第七話『風の魔法少女』
ディストの唇は、灼熱の鉄のように熱かった。
無理やりこじ開けられた唇の隙間から、粘つくような舌が侵入してくる。それはただの口付けではなかった。濃密な瘴気が、甘い毒が、私の口内から全身へと直接注ぎ込まれていく。
「んんっ……!? んぅうううっ……!」
抵抗しようにも、身体の自由は奪われている。
ディストの腕は鋼のように固く、私を抱きしめて放さない。
そして、注ぎ込まれた瘴気に呼応して、腕の呪印が、これまでとは比較にならないほどの激しい快感の奔流を全身に送り込んできた。
意思とは無関係に、私の身体が獣のように跳ねる。腰が勝手に動き、ディストの身体に擦り付けようとする。脳髄が痺れ、思考が溶け、快楽の色に塗りつぶされていく。
目の前で、仲間たちが息を呑むのが見えた。
「テメェ、そよぎに何をするッ!」
最初に動いたのは、やはりほむらだった。
怒りの炎をその身に纏い、一直線に突っ込んでくる。
「紅蓮、爆炎衝!!」
灼熱の炎の塊が、私ごとディストを焼き尽くさんと迫る。
「無駄だ」
ディストは私を抱いたまま、片手を軽く振るった。
それだけで、ほむらの全力の一撃は、まるで風に吹き消される蝋燭の炎のように、あっけなく霧散した。
「なっ……!?」
「格が違うのだよ、小娘」
ディストは嘲笑し、私のワンピースの肩紐を、ゆっくりと、見せつけるように引き裂いた。
ビリッ、という生々しい音。
晒される、肩と胸の谷間。
冷たい空気に肌が触れる羞恥と、それすらも塗りつぶす呪印からの快感に、私の喉から「ひぅっ」と情けない声が漏れた。
「やめてッ!!」
ひかりの悲痛な叫びが響く。彼女の瞳には、怒りと、そして信じられないものを見るような絶望の色が浮かんでいた。
私が、仲間が彼女たちの目の前で、敵である淫魔に嬲られている。その事実が、彼女の心を容赦なく抉っているのが分かった。
(……こんなはずじゃなかったのになぁ)
暴力的な快楽に蕩かされながら、心のどこかで冷静な私が呟く。
もっとスマートに事を運べるはずだった。
協会の機密情報、情報屋から仕入れた下準備。諸々を上手く扱えばディストに取り入れると思っていたのに。まさか交渉のテーブルに着くことさえできないとは。
全てを道連れにする魔女になるつもりが、これじゃ囚われのお姫様だ。
笑い種にもならない。
(……まだ、終われない)
堕ちると決めたはずなのに。
道連れにしてやると、邪な考えを抱いたはずなのに。
いざ仲間たちの前でこの無様な姿を晒されると、羞恥心と罪悪感が、快楽の波間で息も絶え絶えに最後の機会を窺わせる。
「ライトニングボルト!」
「ウォータープリズン!」
アキラと しずくも、連携して攻撃を仕掛ける。迸る電撃と、敵を拘束する水の檻。
だが、それらも全て、ディストが放つ瘴気の壁に阻まれ、届かない。
「ククク……良いぞ、良い顔だ。その絶望、その無力感! それがお前たちの仲間を、より甘美な存在へと熟成させるのだ!」
ディストは高らかに笑い、今度は私のミニワンピースの裾に手をかけた。
「さあ、次の儀式だ。お前たちの前で、この風の魔法少女の全てを暴き、我が印で満たしてやろう……!」
その言葉の意味を理解した瞬間、私の血の気が引いた。
駄目だ。
それだけは。
仲間たちの目の前で、そんな……。
「い、いやっ……! やめてっ……!」
初めて、本心からの拒絶の言葉が口をついて出た。
だが、その抵抗すらも、ディストにとっては最高のスパイスでしかない。
