第24話 特別な夜に
ウェルヘイムを長らく苦しめた魔族の害は、たった一晩で終息してしまった。ただし被害は小さくない。街の城壁はおおよそが崩れ落ち、家屋も倒壊するなどして、破壊の爪痕は生々しく刻まれた。それでも石化した家族や友人が蘇ったことは、誰もが狂喜したもので。街が涙であふれかえった。
そんな最中にアーセルはというと、とある屋敷に招待された。街を治めるバンスネル男爵が宴を催すという。恭しく出迎えた老齢の執事に連れられて、男爵邸まで足を運んだ。頃合いは夕暮れ時で、長く伸びる陰の中を歩く。
アーセルにすれば渡りに船で、ちょうど腹が減っていたところだ。領主の酒宴ともなれば、美味いものがでると期待させられた。
「すげぇ立派な家……壊れてなけりゃ更に良かったよな」
男爵の住まいもエビルプラントの猛威を避けきれなかった。庭の花壇は荒れ果てて、屋根と壁も一部で穴が空いていた。それでも住むには問題ないようで、実際、バンスネルは福々しい笑みでアーセルを迎えた。
「よくぞお越しくださいました、アーセル殿。あなたのご活躍がなければ、今頃はどうなっていたか!」
太った壮年の男爵は丸い体をひるがえして、奥へと誘った。行き先は演舞場で、すでに何十人もの招待客が待ち受けていた。彼らは商工ギルドのマスターや流通の顔役といった有力者たちだ。ぶどう酒の満ちたグラスを片手に持っている。
「皆のもの、英雄が到着されたぞ!」
すると辺りに拍手の嵐が巻き起こった。老若男女が大きく打ち鳴らし、口々に感謝の言葉を告げた。この慣れない社交場にアーセルは早くも帰りたくなったが、バンスネルが主賓席に座れという。部屋の最奥は一段高い造りで、そこに2人分の席がある。主と並んで座る形式だ。帰宅が許される気配ではなかった。
「では、今一度勝利を祝して! 乾杯!」
バンスネルの音頭で、触れ合ったグラスがカチンと鳴る。アーセルも何となく動きを合わせて、ぶどう酒を片手に突っ立っていた。作法がわからぬ。そして客の全てが上等なドレスとスーツで、薄汚れたチュニックの自分は、ひどく卑しい者のように思えてしまう。結果、まるで借りてきた猫のように大人しくした。
だが主賓を放置するような事にはならない。アーセルが酒に口をつける暇もなく、次から次へと招待客が訪れた。「グレイソンです」「カタリーナと申します」と名乗っては短く会話していくが、アーセルは1人として覚える事ができなかった。どれも同じ顔に見えてしまうのだ。
(ここの女は腰が妙に細いよな。何か縛ってるような)
コルセットで捻じ曲げられた体つきは、アーセルからすれば不自然極まりなく、興ざめさせられた。強調も過ぎれば無粋でしかない。それでも女の体型を正確無比に記憶する事はライフワーク。最もデカ乳の女だけは把握しておいた。胸元が大きく開かれて谷間が大きく浮き上がるさまには、さすがにウホッとさせられた。
しばらくして――ようやく人の波が引いたかと思うと、今度はバンスネルが相手になった。
「いかがですかなアーセル殿。お口にあうと良いのですが」
「口に合うも何も、そんな暇なかったんだが」
「それはそれは。かつてない英雄の同席に、皆も舞い上がっておりますな。以降は私が応対しますので、貴殿はゆるりとお休みくだされ」
ここでやっと解放されたアーセルは、ふらふらと自席に戻った。とりあえず酒。これまでの半生で、アルコールはほとんど口にしたことがないが、嫌いではない気がする。
