第9話 土の精霊ノエイラ
自由気ままな旅――それは新鮮な喜びを与えてくれた。四十路まで村から出たことがないアーセルには、見かける全てが真新しい。発見の連続が心地よくて堪らなかった。
「みろよサラマンド! 変な形の根っこだ!」
「あ〜〜そうだな」
「うおっ! なんだこの岩? くぼみが椅子に使えそうだぞ!」
「あのさぁ、先急ごうぜ? 全然進めてねぇんだが」
「おお〜〜! こんなところに滝が! 喉乾いたーー!」
「聞けよ中年オヤジ!」
アーセルは瞳を輝かせては、興味の赴くままに駆け回った。頭頂に結った黒髪の毛束も、野生動物の尻尾のように振り乱される。
「生きてる! 生きてるなぁオレ、あはは!」
旅とは思えないほどの享楽ぶりを見せたアーセルは、森の中で夜を迎えた。鬱蒼と茂る森、しきりに鳴く野鳥や羽虫たちに囲まれながら、焚き火の前で腰を下ろす。その頃には別人のように大人しくなっていた。
「メシ、こんだけかよ……」
時を忘れて遊び呆けたがために、宵越しの準備が出来ていない。夜の闇とともにひもじさが襲いかかってきた。焚き火はサラマンドの手助けもあって容易だが、それ以外は散々だった。
皮袋には真水が半分ばかり。他には、辛うじてかき集めた木の実が数個だけ。これが初日の晩餐になった。
「こんなことなら、出発する時に干し肉でも買っておくんだった……」
「反省しろアーセル。おっぱいの味とか言ってるからだ」
「つうかさ、こんな時こそ魔術で解決できねぇの? 例えばホラ、メシをドバーーッと出してみたり」
「そこまでのは無いが、食料対策みたいなのはあるぞ」
「んだよ、あるなら先に言えっての」
アーセルが懐から叡智の書を取り出すと、隣でサラマンドがめくれと指示をする。そして開かれたページには、挿絵に美しい女が描かれていた。
「土精霊ノエイラ……?」
「そう。オイラは炎を司り、こいつは土だ。フォーンドートって魔術があれば、付近にある食い物とか、目ぼしいものを探せるぞ」
「いいねいいね! 使えそうじゃん美人だし! どうやったら喚び出せる?」
「声をかけりゃ出てくるんじゃね。たぶんな」
「マジかよ早く言えこのやろ。こんな美女が手元にいたなんて知らんかったぞ」
「呼びつけるのは良いが、言葉には気をつけろよ。ノエイラは堅物だからな」
アーセルはすかさず名を呼んだ。すると石扉でも開くような重たい音とともに、開かれた書物の上に姿を現した。
土の精霊ノエイラ――新緑を思わせる緑色の長い髪に花飾りのサークレット。大きな瞳は黒目がち、草編みのドレスは腰を植物のツルで細く絞っている。
身体のサイズはサラマンドと同様に、小人とも言えるものだ。しかし小さくとも妙齢の美女である。アーセルはとたんに鼻息を荒くした。
「おおーー! トカゲよりよっぽどいいね、こっちメインにしようぜ!」
手を打ち鳴らすほどに絶賛するのだが、ノエイラの反応は悪い。彼女は顔を曇らせて、袖で口元を隠していた。
明らかな嫌悪を見せつけられたのだが、この男に自重という概念は薄い。
「いやあ、はじめまして。あの、なんだ、良いおっぱいしてますね」
アーセルは叡智の書に顔を近づけて、ただ一点を凝視した。ノエイラの胸元――深い谷間の刻まれたデコルテだけを。
するとノエイラはようやく口を開いた。ただし告げられたのは、絶縁状に等しい言葉だった。
「なんて無礼で、汚らしいニンゲン」そう呟くとともに姿を消してしまった。
「えっ、おい、どういうこと!?」
「あ〜〜ぁ、予想通り。お前、他の精霊にはあんまり好かれてないっぽいな。水や風なんて、挨拶にすら出てこないし」サラマンドが呆れ半分に言った。
「何だよそれ、叡智の書の所有者なんだが?」
「そもそも精霊とは親和性が大事で、気質が合わなきゃご覧の通りだよ。契約に逆らうだなんてよっぽど嫌われてんな」
「精霊との親和性ってなんだよ」
「まぁキャラが近いとか、気が合うとか。たとえばノエイラは『共存や調和』を重視してるが、お前は――」
サラマンドが視線を鋭くすると、アーセルは静かに顔を背けた。
「望み薄だよな。女をジロジロ見るし、嫌われてたし。ノエイラの反応も仕方ねぇわ」
「うるせぇな、オレなりに生きてきた結果なんだよ」
「つうか言葉を選べって言ったよな? なんだお前、おっぱいって!」
「ちゃんと褒めただろ、事実をありのままに」
「マジで終わってんなお前の倫理観! こんなんじゃ先が思いやられるわ!」
「うるせぇバカが! もう寝る!」
その場でアーセルはふて寝を決め込んだ。視界の先には、切り取られたように小さな星空が見える。そうして思い出されるのは孤児院の日々だった。
「みんな元気かな……」
早くもマリーの手料理が懐かしい。スープの具材にニンジンが出てくる事が多かったが、それは摘んでジャクソンの器の中へ――。すかさず最低おじさんと罵られるのだが、今ばかりはそれすらも愛おしい。
恵まれていたのだ、自分は。満足に食べられる事は幸せだった。それを空腹が教えてくれた。まともな食事が欲しい、食材が足りない、土魔法が必要だ。つまりはノエイラ――求めるはノエイラだ。
延々と考えを巡らせたアーセルは、寝転びながら尋ねた。
「なぁサラマンド」
「なんだよ。もう機嫌が治ったのか」
「ふと気になったんだけど聞いて良い?」
「もったいぶるな。サッサと聞けや」
「オレは童貞を捨てたら魔術が使えなくなる。清らかさを手放すから――そう言ってたよな」
「その解釈であってる。それが?」
「ノエイラちゃんが相手なら許されたりしない? なんか不思議な力が働いて、清らかさはキープできるとか」
「うわぁお前、何でもありかよ……まさか精霊に欲情するとか。見境なしか?」
「どうなんだよ。身体のサイズが違うとか、色々と壁はあるけどよ。そこはどうにかしてクリアしたらさ」
「知らねえし、聞いたこともねぇし。それより良いのか? この会話も聞かれてると思うが?」
「ごっ、ごめんノエイラちゃん! 今のは嘘、いや嘘ってほど嘘じゃないんだ! 君ってば美人だし、舐め回したいくらい良い身体してるし!」
「やめろやめろ! 喋るほど墓穴が深くなってる!」
金欠のアーセルにはノエイラの助けは必須だ。しかし相性の悪さ、そして絶望的な倫理観により、その恩恵は遠ざかってしまう。
2人の不毛な言い争いは、アーセルが睡魔に負けるまで続けられた。問題はカケラも解決しないままに――。




