の板の上では地形を読み取る事は難しい。
しかし必死に注視する事で、ようやく白の濃淡に気付く。それを見て取った瞬間にアーセルも叫んでいた。
「道がないぞ! 崖か!?」
減速もできないまま、ただ地形に沿って滑り落ちていく。
「この先は高いです、落ちたら命はないくらいの!」
「ノエイラ! 魔術だ、何か使えそうなやつ!」
アーセルの怒声に左肩から返答があった。
「お安い御用でございますアーセル様。しかしながら主人は今、心の平衡を失っておられます。まずは共存共栄の精神を胸に宿し、十分なアニマの充填を――」
「言ってる場合かこの瀬戸際で!」
そう叫んだ瞬間、身体にかかる圧力が真逆にふれた。もはや眼で見なくとも分かる――飛んでいる。短い上り坂で大きく飛び跳ねたのだ。そして吹雪の中を貫くかのように、宙空を突き進んでいく。
「掴まれ、リオン!」
咄嗟に叫んでいた。すると、板が激しい衝撃を受けて、また跳ねた。視界の端に、尖った岩山を見てとらえた。わずかな岩場着地した、かと思えば、また宙空に飛び出す。さながら飛び石を経由するようにして。
本格的な落下は始まっていないが、この先自分がどうなるか分からない。今はただ、板から振り落とされないように必死だった。
そして、最後の飛翔で事態は急変。アーセルは正面から猛烈な圧力を受けた。膨大な雪の中に飛び込んだように思う。そして雪の塊を突き抜けた瞬間、バランスを失った。放り出された身体は、硬い地面の上を長々と転がされた挙句、ようやく静止した。
「いってぇ……でも生きてる……」
アーセルは手をついて立ち上がろうとして、積雪がないことに気付く。辺りは暗闇で、唯一光が差すところは、ぽっかりと口を開けるかのよう。洞窟の中に飛び込んだと解釈した。
「そうだ、リオン! 無事か!?」
「私はここです」
すぐ背後から声がした。薄闇の中で手を差し伸べると、握り返されたので、強く引いた。立ち上がったリオンが大きく息を吐いた。
「どうにか命拾いしたな。怪我は?」
「少し痛みますが、それだけです。手足が千切れるなどは無さそうです」
「報告が、蛮族のそれなんだよ」
「ここはどこでしょうか?」
リオンが視線を辺りに向けるが、彼女も知らないようだった。そもそも暗すぎる。
「サラマンド、でてこい。そろそろ働けよお前」
すると遅れて、虚空にはサラマンドが現れ、かすかに発光した。松明を掲げる程度には明るい。何も無いよりはマシかと、アーセルは辺りに視線を巡らせた。
「やっぱり洞窟みたいだな。知ってる所か?」
リオンは見覚えがないと答えた。村から遠く離れた洞窟で、雪は積もっていない。一帯が暖かいからではなく、単純に風が通り抜けないためだ。吹雪は、アーセルたちが飛び込んできた入口付近にのみ、吹き付けている。
「ここ、もしかして山の上じゃないか?」
唯一と思しき出入り口から、顔を覗かせてみる。辛うじて見える岸壁は角度がきつく、そして遥か彼方に岩場が見える。ここから降りる事は不可能だった。
「ソリに乗って大ジャンプを決めまくったら、ちょうど岸壁の穴に飛び込んだと言うわけか。たぶん、幸運なんだろうな」
「これからどうしますか、アーセルさん?」
「とにかく探索だ。ここに居ても始まらないし、お前の兄貴も探さないとな」
「雑多に生える草花のように、兄の痕跡が見つかるものでしょうか」
「知らんけど。でもジッとしてても仕方ないだろ。今は足で稼ごう」
手がかりは何もない。それでも魔術書はあるのだと、気楽に構えた。
「洞窟の奥は深そうだな。先が見えねぇ」
「このまま進んでも平気でしょうか? 何が出るか分からないままに」
「心配すんな。今なら魔族なんて楽勝の圧勝よ。なにせオレは、大地が埋まるほどのバケモノをぶっ倒した事もあるんだぜ」
アーセルは肩越しに振り返っては、リオンの憂いた顔に微笑んだ。そして、少しおどけたようにポーズをとる。
その時、肘が硬い何かを打った。アーセルが痛みから顔を歪めると、そこには氷塊があり、静かに動き始めた――。
「氷河魔人じゃねぇか!」
敵はすでにアーセルたちを捕捉していた。顔のない平たい頭が、彼らに正面を向けた。