グラスに唇をあてて、探るようにしつつ口に含む。酒が舌先に触れて、唾液を馴染ませてから喉を通す。途端にぶどうの濃い香りが鼻を突き抜けていき、アーセルは瞠目させられた。
「えっ、なにこれ! うまっ!!」
演舞場にアーセルの声が響くと、温かな笑い声に包まれた。バンスネルが、たおやかな仕草で手のひらを差し伸べた。「料理もぜひ」と言いたげである。
卓上には目を愉しませるほどの料理が並ぶ。飾り包丁で彩られた野菜に果実の盛り合わせ、スープは珍しくもココナッツ風味の香辛料煮込み。そして肉。骨付きラム肉の絶妙な焦げが、香ばしい匂いを放っていた。
「こんなもん、不味いわけがない……んほぉーー! うんまーーっ!!」
アーセルは小躍りするかのように身体を揺らした。同時に、頭に結んだ黒髪が馬の尻尾のように揺れる。
こうなると手は止まらなくなる。肉を喰らいスープと酒を交互に飲み、味変に果実をむさぼる。たまらない、とろけそう、こんな快楽が世の中にあるとは知らなかったとアーセルは夢見心地になった。特に酒が助かる。飲めば飲むほど気分が高揚して、得も言われぬ万能感に包まれるのだ。
その一方で、連れ合いの精霊たちは冷ややかだ。宴を楽しむようではなく、アーセルの傍に浮遊するばかり。彼らは飲食を必要としない存在だった。
「おいアーセル。ほどほどにしとけよ。お前の力の源は清貧が関係してることを忘れんなよ」
サラマンドが釘をさすと、ノエイラも続いた。
「同感です。必要分だけ召し上がったなら、早々に立ち去るべきでしょう。嫌な予感がしますし、そもそも嘆かわしい事です。街を破壊された市井の者達は、今宵も寄る辺もないと言うのに、為政者どもは有頂天とは。私の言葉が彼らに届くのであれば、半日かけてじっくりと説教したいところです」
そんな苦言をアーセルは笑い飛ばした。
「固いこと言うなよお前ら。オレは頑張ったの、皆を救った英雄なの。だから今日くらいは楽しませてくれよ」
「しかしですね、アーセル様。度を過ごすような事は――」
ノエイラの言葉はバンスネルによって阻まれてしまう。彼は柔和な笑みを浮かべつつ、静かに拝礼した。
「アーセル殿。いかがでしょう、そろそろ舞いのひとつでも」
「マイ? 何それ気になっちゃう!」
すっかり籠絡されたアーセルは完全に乗り気だ。返事をする間も酒を一気に飲み干す。注いでは飲み、飲んだら注ぐ。勝利の味わいは格別だった。杯を重ねるほどに気持ちよくなり、際限が見えなかった。
では、と返答したバンスネルは、両手を打ち鳴らした。高く2回、意味深に。
するとどうか。部屋の入口から、数名の若い女が音も立てずに現れた。凛とした表情の3人は、見目麗しき美貌もさることながら、妖艶な衣装が目を惹いた。素肌が透けるほどに薄く、なめらかな質感のシルク。ゆったりとした袖口は風はなくとも、些細な仕草だけで戯れるように揺れた。
アーセルは思わず腰を浮かして叫んだ。「えっ、すっげぇ……! 都会の女やべぇ!」無自覚に鼻呼吸をフンフン荒くした。
間もなくバンスネルの合図で、別の者たちが笛を鳴らし始めた。三重奏の、跳ねるようなリズムと音階で、華やかな音曲だ。祝いの席にふさわしい。だがそれ以上に娘たちの舞いが美しく、角度次第では胸の先端がちらりと見えそうで、アーセルは身体を左右に揺さぶった。
「都会の女とか最高やんけ! たまんねぇ!」
舞いが終わると拍手喝采だった。アーセルは腑抜けたように両手を鳴らしては、腰を降ろした。
そして独り黙っては視線を床に向ける。意気消沈したのではない。彼は今、集中することを望んでいた。
(頼むぞ、誰も邪魔すんな。せっかくの記憶を……!)
