第九話『代償』
柔らかなシーツの感触と、消毒液の匂い。
私が次に目を覚ました時、そこに広がっていたのは、見慣れた協会の医務室の天井だった。
身体を起こすと、驚くほどに軽い。あれほどの傷を負ったはずなのに、痛みはどこにもなく、むしろ戦う前よりも力がみなぎっているような感覚すらあった。
「目が覚めたポムね!」
ベッドの傍らで、丸っこい妖精――ポムが、心配そうに私を覗き込んでいた。
その手には、電子カルテのようなものが握られている。
「……私、どうなったんだっけ」
「ひかりたちが、そよぎをここまで運んできたポム。すぐに最高の治療を施したから、傷一つ残ってないはずポム」
「そう。みんなは?」
「別室で休んでるポム。みんな、そよぎのことが心配で、ずっと付きっきりだったポムよ」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなる。
私は自分の右腕に目をやった。そこには、やはり、あの黒い呪印が蠢いている。
「……これ、やっぱり消えてないんだね」
「……うん」
ポムの表情が、曇る。
「みのりの呪印は、ディストの消滅と同時に完全に消えたポム。彼女の身体も、もう大丈夫。精神的なケアは必要だけど、すぐに元気になるポム。……でも、そよぎの呪印は、違うポム」
ポムは、電子カルテの画面を私に見せた。
そこに表示されていたのは、私の身体の解析データと、衝撃的な文字列だった。
「本来、術者を失った呪印は力を失って消滅するはずポム。でも、そよぎはディストの魔力と瘴気を、あまりにも過剰に、しかも直接体内に取り込んでしまったポム」
「……うん」
「その結果、呪印が変質してしまったポム。ディストという術者から独立し、そよぎ自身の魔力と完全に融合して……そよぎを、新しい『主』として認識し直したポム」
「私が、主……?」
「そうポム。そして、呪印は新しい主のために、その役割を果たそうとしているポム。本来、この呪印は魔法少女を『淫魔』との交配に適した肉体を改造するものポム。でも、主となったそよぎに対しては違うポム」
ポムは、一度言葉を切り、意を決したように続けた。
「呪印は、そよぎを『主』に相応しい肉体……つまり、新たな淫魔そのものに、作り変えようとしているポム」
淫魔。
その言葉に、私はさすがに目を見開いた。
「このまま進行が進めば、そよぎは人間じゃなくなってしまうポム。吐血したのも、そよぎの肉体が、人間のものから別の種族のものへと、内側から変異を始めている影響ポム」
「……」
言われてみれば、確かにそうだ。
あれだけ吐血したというのに、妙に体調がいい。
それは、私が淫魔の特性である、驚異的な再生能力を獲得しつつある証拠なのだろう。
「……ウケる。私が淫魔ねぇ」
私は、乾いた笑いを漏らした。
もっと、取り乱すかと思った。でも、不思議と心は落ち着いていた。
どこかで、こうなるかもしれないと、予感していたのかもしれない。
「……それで? 私はどうなるわけ? 淫魔予備軍なんて危険因子、野放しにされるはずないよね」
私は、一番重要なことを尋ねた。
淫魔に変質しつつある魔法少女。協会にとって、それは『淫魔』と同義の討伐対象でしかない。
ポムは、私の問いにぶんぶんと首を横に振った。
「本部にはまだ報告してないポム! 協会の上層部がこのことを知ったら、そよぎがどうなるか……考えただけでも恐ろしいポム!」
そして、ポムは私のベッドに飛び乗ると、小さな手で私の手をぎゅっと握りしめた。
「でも、安心してほしいポム! 僕が、絶対にそんなことはさせないポム! そよぎの呪印のことは、僕の権限で箝口令を敷いたポム! 必ず、必ず解決策を探してみせるから……だから、希望を捨てないでほしいポム!」
その瞳は、必死だった。
いつもは役立たずだの、丸いだけだのと思っていたこのパートナーが今、私を守るために巨大な組織に立ち向かおうとしている。
「……ふふっ」
思わず、笑みがこぼれた。
「あんた、意外と頼りになるんじゃん」
「当たり前ポム! 僕は、そよぎのパートナーだポム!」
ポムの温かさが、じんわりと心に染みた。
その時、医務室のドアが、控えめにノックされた。
「……そよぎちゃん」
医務室のドアを開け、おずおずと入ってきたのは、みのりだった。