「そうだ、もっと啼け! もっと抵抗しろ! その悲鳴が、お前を最高の苗床へと変えるのだ!」
ディストの指が、ゆっくりと、私の最後の砦である下着の布に触れる。
思考が、絶望に白く染め上げられようとした、その刹那。
「――聖なる光よ、邪を穿て! ホーリーアロー!」
一筋の、眩い光の矢が、音もなく飛来した。
それは、他の三人のような派手な攻撃ではない。だが、純粋な聖属性の魔力を極限まで圧縮した、対淫魔の切り札。ひかりの、希望の一矢だった。
ディストは迫る光矢に気づき、瘴気の壁を展開する。だが、光の矢は壁に阻まれても消滅せず、その一点を穿たんと、甲高い音を立てて拮抗する。
「チッ……!」
ディストがわずかに舌打ちし、瘴気を強めた瞬間、光の矢は霧散した。
だが、完全に防ぎきれたわけではなかった。
ディストの頬を、一筋の光が掠め、ジュッと肉の焼ける音と共に、浅い傷が刻まれた。
ほんの、僅かな傷。
だが、絶対的な強者であるディストにとっては、蝿に刺された以上の屈辱。
そして何より、私を弄んでいた甘美な時間が、中断された。
彼の意識が、完全にひかりへと向けられる。
「……小娘が。我が顔に、傷をつけたな……」
地を這うような、低い声。
それは、先ほどまでの愉悦に満ちた声とは全く違う、純粋な殺意の波動だった。
「良いだろう。遊びは終わりだ。貴様らには、我がペットたちの餌となる栄誉を与えてやる」
ディストが指を鳴らすと、空間が歪み、禍々しい瘴気と共に、四体の上級淫魔が召喚された。
それは、さながら地獄の番犬。ひかりたち四人を、確実に仕留めるためだけに呼び出された処刑人だ。
絶望的な戦力差。仲間たちの顔に、死の色が浮かぶ。
だが、その瞬間こそが、私が待ち望んだ、唯一の活路だった。
ディストの注意が、仲間たちに向いている。
私への警戒が、一瞬だけ、緩んでいる。
そして、彼は今、最高に気分を害している。そんな男を丸め込む方法は、一つしかない。
私は、蕩けきっていた表情を一変させ、うっとりとした恍惚の眼差しで、ディストを見上げた。
そして、甘く、媚びるような声で、彼の腕にすり寄った。
「……ディスト、様」
「……なんだ」
「私に、チャンスをくれませんか?」
私は、彼の胸に頬を寄せ、うなじを見せるように首を傾ける。絶対的な服従のポーズ。
「私がひかり達を……あいつらとやっつけて、ディスト様の前にひれ伏せさせます。必ず貴方好みのショーになるとお約束できます」
ディストは、訝しげに私を見下ろす。
「……ほう? それで、貴様は何を望む?」
「見逃して欲しい、とは言いません。だけど、少しだけ猶予が欲しいです」
それは、最高に甘美な提案のはずだった。
自分の手駒となった魔法少女が、かつての仲間を蹂躙する。彼の嗜虐心をくすぐらないはずがない。
ディストの口元が、歪んだ笑みに吊り上がった。
「ククク……保身のために仲間を売るつもりか。面白い! やってみせろ! 我を愉しませてみせろ、そよぎ!」
許可は、下りた。
私はディストの腕からそっと離れると、絶望に染まる仲間たちに、ゆっくりと振り向いた。
「そよぎ……? 嘘だよね……?」
ひかりが、信じられないものを見る目で、私に問いかける。
私は、彼女たちに、悪魔のように妖艶な笑みを向けた。
「ごめんね、ひかり。私、ずっとあんたのそういうところが、大嫌いだったんだ」
私は天に手を掲げ、変身の口上を紡いだ。
「――ドレスアップ、シルフィード」