脳裏に浮かべた光景は、先ほどの舞いだ。揺れに揺れる豊満でセンシティブな曲線――記憶どころか魂に入れ墨を刻む想いで、精神統一を開始。
だが、そこでバンスネルがにじり寄った。流石にアーセルは舌打ちしてまで苛立つが、提案の言葉に頭が白くなる。
「アーセル殿。誰か気に入った娘はおりますか?」
「えっ、難しい事を聞くなよ」
改めて踊り子を見れば、三者三様の容貌をしていた。髪の色と長さ、背丈にと、細かい違いがあることにようやく気付いた。舞いの完成度が高く、その一体感から、女たちの差分にまで気が回らなかったのだ。
「強いて言えば、真ん中の子かなぁ……」
アーセルが指を差すのは、金髪の娘だった。長い髪型と、アゴのラインがセフィラに少しだけ似ていた。逆に言うと、それくらいしか加点のしようがない。皆が皆美しく、飛びつきたいほど良い身体をしていた。
バンスネルが静かに頭を下げると、やはり手のひらを数回打ち鳴らした。すると、例の娘がそっとアーセルの元へ歩み寄ってきた。バンスネルの目配せで察した娘は、そっと手を伸ばして、アーセルの指先に触れた。
「お気に召していただけて光栄です。どうぞこちらへ」
「どうぞって、何の話――」
結ばれた互いの手、娘に引っ張られた。そして2人揃って演舞場を後にした。踊り子がアーセルを導いていく。狭い通路をゆき、やがて小部屋の前で立ち止まった。
踊り子は言った。「貴方様をひと目見た時、ピンと来ました。運命の出会いだと――」
世辞である。よどみなく発せられたところ、言い慣れている節があった。だがそんな処世術は、アーセルごときに看破できる訳もなかった。
「えっ、マジ? いや実を言うとオレも同じで。部屋に入ってきた時、この子しかおらんわぁって思ったよ。何か他の子たちと違ったんだよ、光り輝いてたっつうか、際立ってたような。アニマが良いのかもね、いや魔術師じゃなきゃ関係ないかもしれんがデュヘヘヘヘ」
世辞の10倍ほどを喋り倒すのだが、踊り子は返答しなかった。かわりに部屋の扉を静かに開いた。
中はというと、カーテンの締め切られた小部屋だった。スペースの半分はベッドが占めて、残りはテーブルくらいしかない。ただし掃除は行き届いており、テーブル上に飾られた花も新しい。燭台は豪華にも銀づくりで、3本の長いロウソクに火が灯された。
「では、失礼します」
踊り子は先にベッドに腰を下ろすと、アーセルに背を向けた。そして、ゆるやかに絹の衣装を脱いでいく。華奢な肩が、背中が露わになる様を、揺れる炎が照らしていた。
「えっ、その、いいの?」
アーセルはごくりと唾を飲んだ。ヘソの下が焼けるように熱くなり、同時に重たい。
踊り子は肩越しに視線をよこしては、かすかに微笑んだ。
「どうぞ、望まれるがままに……」
アーセルの鼻から蒸気が吹き出しそうになる。美しく洗練された最高クラスの女が、目の前で裸をさらしている。好き放題してよいという許可まであった。喜びに満ち溢れた胸が、四散しかねないほどに高鳴った。
本能の赴くままにむしゃぶりつこう――と実行に移しかけたのだが、アーセルは僅かな自制心を残していた。彼は『童貞の呪い』を忘れたわけではなかった。
「お前ら、今回だけは目をつぶってくれよ。こんないい女とアレコレできるだなんて、人生に2度と無いんだしさ」
彼は『口うるさい精霊たち』の慈悲にすがろうとした。更に続ける。
「童貞を捨てなきゃ良いんだろ。だったらあれだ。腰から上はオッケーにしようぜ。とりあえず生チチってやつを堪能して――」
そこまで呟いて、口をつぐんだ。ここでようやく気づいたのだ。いつも漂う気配が全くないことに。
「サラマンド?」
問いかけるが、声のひとつも聞こえなければ、姿も見えない。
「ノエイラ? おい、拗ねてんのか?」
そちらも返事がなかった。アーセルの腹に、ぞくりと冷たいものが落ちていく。だが彼は焦らなかった。
「はいはい、お前ら怒っちゃったのね。少しくらい勘弁してくれよ。たまには羽目を外してハメるくらい……」
アーセルは懐から叡智の書を取り出した。そして開くのだが、彼は思わず絶叫を響かせてしまう。
「なんだこれ! どういう事だよ!?」
叡智の書はどこを開いても白紙だった。本来なら、細かな術式や図式が事細かにビッシリと書き込まれていたのだ。精霊たちの挿絵もあったはず――しかし今はそれすらも忽然と消えていた。文字の1つさえ見つからない。
アーセルは膝から崩れ落ちた。そして何も言えなくなり、床を見つめては喘ぐような声をもらした。多幸感をもたらした酒の酔いも、瞬時に吹き飛んでいった。