「完全に気づかれてます、逃げましょう!」
「任せろよリオン。今やもう、こんな奴は敵じゃねぇ!」
アーセルは腹に力をこめて、右手を突き出した。思えばノゼレンシーに辿り着いてからというものの、災難が続いたものだ。遭難するし裸にされるし魔族から逃げ回るしで、散々だった。不満は十分に溜め込んでおり、それは炎属性と実によく馴染んだ。アニマが身体を覆い尽くすのも早かった。
「精霊サラマンドよ、その真価を示せ! ファイヤーキャノン!」
ぽすん――。哀しいほどに小さな破裂が、手のひらに起きた。それだけだった。氷河魔人は何ら怯むこと無く、アーセルたちに巨大な手を伸ばしてきた。
「走れリオン! 逃げるぞ!」
「やっぱりこうなるんですか!?」
アーセルたちは奥へ向かって逃走した。思いの外洞窟は広く、氷河魔人も難なく追いかけてくる。隠れる場所も見つからぬまま、ひたすら目の前の道を走るしかなかった。
「ノエイラ! 土属性で戦うぞ!」
「承知しました。では心に共存共栄の精神を宿しつつ――」
「精霊ノエイラよ真価を示せ! ロックジェイル!」
講釈をさえぎってアニマを放った。まともなイメージはなく、叡智の書に見た記憶をたよりに叫んだだけだ。何が出るかは賭けでしかない。
すると氷河魔人の前方で、地面が盛り上がった。土や岩石がたかるようにして魔人に集まる。捕縛の魔術だった。
「おお、上手くいったか!」
だが魔人は両手を振り払うだけで、その魔術を粉々に粉砕してみせた。そしてすぐ追跡を再開した。
「全然ダメだ、こんな付け焼き刃じゃ――」
アーセルが身構えようとした瞬間、氷の腕が迫った。払いのける仕草は、早かった。直撃を許したアーセルは、壁に投げつけるようにして飛ばされ、激突した。骨の軋む音がいくつも聞いたような気がした。
「アーセルさん、しっかり!」
駆け寄るリオン。だがその身体は、氷の手で吊り上げられた。氷河魔人が彼女の服をつまみ上げ、囚えたのだ。
「リオン……!」
アーセルは震える手を伸ばす、だが届かない。こうしてリオンはいずこかへと連れ去られていった。甲高い悲鳴も、いつしか聞こえなくなった。
「あの野郎、何を企んでやがる」
彼の脳裏に浮かぶ光景はひとつだけだった。美しい娘、さらに爆乳。そんな者をさらう理由など考えるまでもなかった。色々と愉しむのである。とにかく多様な事を、余さず取りこぼすこと無く、心ゆくままに――。
「クソったれ! 魔族ですらドエロイ事が許されて、どうしてオレはダメなんだ!」
負傷の痛みが吹き飛ぶほどの怒りが、彼に活力を与えた。鼻息を強く吐いて、血の塊を飛ばすと、消えた魔族の後を追いかけた。
「洞窟はそれほど入り組んでない。探すのは難しくないと思うが」
アーセルは間もなく辿り着いたのは、大きな空間だった。鍾乳石の連なる光景は、エビルプラントを彷彿とさせて、身構えてしまう。
だが洞窟の奥に待ち受けるのは魔族ではなかった。巨大な鉄扉が道を塞いでいた。さながら城門が、そのまま凍りついたかのように見えた。
「どうしてこんなものが? 王様でも住んでんのかよ?」
鉄扉の片側は開いていた。意を決してもぐりこむと、中も城のようだった。長い回廊、オーク木の大扉、灯火のきらめく銀の燭台。全てが凍てついた事を除けば、王侯貴族の住処である。
「なんで洞窟の中に城がたってんだよ……」
するとその時、聞き慣れない声が響いた。声質は高く、女のものだが、リオンではない。そしてどこか、威圧的な響きが感じられた。
「貴様は何者だ。汚らわしい、即刻立ち去れ」
その叫びとともに、辺りに突然、吹雪が巻き起こった。風圧も段違いに強く、アーセルは踏ん張らなければならなかった。
睨みつけたその先には、1人の女が立ち尽くしていた。白銀の長い髪と、スカートの裾もたなびく。細身で軽装、刃物も無いが、決して侮れない。その人物の宿すアニマが、辺りを圧倒するかのように膨らんでいる。
「こいつは魔術師か、それとも――」
氷の魔神。そんな言葉が脳裏をよぎった。女は格好を崩さないまま、風を強めていった。