私の身体を、翠色の風が包み込む。
魔法の箒が頭上に顕現し、宙を旋回しながら私の手の中に納まった。
ここまでは、いつも通り。
だけど、衣装の方は普段と様子が違っていた。
普段の外套とチェニックの代わりに、肩を露出した黒地のキャミドレスが肌を包んでいる。
呪印の、影響だろうか。ちらりと腕に目を向ける。煌めく黒い紋様は、最後に見たみのりのそれよりずっと濃く、強く脈動していた。
恐らく、育ちきっている。
「そよぎ……お前、それ……」
ほむらたちが、愕然とした表情で私の呪印を見つめていた。
「似合ってるでしょ? 心配しなくても、あとでちゃんとお揃いにして貰えるよ」
わざとらしい仕草で腕を掲げ、黒々とした呪印を仲間たちの前に見せつける。
その痣が焼きごてのように視線を集めるたび、胸の奥がじくりと疼いた。
怯えと嫌悪、混じる疑念――みんなの顔がどんどん歪んでいくのが、逆に心地よかった。
「私さ、呪印が移されたって気づいた時、思ったんだ。私だけ苦しい思いをするなんて、不公平だって。だからさ、道連れがほしくなっちゃったわけ」
自嘲気味に肩を竦めてみせる。
「私、みんなと違って性格悪いからさ。ひかりのきらきらした目が絶望に沈むのを見てみたくなった。負けん気の強いほむらが快楽に溺れて惨めに媚びへつらうのも、いつも冷静なしずくが馬鹿みたいに喘がされて泣き喚くのも、全部見たくなった」
呪印が黒く光る。私の負の感情を貪って、更に成長を続ける。
完成した呪印は忠実にその役割を果たそうとするだろう。
『さらに上質な魔力を求めて、根を伸ばす』性質。この場で一番魔力総量が多いのは、果たして誰になるだろう。
「でも、私が一番見たかったのはね……」
上機嫌なディストに、私はそっと手を伸ばし、その胸に触れた。感謝と忠誠を示す、ごく自然な仕草で。
狡猾なディストのことだ。彼はきっと、呪印が術者本人にまで影響を及ぼすようなヘマはしないだろう。
セーフティは存在しているはず。だけど、それは呪印が『まともな状態』だったらの話。
私の魔力に呼応して、腕で蠢く呪印を囲むように、淡い翠色の魔法陣――念入りに仕込んだ『化粧』が浮かび上がる。
それは昔、興味本位でネオン街の情報屋から仕入れた厄ネタ。魔法を暴走させて、制御不能にする術式。
触れた手のひら。接触した一点から、暴走した呪印の根がディストへと伸び、絡みつく。
……繋がった。暴走した呪印の根が、ディストのセーフティを突き破り、彼の魔力の源泉へと、牙を剥いて絡みついた。一か八かの賭けだったけど、運は私の味方だったらしい。
ディストの愉悦の表情が一瞬にして強張る。気づかれた。でも、もう遅い。
「――ディスト、あんたの吠え面だよ」
絡み合った呪印の根。私とディストの魔力が共鳴し、境界が曖昧になる。
呪印の根は巨大なポンプのように、ディストの体内から凄まじい勢いで魔力を吸い上げ始めた。
彼の膨大な魔力が、呪印を通して濁流となって私の身体へと流れ込んでくる。
暴走した呪印は、その莫大なエネルギーを、私の制御すら振り切って、一つの巨大な魔法へと強制的に練り上げていく。
私の身体が、器の限界を超えた魔力で悲鳴を上げる。
皮膚が裂け、血が滲み、骨が軋む。
腕の呪印は狂喜するように爛々と輝き、焼き焦がすような快楽が全身を駆け巡る。
だが、その苦痛と引き換えに得られる全能感に、私の口元は歓喜に歪んでいた。
「逆巻け――タイラントヴォーテクス!」
私の叫びの直後。暴風が、世界を飲み込んだ。