その後ろには、ひかりもいる。二人とも心配そうな、そしてどこか申し訳なさそうな顔をしていた。
みのりの腕にはもうあの禍々しい呪印はない。顔色も良く、少なくとも肉体的には完全に回復しているようだった。
「……みのり。身体、もういいの?」
私がそう尋ねると、みのりはこくりと頷いた。
「うん……。もう、なんともないの。それより……」
みのりは私のベッドのそばまで来ると、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい……! 私のせいで、そよぎちゃんがこんなことに……!」
その声は、震えていた。
彼女は、私が呪印に侵されたのも、あの無茶な戦法を取ったのも、全て自分を助けるためだと思い込んでいるのだ。まったく、どこまでもお人好しな子だ。
「やめなよ、水臭い。あんたのせいじゃないでしょ」
私がそう言うと、ひかりも慌ててみのりの肩を支えた。
「そうだよ、みのり。これは私たちみんなの問題なんだから」
ひかりは私に向き直ると、決意を秘めた顔で言った。
「ポムちゃんから、少しだけ聞いたよ。そよぎの腕の呪印のこと。……消えない、って」
「……うん、まあね」
私は、さも大したことではないかのように、肩をすくめてみせる。淫魔化のことまで話しているはずはない。ポムがそんなヘマをするはずがないからだ。……ないよね?
ちらりとポムに視線を向ける。丸っこい毛玉が先ほどの電子カルテを背中に隠して口笛を吹いてるのが見えた。本当に大丈夫か、こいつ。
「でも、絶対に方法はあるはずよ! 私たちも、絶対に諦めないから! ね?」
ひかりの真っ直ぐな瞳が、私を射抜く。
ああ、まただ。
この、キラキラした正義感。
鬱陶しいとさえ思っていたのに、今はなぜか、その光が少しだけ暖かく感じる。
「……そよぎちゃん」
みのりが、涙ぐんだまま、私の手を取った。
「私ね、呪いに操られてた時、すごく怖かった……。でも、意識の奥でそよぎちゃんが助けに来てくれたのが、分かったの。すごく、心強かった……」
「……」
「だから今度は、私がそよぎちゃんを助ける番。何でもする。だから、一人で抱え込まないで……」
みのりの温かい涙が、私の手の甲に落ちる。
その純粋な感謝の言葉が、私の心の奥にある、黒くて硬い何かを、少しだけ溶かしていくようだった。
(……嘘つき)
私は、心の中で自分を罵った。
違う。私は、お前を助けるために戦ったんじゃない。
自分のプライドと、エゴと、そして金のために、ディストを道連りにしようとしただけだ。
お前たちのことなんて、きっと、どうでもよかった。
それなのに。
「……ごめん」
私の口から、また、苦し紛れの謝罪がこぼれた。
「心配、かけたね」
私は、精一杯の笑顔を作って見せた。
大丈夫だよ、と。心配いらない、と。
その嘘で塗り固めた笑顔を見て、みのりとひかりは、少しだけ安堵したように微笑んだ。
彼女たちが部屋を出て行った後、医務室には、私とポムだけが残された。
静寂の中で、私はずっと握りしめていたシーツを見つめていた。
そのシーツには、みのりが落としていった涙の染みがまだ残っている。
「……ポム」
「……なにポムか?」
「私さ……あの子たちに、全部話しちゃった方が、いいのかな」
私が淫魔になりかけていること。
私が、本当はどんな打算で動いていたのか、ということ。
全てを打ち明けて、幻滅された方が、あるいは楽になれるのかもしれない。
ポムは、私の問いに、静かに首を横に振った。
「今は、まだその時じゃないポム。呪印のことはトップシークレットポム。情報を共有する人間は可能な限り少ないほうがいいポム」
「……」
「だけど……」
ポムは、私の顔をじっと見つめて、言った。
「もし真実を知ったとしても、ひかりたちはそよぎを見捨てたりしないポムよ」
ポムの、何の迷いもない言葉。
それが、なぜか私の胸にすとんと落ちた。
そうだ。あいつらは、そういう奴らだ。
たとえ私が淫魔になりかけていようと、どんなに汚い本性を晒そうと、きっと「それでもそよぎは仲間だよ!」なんて、暑苦しいことを言うに決まっている。
そのお人好しさが、今は少しだけ、救いだった。
「……まあ、どうだかね」
私は素直になれず、そっぽを向いた。